あんな荒野のど真ん中・5
毎度更新が遅くてすみません。
今回はけっこう長いです。
自分の前にでんと置かれた皿を、木乃香はぽかんと見つめた。
柔らかく煮込まれた野菜や肉と思われるものがごろごろ入った煮込み料理である。
スープと言うにはどろりとした、けれども口に運ぶには間違いなくスプーンが必要になるであろうそれは、他の具材の色を塗りつぶすほど濃い茶色をしていた。
スープ皿よりも大きく平たい食器の上、どろどろスープの真ん中が不自然に盛り上がっているのは、その下にほかほかの白米が隠れているからだ。
少しばかり刺激のある独特の香りが、食欲をそそる。
脇には、白っぽい野菜の酢漬けまで添えられていた。
ある意味素朴で、そして非常に懐かしいそれに向かって、彼女は呟く。
「……どう見てもカレーライス、だよねえ」
フローライド王立魔法研究所には、小規模ながら食堂がある。
最寄りの集落までの距離が遠いのと、生活が不規則になりがちな住人達の最低限の栄養確保のため、そこで昼夜を問わず食事を提供しているのだ。
日本と同じ、一日に三食を食べる習慣があるフローライド王国だが、ほとんどの研究者たちはそもそも昼夜の区別すらない。
研究優先といえば聞こえはいいが、要するに食べたいときに食べて寝たいときに寝ているのである。
時間があれば木乃香と一緒に食堂に来てくれるラディアル・ガイルとシェーナ・メイズも、例外ではない。彼らも今はそれぞれ研究に忙しいらしく、今日の食事は木乃香ひとりだ。
ラディアルは知らないが、シェーナのほうは木乃香の部屋の隣にある自室にも帰っていないようだった。
研究室に缶詰状態で数日間顔を見ない、というのもいつもの事なので、最初こそ心配していたがもう慣れてしまった。彼女のことだ。倒れない程度にうまくやっているだろう。
そんな研究熱心な、あるいは自分勝手な住人たちのため。
食堂では、何種類か用意された主食やお惣菜を好きに取り分けて食べる、バイキング形式をとっている。
バイキング形式、と言えば聞こえはいいが、つまりは昼間通いの料理人に作ってもらった料理の大皿を、好きに食えとばかりに一日中置きっぱなしにしているだけだ。
時間が経っても味も鮮度が落ちず、温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいままで頂けるからこそだとは思う。これも魔法のおかげである。
料理は食堂で食べるも部屋に持ち帰るも自由で、トレイや皿と一緒に持ち帰り用の折詰まで置いてあった。もろもろの要因で部屋から満足に出ることが出来なかった時期は、木乃香も大変お世話になったものだ。
そしてありがたい事に、この世界に来てから木乃香は食べ物に違和感を抱いたことがない。
それなりの人数がいるという“流れ者”の影響か、もともと食文化が近いのか。主食だけでも米のほかにパンや麺類など、実に多様だ。副菜も同様で、見慣れない食材も見かけるがよく似た食べ物だって多く、とくべつ極端な味や色をしているわけでもない。
土地柄、新鮮な食材や魚介類などは手に入りにくいとのことだったが、それでも葉物野菜や瑞々しい果物だってちゃんと出るのだ。そしてなんと無料。これで文句を言えば罰が当たる。
で、本日のこのカレーライスである。
木乃香の姿を見つけたとたん、料理人のひとりであるおばさんがわざわざこれを彼女の前に運んできた。基本バイキングだというのにだ。
そのときの生温かい笑顔が少し引っかかったが、おばさんの作る料理にハズレがないのは知っているので、ありがたく頂くことにする。
「カレーライス、だよねえ……」
ひと口食べて、化かされた気分で繰り返す。
まさか、異世界へ来てカレーライスまで食べられるとは。
付け加えるなら、それは辛みが少ないお子様カレーである。普段からあまり辛い味付けの料理は出ないので、辛い調味料や香辛料が手に入りにくいか、あるいは好まれないのかもしれない。
ぱく、ぱくとふた口ほど飲み込んでから、ふと思い出して、席を立つ。
その直後、なぜか厨房の奥からがったーん、と椅子が倒れるような音が響いた。
「やっぱりそれ、不味いのかい?」
厨房の騒音を気にしながらも、なぜかこちらを不安げに見守っていたおばさんが聞いてくる。
やっぱりってなんだ。
内心で首をかしげながらも「いいえ美味しいですよ」と返せば、さらに気の毒そうに顔をしかめられた。
……なぜだろう。
「ほかのおかずを取ってこようかと思って。これ、味が濃いので、何かさっぱりしたものが欲しいかなと。あと、飲み物」
「そうだねえ。なんだかドロドロだし、色も悪いし。“流れ者”のお国料理だっていうから作るのを許したんだけど、失敗なのかね?」
「……いえ。カレーライスなら、大体こんなドロドロですよ」
おばさんの様子から察するに、珍しい料理なのだろう。
どうやら木乃香と同じ世界から来た“流れ者”の誰かがこの世界でカレーライスを再現し、そのレシピをもとに作られたのが目の前のコレらしい。
いつも市販ルーで作っていた木乃香にしてみれば、食材が似ているとはいえ異世界へ来てまでカレーライスを再現しようとするその根性がすごいと思う。
それにしても、口ぶりからするとカレーはおばさんが作ったものではないらしい。
それなら厨房の奥から滅多に出てこない旦那さんだろうか。あるいは隔日くらいで手伝いに来ている調理見習いのお兄さんだろうか。
おばさんの口ぶりでは一般的にも知られた料理ではなさそうなのだが―――。
そんなことをつらつらと考えながら、席に戻りもくもくと再び食べ始めたときである。
「それが、正式な食べ方なのか?」
「……っ、げふっ」
どこか感心したように、厨房から声をかけられたのは。
非常に聞き覚えのある、というかつい最近まで執拗に追いかけ回されていた声に、木乃香は思いっきりむせた。
さして特徴もない、強いて言うなら平坦すぎるほど平坦な声だが、しつこく話しかけられていればさすがに覚えてしまう。
例の、ストーカーもどきの魔法使いのひとりである。
名前は、知らない。
忘れたわけではないと思う。顔を見れば何の前置きもなく“流れ者”に対する質問を雨あられのようにぶつけてくるくせに、この魔法使いから自己紹介された記憶がないのだ。
いつも追い払ってくれるシェーナ・メイズも変態だの研究バカだの呼んでいるので、木乃香は顔を知ってはいても名前はいまだ知らないのだった。
所長ラディアル・ガイルによる罰則付き接触禁止令発布から、それまでが嘘のように周囲が静かになり、彼らの姿まで見かけなくなっていたのですっかり油断していた。
しかも、いま彼女が着ているのは白っぽいワンピースである。お古とはいえ、せっかくシェーナ・メイズからもらったそれにカレー染みをつけるわけにいかない。
「白米に“かれい”スープをかけた。それは“かれいらいす”だろう」
とっさに口を手の平で覆い耐えているというのに、声をかけた側は彼女のそんな状態に気付く様子もなく、構わずに話しかけてくる。
いや、話しかけているのか単なる独り言か、それもいまいちわからない。
どこからか取り出したのか、彼の手にはいつの間にか分厚い書物があった。ぺらぺらとページをめくり“かれい”“かれい”と繰り返しぶつぶつ呟いているのだが、もしかして書物はカレーの本なのだろうか。それとも“流れ者”の食生活にでも関する文献か。
「“らっきょー”“ふくしんじけ”は確認しているが……“かれい”に卵料理を合わせるなど、文献にはなかった。ミアゼ・オーカは違う“かれい”文化を持つ国から来たというこ―――げほっ!?」
「……いい加減にしなあんた」
ばしっと大きく情け容赦のない音があたりに響き、今度は彼がぐほっとむせる。
厨房係のおばさんの大きな手が、灰色マントに覆われた薄い背中に力いっぱい命中したのだ。
絶品ふわふわもっちりパンを作り出すふっくらとした手は、今度は木乃香の背中をやさしくさすりながらテーブルに置かれた水の入ったコップを差し出す。
「大丈夫かい? ……あんた。この子に悪い事をした、謝りたいって言うから協力してやったっていうのに何だい。いつまでたってもごめんのゴの字も出て来ないじゃないか」
「あ、す、すまない……」
「それは、いったい何に対しての謝罪だろうね」
慌てて彼は本を閉じるが、おばさんはふんと鼻を鳴らす。
「この子を何度も追いかけ回して怖がらせた事かい。いつも美味しそうにあたしの料理を食べてくれたこの子に何回も突撃して、落ち着いて食事もさせなかったことかい。いま、何の前置きもなく話しかけて驚かせたことかい。人がむせて苦しんでるっていうのに分厚い本なんぞ取り出して勝手に観察して勝手に思案してたことかい。それとも、この忙しいのに“かれい”とやらを手伝ってやったあたしの同情と思いやりを踏みにじった事かい」
「…………」
もはやごめんのゴの字も言えない雰囲気である。
そもそも、謝りたかったというのは本当なのだろうか。
木乃香は内心で大きく首をかしげ、呆れかえった。
おばさんの言う通り、そんな素振りはかけらもなかった気がするのだが。
「所長様に頼んで、食堂も出入り禁止にしてもらおうかしらねええ」
「い、いやそれは……っ」
先ほどの饒舌ぶりはどこへやら。彼は、「あの、その、だから」と意味を成さない言葉をおろおろと繰り返している。
声と同じ実に淡白な、なにを考えているのか皆目わからない表情は変わらないので、誤作動を起こした人型ロボットのようだ。もともとあまり表情筋が動かせない性質なのかもしれない。
そういえば、とコップに手を伸ばしながら木乃香は思う。
しこたま観察されてはいたが、逆に相手をじっくりと見たのはこれが初めてだ。
いつかのように速攻で逃げようと思わなかったのは、口から入ったカレーライスが本来とは違う場所に入りかけてその機会を逃したからと、厨房のおばさんという実に頼もしい壁が間にあったから。
そして、ここしばらく周辺が静かすぎたことで、うっかりこの騒がしさが懐かしいなどと思ってしまったからだった。
「オーカちゃん。あんただって迷惑だろう?」
「困ったなあ、とは思います」
「………っ」
「だよねえ。食事くらい落ち着いて食べたいだろうに。ここの男どもはまったく気配りがなってないよ」
魔法使いは、この国ではエリートの代名詞だと聞いたような気がするのだが。
シェーナ・メイズといい、彼らを近くで見ている女性陣の評価は実に低い。そして木乃香も、残念ながら彼女たちと同意見だった。
魔法使いはもはや何も言えず、死刑宣告を待つ罪人のように青い顔をしていた。
自炊ができない研究者たちにとって、食堂への出入り禁止措置はさすがに厳しい。少々気の毒になった木乃香は、仕方なく口を開いた。
「あの、とりあえず。えーと、お名前なんでしたっけ」
「あ」
彼はようやく思い当たったとでもいうように小さく声を上げる。
それに怒りを通り越して非常に残念なものを見る目つきになったのは、厨房のおばさんである。
「……あんた、あれだけ追っかけまわしておいて名乗ってもいなかったのかい」
「そ、のようだ」
まあ、名乗っていないのはお互いさまである。もっとも、初対面から前置きなしに「ミアゼ・オーカ!」とフルネームで呼び捨てにされ質問攻めに遭ったので、自己紹介する機会はなかったわけだが。
「……ジント・オージャイトという。好きに呼んでくれて構わない」
「じゃあ、ジントさん」
「な、なんだ」
木乃香は、スプーンでカレーを指し示した。
異世界謹製カレーライスの上には、先ほど木乃香が自分で取ってきたとろとろのスクランブルエッグが乗っていた。“流れ者”研究家ジント・オージャイトの疑問の種である。
「……カレーは、こうじゃなきゃ、という決まった形があるわけではないですよ。入れる野菜も違うし、卵とか、肉とかチーズとか、こんな風に上に乗せたりもするし。人の好みによっていろいろです」
超がつくほどの甘口カレーは、それなりに美味しいのだがやはり少し物足りない。
そこでふと、彼女はご近所にあった洋食屋さんのオムカレーを思い出したのだ。
黒コショウを効かせたガーリックライスをふわふわの卵で包み、さらに野菜がたくさん入った甘めのカレーソースをたっぷりとかけたそれが大好きで、週に一度は通っていたものだ。
セットで付いてくるさっぱりした味付けのスープも、季節野菜のサラダも、デザートのバニラアイスも美味しかった。とくにサラダの自家製ドレッシングが絶品で、簡単な容器に入れられてレジで販売していたそれを頻繁に購入していたものだ。
もっともそのドレッシングも、いまごろは冷蔵庫の中でとっくに食べられない代物に変質してしまっているのだろうが。もったいない。
律儀に疑問に答えた“流れ者”に対し、ジントはきらきらと灰色の目を輝かせて、厨房のおばさんは呆れたように彼女を見た。
「そ……っそれは、具体的には―――」
「それで。ジントさん」
木乃香は、スプーンを構えてはっきりと言った。
「わたしはご飯が食べたいのですが」
「…………」
「おばさん……ゼルマさんの言う通りです。しゃべるなとは言いませんけど、食事のときくらいは落ち着きたいです」
「当たり前だね」
「す、すまない」
ジント・オージャイトは謝罪を口にする。
いつ新たな罰則を言い渡されるかとびくびくしている様子だが、木乃香にそのつもりはなかった。所かまわず突撃し断りもなく観察を始められさえしなければ、彼女はそれでいいのだ。
「それから、カレーライスをありがとうございます」
「………え」
「作って下さったんでしょう。あ、でも本当に作ったのはおばさんかな? とにかく懐かしくて美味しいです」
「あ、ああ」
「食べてもいいですか?」
「……もちろんだ。ミアゼ・オーカ」
顎に手をあてて思案してから、程なく彼は続けた。
「そうだ、食事の邪魔をしてはいけないな。ミアゼ・オーカは外気から栄養を摂取するタイプの人種ではない。“かれい”はたくさんの野菜が無理なく摂れる効率的で健康的な料理のひとつだ。ちゃんと食べて問題なく生命活動を維持してもらわねば」
「はあ……どうも」
「……なんで料理が不味くなるような言い方しかできないんだろうねあんたは」
厨房のゼルマおばさんの指摘はもっともである。彼女は怒りたいようなドン引きしたような、何とも言えない顔つきをしていた。
ジント・オージャイトは、これでも彼なりに気遣っているのだとは思う。
が、実験用のマウスにでもなったような気分になってしまうのはどうしようもない。ひと口ひと口、真正面からじーっと観察されればなおさらである。
「……何か感想でも言えばいいんですか?」
もはや条件反射なのだろう。木乃香が眉をひそめると、彼はようやく凝視していたことに気が付いたらしい。
また「すまない」と口にして、こほんと咳ばらいをする。
「“かれいらいす”は、謝罪の代わりのつもりだった。いや、餌付けしようと思ったわけではないぞ」
「餌付け……」
せめて懐柔とか言って欲しい。
ともかく、彼らに人をモノで釣るような器用な真似ができれば、最初から木乃香にイノシシのごとく突撃してくるはずがない。それくらいは言い訳されなくても彼女にだって分かる。
「“流れ者”の文献にあったのだ。“かれいらいす”は万人を幸せにする“力”があると」
期待と不安が入り混じったような魔法使いの言葉に、木乃香はがっくりと肩を落としかけた。
いったいどこのレトルトカレーの宣伝文句だろうか。
どうやら参考文献の“流れ者”が木乃香と同郷のようだと思い至り、その“力”をもって彼女に和解の意を伝えたいと、そう考えたらしい。
文献を残した“流れ者”は、稀代の力を持った魔法使いであったらしい。
彼らが期待する“かれい”に宿る“力”とは、もちろん「おいしくなーれ」ではない実用的な“魔法”だ。
その“流れ者”が何を考えていたのかは不明だが、ともかく研究者たちは記述の“力”イコール“魔法”だと思っているふしがある。
この辺の思い込みも、木乃香が彼らに協力したほうがいいんじゃないかと思う理由のひとつだ。
ジント・オージャイトは木乃香のカレー皿の前にどさりと一冊の本を置いた。
先ほどからぺらぺらとめくって“かれい”と呟いていたあれである。
「その“流れ者”が書いたものの写しだ。王都から取り寄せた」
なかなかの大きさと幅にそれなりの重量を思わせる本である。
この世界の紙は、木乃香のもといた世界よりも少しばかり厚く粗い、手作り和紙のような風合いのもので、見た目ほどページ数は多くないのだが。
紙の色が少々くすんでいるので、それなりに古いものであるらしい。
同じ国から来たかもしれない“流れ者”の文章。
そのことに興味を引かれて革張りの表紙をちらりと持ち上げてみる。
中には少しばかりいびつな、けれども見覚えがあってあり余る文字と、こちらの世界へ来て見知った文字の列が交互に並んでいるのが見えた。
どうやら、“流れ者”が残したらしい日本語にこちらの言葉の訳をつけたもののようだ。
「……で、わたしは何をすれば?」
何気ない問いかけに、ジントは言葉を詰まらせた。木乃香の質問に困ったのか、立ちはだかるゼルマおばさんの眼光に恐れをなしたのか、それは分からないが。
「い、いや。ただ読んでくれればいい」
「はあ。訳の間違いを教えて欲しいとか、そういうことですか?」
「はっ? ち、違う箇所があるのか!?」
「いえ、ちゃんと見てみないとわかりませんけど」
なにしろ、ちらりと見ただけだ。
木乃香は、こちらの世界へ来てから言葉に不自由を感じたこともない。喋ろうと思えば勝手にこちらの言葉が口から飛び出し、読み書きも同様にできたからだ。
そういう意味じゃなかったのかと木乃香が首をかしげると、我に返ったらしい研究者は「そうではなくて」と咳ばらいをした。
「……ミアゼ・オーカがこちらで暮らす上で、なにか参考になればと思ったんだ。も、もちろん訳に訂正があればどんどん教えて欲しいのだが」
以前に部屋の近くで待ち構えていたのも、彼女にこれを見せたかったからなのだという。
それを聞いて、きっと第一目的は後者なんだろうなあと木乃香は判断する。が、彼へのさらなる罰則は気の毒なので口には出さずにおいた。
それに、こんな記録があるなら言われなくてもぜひ見てみたい。
「こんな本があるんですね」
「それは禁書だ」
ジント・オージャイトはさらりと不穏なことを言う。
「本来は写しであっても決して王城の外に出せない代物なのだが、現在の王城の書籍管理官は仕事がずさんでな。ようやく手に入れることができた」
「………」
「大丈夫だ。ラディアル所長も黙認しているからな」
だからってドヤ顔で白昼堂々と話せる内容だろうか。
禁書というからには、一般に読むのを禁止されている書物なのではないのか。それこそ、食事抜きの罰則どころの話ではない気がする。
カレーの作り方が載っている程度の本が禁書、というのも奇妙な話だが。
まあ、ここの責任者であるラディアル・ガイルが知っているならいいか。
そう結論付けて件の本を引き寄せるあたり、木乃香もここの雰囲気に慣れてきたというか毒されてきたというか、そういことなのだろう。
見たいか見たくないかと言われれば、もちろん見たい。
同じ日本人の“流れ者”が、何を考えてどう生きていたのか。それを知りたい。
それに先ほどちらりと見た時に、少々気になることがあったのだ。
カレーライスはまだ皿に残っていたが、好奇心が勝った木乃香は少しばかり黄ばんだ分厚い本をそっと開く。
「………あの」
「な、なんだ」
顔を上げれば、なぜか思いつめた表情のジント・オージャイトと目が合う。
「これ、新しい書物なんですか?」
「書かれた詳しい年はわからないが、これをまとめた著者サラナス・メイガリスは三十年以上前に没している。引用された“流れ者”の手記は、さらに百年近く昔のものだ」
「ひゃくねん……」
紙の色あせた具合から、そう新しいものではないだろうな、とは思っていた。
しかし書かれた言葉が妙なのだ。
「………“異世界トリップマジキタコレ‼”?」
おそらく本としてまとめた人物の言葉なのだろう、こちらの言葉で細々びっしりと書かれた小難しい文章のあと。突然飛び込んで来た日本語の文字がこれだった。
筆跡なども忠実に真似てあるのだろう。一ページをめいいっぱい使って、踊るようにでかでかと書かれている。
目の粗い紙と慣れない羽ペンを使用したのなら、大きくいびつな文字は仕方がない。
しかし書かれた文章は、どう考えても百年前の日本人のそれではないのだ。
「異世界と“りっぷまずきたこえ”? それは何かの呪文か?」
「いや、ただの普通の言葉というかなんというか。うーん、普通…でもないか」
「普通ではない言葉っ?」
「………ジントさんが期待しているものじゃないと思います」
きらきらし始めた研究者にすかさず釘をさして、木乃香はさらにぱらぱらとページをめくってみる。
そしてまた。ふと、あることに気付く。
「……“言葉が通じるし魔法使えるしみんな親切だし、なにこのイージーモード”」
「いーじーも……?」
首をかしげるジント・オージャイトを見て、確信する。
おそらく、翻訳しきれない言語はそのままだ。
木乃香はいま、日本語を読んだ。
別に、横にかじりつくジント・オージャイトに聞かせようと思ったわけではない。
もちろん、翻訳しようと思ったわけでもない。
にもかかわらず、彼女の口から出てきたのは日本語ではなく、こちらの言葉だ。
木乃香は、生まれた時から慣れ親しんでいたはずの日本語が喋れなかったのだ。




