あんな荒野のど真ん中・2
「……どちらさまですか?」
未だに重く働きが鈍い頭をかくんと傾げて、木乃香は訪問者を見上げた。
長身だ。低い寝台から見上げているので、なおさら高い位置にその人の顔はある。
だが、首が痛くなってもなんとなく目が離せない風貌を、その人はしていた。
ここ数日、高熱のため冗談ではなく生死の境をさまよっていたらしい木乃香は、さすがにこれが夢だとは思えなくなっていた。
だって痛くてだるくて苦しいのだ。こんな思いをしてもまだ目が覚めないのならば、ただの夢で片づけるのはちょっと無理だろう。
現在木乃香がお世話になっているここは、大きな建物のようだった。
木製のシングルサイズベッドと机、そして備え付けの小さなタンスがあるだけの、狭い部屋である。近くに水差しとコップが置かれている以外ほんとうに何もないので、もとは空き部屋だったのだろう。
あの荒野の近くだというのだが、窓の外からは濃くてきれいな緑が見える。
また、人の気配も多い。
どうやらここに運び込まれた彼女が珍しくて、野次馬が頻繁にやって来ているらしいのだ。よく部屋の外でどやどやと足音や話し声がする。
「ごめんね。好奇心だけが取り柄というか欠点みたいな連中だからさ。これでもあなたが目を覚ますまでは大人しくしてたのよ?」
そう苦笑するのは、野次馬を追っ払いずっと木乃香の世話を焼いてくれている女性だ。
鮮やかな赤褐色の髪に、きれいな栗色の一重、はっきりとした目鼻立ち。そしてついさっきようやく知ったシェーナ・メイズという彼女の名前。
だから、ここは一体どこなんですか。
そんな質問をした木乃香の前にこの長身の男性を連れて来たのもまた、シェーナ・メイズである。
この男性がまた、異様だった。
背が高いのも肩幅が広いのも、足が長いのもまあ“普通”だ。昔バスケットかバレーボールでもしていたんですか、という程度のもの。
四十代半ばくらいかと思われる少しばかり浅黒い顔は、こんな外国の俳優さんがいたような気がする、という程度の整ったもの。
だが無造作に後ろになでつけられた髪は、黒銀。漆黒より薄く、しかも磨き上げられた鉱石か銀砂をまぶしたかのようにきらきら輝くそれを、木乃香は黒銀としか表現できない。
体格の良さと外見の鋭さにいっしゅん怯んだものの、静かに見下ろしてくる双眸は澄みきった湖の深淵のように穏やかで、思わずのぞき込んでしまう。
「ああ、ようやく顔色が戻ってきたな」
同じようにこちらを観察していたらしい長身の男は、目を細めて微笑んだ。
淡く浮かんだ目尻のしわと柔らかな口調に、木乃香の肩から自然と力が抜ける。
「いやびっくりした。娘さんいきなり倒れるもんだから。防いだつもりだったが、木の破片か石が当たったか間違えてどこか裂いちまったかと心配だった」
優し気な深緑の眼差しにどきりとしたのはほんの一瞬。
なにやら物騒なことを言われた気がして、木乃香は顔をひくつかせた。
そして、この背格好と声と「娘さん」呼びは、ちゃんと覚えている。
事情はどうであれ、初対面で正体不明の彼女をあの荒野からここへ連れてきてくれたのは間違いなく彼なのだろうから、ちゃんとお礼を言ったほうがいいだろう。
だから木乃香は「どちらさまですか」と聞いたのだが。
「この無精者!」
何かを話す前に、男は後ろからすぱんとはたかれた。
手を出したのはシェーナ・メイズである。
「おいメイ……」
「だから日頃から身だしなみには気を付けろって言ってんの! せっかくそれなりの顔してるのに!」
「ええー、メンドクサイだろう」
「メンドクサイ言うな! こんな辺境で王子様みたいにしてろとは言わないけど、いっつも髪も髭もぼうぼうの毛むくじゃらはないでしょうが! 差があり過ぎるのよ! だから気付いてもらえないのよ!」
あのときは黒いフードを被っていたので、正直毛むくじゃらだったかどうかまでは分からない。が、この渋く整ったお顔がいつもそんな状態だったとしたら、たしかにシェーナのように文句のひとつも言いたくなるかもしれない。
「あの……」
木乃香が遠慮がちに声をかけると、小さな声だったにも関わらずぴたりとふたりが口をつぐんだ。
そのことに驚きながらも、彼女はこれ幸いと続ける。
「わたしを助けて下さった方、ですよね? ありがとうございました」
「あ、ああ……」
なるほど、もう少し若ければ王子様と呼ばれても仕方がない威厳まで持ち合わせた偉丈夫は、こりこりと髭をきれいに剃った顎のあたりをかいている。
口調は、どことなく間が抜けているが。
「娘さん、あんた名前は? ちなみにおれはラディアル・ガイルという。好きに呼んでくれて構わない」
「わたしは宮瀬木乃香です」
ラディアル・ガイルが「うん?」と眉をひそめる。
「ミア、ァゼ……コ、オーカ?」
「ミヤセ・コノカです」
「ミナァゼ……オーカ?」
何かが違うようだがどう発音していいのかわからない。そんな様子で彼は首をひねる。隣のシェーナ・メイズも同様で、自信なさげに同じような発音をしていた。
ここへきて、木乃香はようやく彼らと言葉が違うことに気が付いた。
日本語だと思って聞いていた言葉は、彼女が少し意識すればそれがまったく違う言語だということが分かる。彼女から何かを話すときも、日本語で言ったつもりで口は勝手にこちらの言語で動いていた。自覚してしまった後も、それは変わらない。
考えてみれば明らかに日本でないここで、明らかに日本人ではない彼らが日本語を使っているわけがないのだ。
自動翻訳機能が頭に付いているようなものだろうか。それは、気付いてしまえばひどく奇妙な感覚だった。便利ではあるのだが。
ただし、名前の発音は別だったらしい。ミヤセコノカという発音は、この二人には難しいようだった。木乃香にしてみれば、生まれた時から慣れ親しんだ名前である。どこが難しいのか、どう説明するべきかいまいち分からない。
ここは妥協することにした。
「ミアゼ・オーカ?」
「はい、えーとラディアル、さん?」
「あんたの所では……ああ、いや。後回しだな。話が進まん」
彼のほうも何か思うことがあったらしい。
が、ふるりと黒銀の頭を振ると手近な椅子にどかりと腰かけ、話をする態勢になった。
それに彼女も「はい」と応じる。そろそろ見上げる首がつらかったので、座っていただけるのは正直かなりありがたい。
まだ名乗り合っただけなのだ。そこで終わるわけにはいかない。名前を正確に発音できるまで教える根気もこだわりも体力も、そして精神的余裕さえもいまの木乃香は持ち合わせていないのだ。
「まず、ここがどこか、だったな。ここはロウナ大陸フローライド王国領の端。辺境の地マゼンタの王立魔法研究所……って言ってもわからんだろうなあ」
「はあ」
さっそくぽかんとんなった顔に、ラディアルは言葉の語尾にため息をつけた。
何ひとつ、聞いたことのある地名がない。
「あんた、“流れ者”だな」
「はあ?」
ナガレモノ。
時代劇に出てくる無法者のような響きに、木乃香は素直に首をかしげる。
「こことは全く違う“世界”から来たヒトのことをそう呼ぶ。たまにあるんだ、そういうことが。まあ、おれは実際お目にかかるのは初めてだが」
いわく、ここは木乃香のいた“世界”とは違う別の“世界”なのだという。
“流れ者”という呼び名が各国の市井にまで通用するほど、異世界から迷い込んでくる者の存在はこの“世界”では一般的だ。
文献だけならばだいたい数十年に一度。記録に残っていない者や物も合わせれば、おそらくはもっと多い。
そして“流れ者”には、なにか特別な“力”が備わっていることが多いのだという。
その“力”は人によって種類も、強さもまるで違う。
例えば腕力、脚力、視力など身体的能力の底上げであったり。
農業、工業、医療、政治外交や戦略についての豊富な知識であったり。
武芸や魔法の優れた技術であったり。
どんな怪我もたちどころに治してしまう治癒能力や、離れた相手でも呪える力、未来を見通す能力などというものを持った者までいたらしい。
記録に残るということは、つまり後世に残る何かを彼らが成したということだ。
過去の“流れ者”たちは、この能力を使ってこの世界に影響を与えた。
良くも、悪くも。
「とまあ、その辺は今どうでもいいんだがな」
「はあ」
良くないような気がするが、とりあえず頷いておく。
いまの時点で木乃香には世界に影響を与えそうな能力も、影響を与えたい理由も思い当たらない。
それよりも、と深緑の双眸が真っ直ぐに木乃香を見つめた。
「気にしていると思うから、いちおう最初に言っておく」
その眼差しは冷ややかなほどに静かで、その口調は重い。
「“流れ者”がもとの世界に帰った、という記録はない」
ああ、そうか。と木乃香は思った。それは重要なことだ。
未だ実感が乏しいせいか、あるいはなんとなく覚悟ができていたのか。取り乱すことはなかったものの何も言うことができず、彼女はただこくり、と薄くうなずく。
「……急に姿を消しただとか行方不明になったとか、そういう記録はあるが、帰ったのかどうかは分からない。まあ“流れ者”の全てを事細かに把握できているわけじゃないからな。ひょっとしたら戻れた奴はいるかもしれんが、少なくともおれには確実な帰還方法は分からない」
木乃香が寝ている間、ラディアル・ガイルが研究所所蔵の“流れ者”に関する文献を手当たり次第に読み漁り調べ尽くしていたのだと知ったのは、後になってからだ。
それでも決していい加減に話しているのではないと、彼の真摯な眼差しで察することはできる。
「あの、それでわたしはどうすれば?」
彼女の問いかけに、ラディアルは虚を突かれたようだった。
彼としては、木乃香の体調と精神的なショックを考慮してその話はまた後日に回すつもりだったらしい。つまり、何も考えていなかったのだ。
「へ? あ、ああ、そうだな。どうするかな」
横で静かに聞いていたシェーナ・メイズが「はああ」とため息をついた。
「とりあえず、彼女…ミアゼ・オーカ? にはまだ安静が必要でしょ。今は何も考えず……っていうのは無理だとしても、とにかく休んで。ここに残るか、出ていくかはそれから決めたらいいわ」
「わたしが、決めていいんですか?」
「もちろん」
「“流れ者”が出たからって、別にどこかに報告する義務とかもないしな」
出たってお化けじゃあるまいし、と眉をひそめるシェーナをよそに、ラディアルが続ける。
「娘さんの能力次第では国に知らせたほうがいい場合もあるだろうが……いまのこの国は、まあ、あんまり上手く回ってないんでな。城に行きたいなら連れて行くが、見世物になって遊ばれたくないだろう」
「…………」
「部屋は空いてるから、好きなだけ居ていいぞ。何にもない僻地だが」
「ここの事とか、いろいろ教えてあげるわ」
非常にありがたい申し出に、木乃香は一も二もなく頷いた。
聞いた限りでは“流れ者”というのは得体の知れない、下手をすればかなりの危険人物のようなのだが、彼らからは多少の好奇心があっても悪意は感じられない。
そもそも彼女を排除しようというなら、あの荒野で倒れたときに放っておけば良かっただけの話である。あんな過酷な環境、木乃香ならたとえ元気であっても半日でのたれ死ぬ自信がある。
ここまでお世話になったのだ。申し訳ないがもう少し甘えさせてもらおうと、彼女は判断した。
「ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします」
寝台の上ながら深々と頭を下げた木乃香に、ひとりは苦笑を浮かべ、そしてひとりは狼狽えた。
「はい、よろしくミアゼ・オーカちゃん」
「……もしかしていいトコのお嬢さんか? いやヒトをあんまり信用するとだな」
「あんたが怖がらせてどうするのよ! 大丈夫よ、ここに怖い人はいないわ」
「はあ」
こうして、宮瀬木乃香の異世界生活は唐突に、しかし比較的には穏やかに幕を開けたのだった。




