第二章 4
見た目以上に、ずっと硬くて筋肉質な彼の背中。
毎日毎日たくさん鍛錬しているのだろう。後悔の日から、ずっと。
「だってその時、ミシェルは六歳だったんでしょう? 魔獣と戦うことも、お母さんを助け出すことも難しかった」
「でも……」
「それに、もし今ミシェルが逆の立場になったら、きっと助けに行くでしょう?」
「それ、は……」
「私が言っていいことかは分からないけど、ライアンさんも一緒だと思う。ただミシェルに生きていて欲しくて、その時に出来る限りの行動をした。だから――」
ありきたりで、耳障りのいい答えしか言えない自分が情けない。でも今は、どんな陳腐で人並みな言葉でもいいから、ミシェルに「大丈夫だよ」と伝えたかった。
「こんなことしか言えなくてごめんね。でも……」
すると俯いていたミシェルが、ようやくゆっくりと顔を上げた。
目はまだ涙で艶々と潤んでおり、鼻の頭も真っ赤になっている。しかし、すんと短く洟をすすると、一語一語絞り出すように声を発した。
「おれの方こそ、ごめん」
「……?」
「ずるいよね、おれ……。この話をしたら、マリーなら絶対そう言ってくれるって、分かってたのに……。誰かに『悪くない』って言ってほしくて、それを聞きたくて……わざわざこんなとこまで連れて来て……」
ず、と鳴る鼻に片手を添え、ミシェルが困ったように微笑んだ。
「話、聞いてくれてありがとう。……もう少しだけ、時間もらってもいいかな?」
そう言うとミシェルは、静かに一歩を踏み出した。ぽつぽつと点在するわずかな瓦礫たちを眺めながら、懐かしそうに目を細める。
「ここには友達の家があったんだ。すごくいい奴で、どっちがライアンさんにいっぱい褒めてもらえるかいつも競ってた」
「あっちには村に一軒だけの雑貨屋さんがあって、王都で『感謝祭』があった日のあとに行くと、珍しいお菓子とかおもちゃが並んでてさ。おこづかいを貯めて、そこで好きな物を買うのが楽しみだったなあ」
今は亡き村の思い出を口にしながら、ミシェルがあちこちを指差す。その表情が先ほどより和らいだように見え、マリーは少しだけ安堵した。
「――それじゃあ、ミシェルが村の鶏を逃がしちゃったの?」
「うん。あの時はほんと大変だったよ。村でいちばん怖いリッターさんに怒られて、友達にも手伝ってもらって、一日中走り回ったっけ」
「ふふ、大変だったのね」
「そうそう。それから――」
この村を走り回る小さなミシェルの姿が目に浮かぶようで、マリーはくすくすと笑う。
こうしてしばらく巡ったあと、二人は村の入り口に戻ってきた。ミシェルが振り返り、あらためて自身が生まれた村の全景を眺める。
「実はおれ、騎士になってから一度もここに戻ったことなかったんだ」
「そうなの?」
「色々思い出しちゃって、二度と立ち上がれなくなりそうでさ……。実際、今マリーが隣にいなかったら、多分ここから動けなくなってたと思う」
ありがとう、と少し掠れたミシェルの声が零れた。
「今日、ここに来られてよかった。みんなの命日でもあるし……」
するとミシェルは自身のポケットに手を入れ、小さな何かを取り出した。どうやら精緻な細工が施されたボタンのようだ。
「これは?」
「魔獣から逃げた時、おれが握りしめていたんだ。どこで手にしたのか何も覚えてないんだけど……。もしかしたらライアンさんの物かもしれないって、手放せなくて」
虹色に輝くシェルに、くすんだ金属を組み合わせた珍しい意匠。初めて見るそれにマリーが目を奪われていると、ミシェルがぽつりとつぶやいた。
「……本当は、今でも諦めきれないんだ」
「ミシェル?」
「何か……突然奇跡が起きて、女神様がおれの目の前に下りてきて、ここで起きたことをすべてなかったことにして――母さんとみんなと……ライアンさんを生き返らせてくれたら、どれだけ幸せだろうって」
「……!」
女神様、という単語にマリーは一瞬ドキッとする。一方ミシェルはそれに気づかぬまま、困ったようにはにかんだ。
「情けないよね。そんなの、無理だって分かり切ってるのにさ」
「そ、そうだね……」
ぎこちなく応じたマリーをよそに、ミシェルは手にしたボタンをそっと握りしめると、マリーに向けて拳を突き出す。
「その……お願いがあるんだけど」
「……?」
「これ、預かっていてもらえないかな」
おずおずと広げたマリーの両手のひらに、ミシェルがそっとボタンを置く。見た目以上に重量があり、それだけで高級な品だと分かった。
「いいの?」
「うん。というか、持っていてほしい。ずっと、お守りみたいに思ってたんだけど……今のおれにはふさわしくない気がして」
「ミシェル……」
「いつかもう一度、受け取る勇気が出るまで……」
ぎゅっと唇を引き結んだミシェルを見て、マリーはそれをしっかりと握り込んだ。
「分かった。預かっておくね」
「……うん。ありがとう」
そう言うとミシェルは、まるで憑き物が落ちたかのように微笑んだ。
「長い時間付き合わせてごめんね。そろそろ帰ろっか」
踵を返したミシェルに続き、マリーも来た方角を振り返る。すると遠くの方から蹄の足音が聞こえてきた。やがて馬に乗った男性が現れ、その姿を見た二人は揃って口にする。
「ロドリグ団長、どうしてここに?」
「ミシェル? そっちは世話係の嬢ちゃんか。お前たちこそどうした?」
「ええっと……」
マリーはちらっとミシェルの方を見る。ミシェルはすぐにうなずき、ここに来た理由を素直に打ち明けた。
「実はおれ――」
この村の出身だったこと。命日なので二人で訪れたことなどをロドリグに伝える。ただしさすがにライアンのことは伝えづらかったのか、最期の時のことは口にしなかった。
ロドリグは馬を下りたあと、「なるほど」と体の前で両腕を組む。
「まさかお前が、この村の生き残りだったとはな」
「黙っていて申し訳ありません。言い出す勇気がなくて……」
「気にするな。他の騎士団ならまだしも、ライアンのいた黒じゃ無理もない。お前の言う通り、複雑に思う者もいるだろう。あまり口外しない方がいいかもな」
「あ、ありがとうございます……」
怒られると思ったところでの寛大な処置に、ミシェルはほっと安堵の表情を浮かべた。ロドリグはそれを見て小さく笑ったあと、村があった場所にあらためて目を向ける。
「しかしそうか、お前が……」
「あの、団長はどうしてこちらに?」
「ああ。俺と黒騎士――ライアンは騎士団の同期でな。一時期は団長の座を争っていたくらいの仲だったんだが、いきなりあんなことになっちまって……。それ以降、あいつの弔いを兼ねてちょいちょい見に来るようにしてんだよ」
「そうだったんですね! すみません、おれ……」
「気にするな。別にお前のせいというわけじゃないだろう?」
普段の豪快な「がはは」笑いではなく、ふっと片方の口角を上げると、ロドリグはそのまま崩壊した柵を跨いで乗り越えた。
「俺は少し見回ってくる。お前たちは早く帰れ。近くの森にはまだ『モーザ・ドゥーグ』がウロウロしているからな」
「は、はい! 失礼します!」
慌てて頭を下げたミシェルにつられるように、マリーもまた急いでお辞儀をする。村の奥に踏み込んでいくロドリグを見送ったあと、ミシェルが「ふう」と胸に手を置いた。
「びっくりした……団長がライアンさんと知り合いだったなんて」
「でも十三年も経つのにまだ現場を見に来るって、本当に親しかったのね」
「うん。……本当に、申し訳ないな……」
(ミシェル……)
それ以上一言も発することなく、ミシェルはゆっくりと帰路を歩き始めた。マリーもまた口を閉ざしたまま、彼のあとをついていく。行きよりも幾分涼しくなった夕方の風が、さあっと道端の草を揺らした。
やがて太陽が山の向こうに沈み切るより前に、なんとかランブロアにたどり着いた。乗合馬車の待合所に入ったところで、ミシェルがマリーに向かって頭を下げる。
「あらためて――今日は付き合ってくれてありがとう、マリー」
「こ、こちらこそ!」
「マリーのおかげで、すごく心が楽になった気がする。もちろん、まだすぐには切り替えられないけど……でもおれ、頑張らないと」
「ミシェル……」
「おれのせいで、黒騎士団のエースがいなくなっちゃったんだから。雑用でも、どんな依頼でもこなして、少しでもみんなの役に立たないとね」
「そんなこと――」
マリーが反論しかけたところで、建物前に乗合の馬車が到着した。
いったん話を切り上げ、中ほどにあった二人掛けの座席に乗り込む。他の乗客も多く、話す機会を失ったマリーは、隣に座るミシェルの横顔をそうっと覗き見た。
(ミシェルがいつも頑張っているのは、後ろめたさがあったからなんだわ……)
出会ったばかりの頃からそうだった。
どんな苦しい局面でも諦めず、騎士団のために誰よりも奮闘していた。それはきっと、自分が黒騎士団を壊してしまったという罪悪感のせいで――。
「…………」
近くにあった彼の手に触れたかったが、それはまだ許されない気がして。
ガタンゴトンという緩やかな車輪の音とともに、二人は王都へ帰っていくのだった。





