第四章 6
二日後。
魔獣討伐の任を受けてから、ついに二週間が経過した。
今日もくたびれた様子でハクバクの森に向かう団員たちを送り出したマリーは、今にも雨が降り出しそうな曇天をしょぼしょぼした目でじっと眺める。
(珍しく天気が崩れそう……洗濯物はやめておこうかな)
梅雨や台風で荒れがちな日本とは違い、ここアルジェントは大変気候が良かった。特にこの季節は連日快晴のことが多く、この前いつ雨が降ったのかも思い出せないほどだ。
マリーは大きくううんと伸びをしたあと、眠たい目をこすりながら食堂へと入る。そのまま厨房に向かうと、手の付けられていない一人分の食事を前に嘆息を漏らした。
(ルカさん、まだごはん食べてない……)
うっかり鉢合わせた夜から、ルカは一切食事を取っていなかった。
扉の前に置いていたものも当然そのまま。
マリーが食堂にいると食材を調達しにくいのではないか、と深夜の勉強場所を自室に移したものの、やはり食事を取った形跡は見られない。
(どうしよう……私があの時追いかけて、余計なことを言ったから……)
マリーはしばし頭を抱えていたが、やれることをやるしかないと、せっせとパンに野菜や燻製肉などを挟み始めた。
重石を置いてしばらく待ったあと三角形に切り揃えていく。出来上がったサンドイッチを二階に持っていくと、ルカの部屋の扉をとんとんと叩いた。
「あの、ルカさん。マリーです。先日は……すみませんでした」
「……」
「それであの、サンドイッチを作ったので……ここに置いておきますね」
そーっと耳を澄ますが、やはり物音一つしない。
マリーは扉の脇にサンドイッチが乗ったトレイを置くと、「失礼します」と声をかけてその場をあとにした。
(とりあえず、お昼にもう一度見に来て……それでも食べていなかったら、今度は栄養のあるジュースとかにしてみようかしら)
あれやこれやと考えつつ食堂に戻ったところで、よしといつもの教材を広げる。
少しでもルカの気持ちを理解するべく、今日も今日とて魔術の勉強だ。
いつしか『はじめての魔術のほん』はなくなり、代わりに『初級魔術辞典』や『魔術の成り立ち』という本が仲間入りした。マリーのノートもついに三冊目に入る。
(ここまでやって分かったけど……魔術って本当に難しいんだわ。使うためには術の本質と構造を理解し、正しい効果が発揮されるよう細かく調整しないといけない。そのためにはたゆまぬ努力と訓練が必要で――)
もちろん元々の属性や、魔力の保有量は多少影響してくるだろう。
その上で複雑な術式を読み解き、何度何度も繰り返し練習し、そうして少しずつ自分の『魔術』を習得していく。
いくら膨大な魔力を持っていても、基礎を疎かにしては意味がない――魔術師とはそういう過酷な職業なのだ。
(せっかくだし、一度どんなものかやってみようかな……)
本に書いてあった『はじまりの儀式』という手順に従い、マリーは丸いものを持つようにそっと両手を胸元で掲げる。
体内を巡る魔力の流れを意識し、手の中にそれらの力が溜まっていく姿を一心不乱に想像した。
(うまくいけば、火や水の要素がわずかでも現れるはず――)
だがそれらしき現象は十数分経っても起きず、マリーはやがてがくりと肩を落とす。
「やっぱり、私に魔力なんてないよね……」
そもそも日本にいた頃だって霊感すらゼロだった。
それに、仮に魔力を持っていたとしてもそれを扱えるようになるのはさらに限られた人間だけだ、という本での解説を思い出し、マリーはぼんやりと二階に続く天井を見上げる。
(ルカさんは、きっとものすごく頑張ってきたんだろうな……)
するとどこからか雨音が聞こえてきた。
マリーは立ち上がり、食堂の窓から外を眺める。ぽつぽつと葉を叩く水滴を無言で見つめていると、玄関先の呼び鈴がからんと響き渡った。
慌ててロビーに向かうと、郵便配達人がほいと手紙を差し出す。
「黒の騎士団宛てにジェレミーさんから。なんか急ぎみたいだったよ」
(ジェレミーさん?)
初めて聞く名前に首を傾げつつ受け取ると、マリーは食堂に戻って封蝋を切る。
中には一枚の便せんが入っており――それを目にしたマリーは、手紙をテーブルに置くとすぐさま二階へと駆けあがった。
サンドイッチが残されたままの部屋の前に立つと、慌ただしくこんこんとノックする。
「ルカさん、あの、私ちょっと外に出てきます! 鍵はかけていきますから」
それだけを一息に言い切ると、マリーは踵を返してあっという間に邸をあとにする。
誰もいなくなった黒騎士団の邸は、物寂しい静謐だけが支配するのだった。
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時間は今朝にさかのぼる。
薄暗い部屋。わずかに開いたカーテンの隙間から、討伐に赴く黒騎士団員たちを見つめていたルカは、その場ではあとため息を漏らした。
(もう二週間……そんなに難しい任務なのかな)
この仕事が始まって早々、ルカの助力を求めてユリウスをはじめとした多くの団員たちが扉の前を訪れた。
だが「魔術が使えない」ということを打ち明ける勇気がなく、いつものように部屋に閉じこもっておくことしか出来なかった。
(魔術……)
ベッドに腰を下ろしたルカはそっと自身の左手を開く。
目を閉じ集中しようとするが――すぐに『失敗した時の光景』が甦り、恐怖を払うようにぶるるっと首を振った。
(どうして、使えないんだろう……)
あれは事故だった。
魔獣を取り逃さないためにはああするしかなかった。
だがルカはあれ以来『魔術の神様』から見放されてしまったのだ。
(無意識の抑制、恐怖心……。僕だって分かってる。でも……)
やがて廊下からノックの音がして、世話係が食事を運んできた。
おそらく二日間何も口にしていないルカへの配慮だろう。その気持ちはありがたいが、正直いっこうに食欲が湧かない。
(僕は……ここでも役立たずだ)
魔術師団のメンバーは、ルカが魔術を使えなくなっても「いつかまた使えるようになるから」と在籍を容認してくれていた。
だが何の力にもなれない自分がどうしてもいたたまれなくて、ルカは逃げるように転籍願いを出した。黒騎士団を選んだのも最低な理由で、魔術が必要とされるような難易度の高い仕事が来ないのではないか――と、それだけを狙ってのものだった。
それなのに、ここでもまた自分は居場所を失いかけている。
(どうしよう……どうしたら……)
半端になっていた左手をぎゅっと握りしめる。
するとそこに、今まで聞いたこともないほど焦燥した世話係の声が聞こえてきた。
「ルカさん、あの、私ちょっと外に出てきます! 鍵はかけていきますから」
(……?)
言うが早いかすぐに階段を降りる音が続き、ルカはじっと閉まったままの扉を見つめていた。
静まり返った邸の様子をしばらく探っていたものの、ルカはおずおずと立ち上がり、廊下に繋がる扉を開く。
(突然、どうしたんだろう……)
不思議に思ったルカは、そのまま階段を下りて食堂へと向かう。昼間に入るのは初めてかもしれない、と何となく周囲を見回していると、テーブルに広げられた大量の本に目が留まった。
騎士団の日誌か何かだろうか、と近づいたルカはそこで大きく目を見張る。
(これ……魔術の本だ)
ルカからしてみれば、五歳くらいの時に絵本代わりに読んでいた簡単なものばかり。だが脇にあるノートにはそれらの文言をまとめ、自分なりに解釈し、疑問点や理解点などを書き記す――試行錯誤した勉強の痕跡がしっかりと刻まれていた。
(懐かしいな……。僕も昔はこうやって、学んだことを書いて……)
寝る間を惜しんで魔術理論を書いていた、かつての自分を思い出しルカは思わず苦笑する。
あの頃はただ、魔術が好きだった。
新しい術を使えるようになるのが楽しくて、自在に操れる膨大な魔力は自分の誇りだった。
神童と崇められ、魔術師団に推挙され、その先にある栄華を疑うことなどなかったのに。
(それなのに、僕は……)
するとノートの下にもう一枚、別の紙を発見した。
そこには『どうすればもう一度魔術が使えるようになるか?』と書かれており、その下に様々な解決案が挙げられている。
(小さな成功体験を積み重ねる、ゆっくり静養する、基礎から段階的に試す、カウンセリング……っていうのは何か分からないけど……多分彼女なりに、必死に考えたんだろうな……)
初めて食事を準備してくれた日から、彼女は毎日夜食を取り分けておいてくれた。騎士団に協力しろとも、魔術を使ってみろと強要することもなく、ただカードには「良かったら食べてください」とだけ記されていた。
こうして難解な魔術の本を繙いているのも、おそらく「何も知らないくせに」というルカの言葉を真に受けてのことだろう。
(あんなの……ただの八つ当たりでしかないのに……)
そのひたむきさを思うと、胸の奥が自らの情けなさでずきずきと痛む。
(僕のことなんて、放っておけばいいのに……)
ルカはマリーの書いた文字を労わるように、そっとノートのページをなぞった。
そこでふと、見覚えのある便せんを目にする。
それは魔術師団に支給されているもので、何気なしに手に取ったルカは思わずそれを握りしめた。
(ジェレミー先輩から? 『討伐対象の魔獣について――水に対して過剰な反応を示す。降雨時などは狂暴化する恐れ大。雨天での任務実行は推奨しない』……なんだって⁉)
すぐさま窓の外を見る。
ずっとカーテンを閉ざしていたから気づかなかったが、既に結構な雨量が地面に降り注いでいるところだった。おそらくマリーはこの忠告を見て、団員たちのもとに作戦中止を呼びかけに行ったのだろう。
ルカの胸に知らずざわめきが起こる。
だがうっかり握りしめた便せんの下からもう一枚――貼り付くようにぴったりと重なっていた別の便せんが現れた。
(『追伸。狂暴化した魔獣は、弱いものを集中して襲う傾向がある。特に女、子ども、老人や魔力量の多い者は狙われやすいから、絶対に付近に近寄らせるな』――あの人、どうしてこんな大事なことを分けて書くんだ⁉)
ド派手なピンク頭に仮面という奇抜な外見なのに、魔術の腕だけはどうしても勝つことの出来ない相手――ルカは便せんを破きかねない勢いで剥がすと、テーブルにそれぞればしっと叩きつけた。
苛立ちを含んだはあはあという息を吐き出したあと、はっと顔を上げる。
(もしかして、二枚目を見ずに現場に行ったんじゃ……)
ルカはわずかに逡巡したあと、すぐさま邸の玄関へと走った。





