第四章 5
その日の夕方。
時間が空いたマリーは、さっそくその絵本を読み始めた。
(魔力は、魔術を使うための大切な力のことです――ふむ、これなら何とか分かりそう)
もちろん目で追っただけではすぐに忘れてしまうので、学習したことをノートにせっせと書き写していく。
異世界転生の恩恵なのか、脳内で考えた文章が勝手にこちらの言語に変換され、見も知らぬ文字を手が勝手に描いていくさまは、なんだかとても奇妙だった。
(魔術には四大要素のほか、それらに属さない『白』という要素があり――)
すると外からがちゃがちゃと賑やかな靴音がし、マリーは慌ててノートを閉じて立ち上がった。玄関先に向かい、今日もくたくたになっている団員たちを出迎える。
食堂で夕飯の準備をしていると団員の一人がユリウスに訴えた。
「リーダー、さすがにこのままじゃ埒が明かなくねーか?」
「やっぱり何とかしてルカを引っ張り出すしか――」
「青騎士団に支援してもらうのはどうだ? あいつらだったら魔術の一つや二つ……」
だが口々に上がる不満や提案を、ユリウスはばっさりと断ち切った。
「ルカのことは少し時間がほしい。青騎士団は現在別の長期任務を遂行しているため、人員を派遣する余裕がないそうだ」
「じゃあ俺たちはまだしばらくこのまま、いたちごっこの繰り返しってこと?」
「明日から大規模な罠を仕掛ける。それで無理ならまた他の手立てを考えるしかない」
うええ……と落胆と悲哀の混じった声が食堂に響いた。
マリーもまた困惑した様子で団員たちの様子を眺めていたが、やがてミシェルが「手伝うよ」と厨房に入ってくる。
「今日もダメだったんですね……」
「うん。ユリウスの魔術でも全部は捕まえられなくて……。でも少しでも数を減らしておかないと、森を出て農作物や家畜に被害を与えることがあるから」
そこで脇に開かれていたノートに、ミシェルがふと気づいた。
「あれ、魔術の勉強?」
「え? あっ、はい! 少しでも何かの役に立たないかと」
「言ってくれたら、おれが分かるところまで教えたのに」
「ミシェルさんは仕事で疲れているんですから! それにこういう作業意外と好きなので」
マネージャー時代も自分が担当したアイドルたちが雑誌に載るたび、どんな小さな記事でもせっせと切り抜きを集めていたものだ。
多忙が極まってくると、買うだけ買って開封も出来ず積んだままになっていたけど……とマリーが回想していると、ミシェルがふっと目を細める。
「そっか。でも無理しないで。マリーだっていっぱい働いてくれてるんだから」
「はい。ありがとうございます」
ミシェルの優しい言葉に励まされ、マリーは勉強への意欲を一層高める。
だがその後も、討伐任務は難航し続けた。
期待されていた範囲型の罠も失敗し、連日の任務に団員たちにも疲れの色が濃く出始める。いよいよ限界だと、こっそり仕事をさぼろうと逃亡したヴェルナーを、ユリウスが魔術で捕獲するといった光景まで見られる始末だ。
(みんな限界が近い……。何か他のやり方はないのかしら……)
一方マリーの魔術勉強はかなり進み、昨日などは司書から「よく頑張っておられますね」と褒められるまでになった。
だがいくら勉強したところで、一度使えなくなった魔術をもう一度行使できるようになる方法――などといった具体的な対処法は書かれていない。
(前世の時も、不調を感じて休養を取りたがった芸能人はたくさんいた。でもそのあと業界に戻って来られるかが不安で、休めない人もたくさんいたわ……。個人的には、心が壊れるくらいなら仕事と距離を置いた方がいいと思ったけど、でもそんな単純なものでもないのよね……)
仕事で傷ついた心が、また仕事によって回復する――そんな現象をマリーはこれまで何度も目にしてきた。
出来なくなったら諦めればいい、またすぐチャンスがある、と周囲が口にするのは簡単だが、結局のところ本人が自らに問うてみるしかないのだ。
(ルカさんがどう思っているかは分からない……。でもいずれにせよ、後悔しない方を選んでほしい……)
食堂でノートを広げていたマリーは、ちらりと向かいの席を見た。
そこにはもはや習慣となったルカ用の食事が準備されており、その食器たちを見てマリーははあと肩を落とす。
(食事は毎日とってくれるようになったけど、どこかで一度話が出来たらな……)
ぼんやりと浮かんでくる雑念を、マリーはぶんぶんと頭を振って整理する。
ここ数日世話係の仕事と勉強の同時進行なので、少しだけ疲れが出てしまっているようだ。
(とりあえずこの単元までまとめて、あとは――)
再び参考書に向き直ると、ノートに目を落とす。
だが書かれている文章が次第にぐわんぐわんと歪んできて――マリーは食堂のテーブルで、すうと眠りに落ちたのだった。
ばさ、と重量のある何かがマリーの肩に触れる。
そこでようやく自分が眠ってしまっていたことに気づいた。
(いけない、いま何時⁉)
勢いよくがばっと起き上がったマリーだったが、窓の外はまだ暗く、ほっと胸を撫で下ろす。
だが自身の肩に掛かっている毛布を掴むと、慌てて周囲を見回した。
(いま、誰かが私に毛布を――)
案の上、階段の方に逃げ出す人影を発見した。
考えるより早く足が動いてしまい、マリーは慌ててその背中を追いかける。
(待って、もしかしてルカさん⁉)
どうやらフードを被っているらしいシルエットは、そのままとたたっと二階に上り、長い廊下を走っていく。
とてもひきこもりとは思えない俊敏さに驚きつつ、マリーもまた懸命にそのあとを追った。
だがつきあたりの扉がガチャリと開き、ルカらしき影がささっとその奥へと逃げ込む。マリーは何とか話がしたいと、勢いを落とすことなく廊下の端へと駆け込んだ。
(待って、待――)
だがマリーがドアノブに手をかけるよりも早く、ルカがばたんと扉を止める。
勢いづいたマリーの体は止まらず、そのままバンッと勢いよく扉に突き当たった。転倒し、思わず「ぎゃっ!」と悲鳴を漏らす。
(いたた……だめだ、引き留めようとつい必死で……)
マリーは座り込んだまま、じんじんと痛む額と鼻頭を押さえた。
すると突然目の前の扉がきいと開き、わずかな隙間からフードを被った少年が顔を覗かせる。暗がりでその表情はよく分からなかったが、瞳がアメシストのような綺麗な紫色をしていた。
「あ、あの、ルカさん……?」
「――っ!」
きょとんとしたマリーがおずおずと首を傾げると、ルカは再びものすごい速度で扉を閉めた。マリーはすぐに立ち上がると、周囲の迷惑にならないよう声量を押さえて話しかける。
「ルカさんですよね。私、マリーといいます。今この騎士団の世話係をしていて」
「……」
「驚かせてごめんなさい。でも一度でいいから、あなたと話がしたくて……」
ルカの言葉を聞き洩らさないようマリーは一旦口をつぐむ。
だが待てど暮らせど彼からの返事はなく、マリーはわずかに逡巡したあとレインからの伝言を口にした。
「あの、レインさんが言っていました。ルカさんのこと……誰も責めてないって」
「……」
「魔術が使えなくなるのは誰にでも起こりうることで、練習すればまたきっと使えるようになると――」
直後、ドンッと拳を叩きつけた音が扉の向こうで響いた。
扉についていた手をマリーがびくっと浮かせると、苛立ちを孕んだルカの声が聞こえてくる。
「君に何が分かるの? 魔術師でもないくせに」
「そ、それは、その」
「魔術のことなんて、何も知らないくせに。僕が……どんな思いで今までやってきたのか、何にも……、何にも知らないくせに……!」
振り絞るようなルカの慟哭を耳にし、マリーはそれ以降の言葉をすべて呑み込んだ。
(その通りだわ……私は魔術のことも、ルカさんのことも何も知らない……。どうやって魔術師になったのか、魔術師団でどう働いていたのか……。そして彼にとって、魔術がどれだけの意味を持つものなのか……)
そっと扉に手を添え、ルカに向かって謝罪する。
「すみません、私、分かったような口をきいてしまって……」
「……」
「……食事、あとで扉の前に置いておきます。良かったら、食べてくださいね」
結局ルカからの応答はなく、マリーは一度食堂へと戻ると、彼の分の食事を手に再び二階へと移動した。カードに「ごめんなさい」とだけ書くと、すぐにその場を立ち去る。
食堂に戻ってきたマリーは開きっぱなしになっていた参考書――そしてルカが掛けてくれた毛布を見つめたあと、ゆっくりと椅子に腰かけた。
閉じかけていたノートを開くと、明日やる予定だった単元のページへと進める。
(もっと魔術について……ルカさんについて、勉強しないと)
時刻は虫も鳴かぬような丑三つ時。
マリーはわずかなカンテラの明かりだけを頼りに、朝日が昇るまで勉強を続けた。





