降伏勧告の裏事情
元亀三年(1572年)十二月十六日
遠江国 某所
「お館様、山県様がお戻りになられました」
「うむ。しばし山県と二人だけで話がしたい。武藤よ席を外せ」
「ははっ。では山県様をお通しします」
此処は遠江国内にある武田軍の本陣。その更に奥にある信玄の寝所に山県は呼ばれた
「お館様。徳川への降伏勧告を渡して参りました」
「うむ。お主達を見た徳川の足軽の反応はどうであった?」
「足軽から見える位置に赤備えの者達を多数配置したところ、一部の者は固まっておりました」
「流石、東海や畿内にその名が轟く赤備えよ。して、その後は?足軽の中に赤備えに対して口だけでも強く出る者は居なかったか?」
「その様な気概のある者は誰も居りませなんだ。もっとも、その様な者が居たら徳川の軍勢は更に強くなると思いましたが、居ないのですから、あの体たらくなのでしょう」
「違いない。はっはっはっはっ、ガハッ。ゴホゴホ」
「お館様!武藤ど」
「待て!」
山県との会話で大笑いしていた信玄だったが、突然血を吐いた。その様子に慌てた山県は武藤をよぼうかとしたが、信玄に止められて困惑していた
「お館様!お体が」
「ここしばらくは何も無かったから体調は持ち直したと思ったのだが、やはりそう簡単には行かぬか。このままだと甲斐国から追放した父上より先に逝く可能性が高いだろうな」
「お館様、その様な言葉は」
「山県よ、気持ちは分かるが、父上や祖父、さらに先祖の圧政で苦しんだ民達が他国へ逃げなくても良い程に甲斐国を回復させる事、
そして他国の民や食料を奪い、それらを別の国に売り金山以外での銭を得て甲斐国の民達の暮らしを安定させる為に使った。
その為だけに戦い続けた結果、体がこうなった。それは仕方ないと思っておる。しかし甲斐以外の人間からは略奪を繰り返す蛮族扱いされても仕方ない事をし続けた。
山県よ、甲斐国と比べて駿河国と遠江国を見てどの様に思った?」
「そ、それは」
「正直に申してくれ」
「はい。では、駿河国も遠江国も甲斐国と比べたらこの世の極楽と思える程、食べる物に事欠かず、民達が幸せそうな顔をしておりました」
「それよ山県。儂は、甲斐国を駿河国や遠江国の様に民達が食う物に事欠かさずに幸せそうな顔をして暮らせる国にしたかった。
だが、儂の体の中を流れる先祖代々受け継がれる源氏の血が甲斐国をこの世の地獄に変えてしまったと思っておる」
「お館様、体調が辛そうなので、これ以上は」
「いや、今の内に話しておきたい。馬場と内藤と春日と孫六を呼ぶ様に武藤に伝えてくれ」
「ははっ。武藤殿。お館様から馬場殿と内藤殿と春日殿と孫六様を呼べとの事じゃ。頼む」
「ははっ」
言われた武藤は馬場と内藤と春日と信廉を探しに出た。そしてほどなく
「馬場様と内藤様と春日様と孫六様をお連れしました」
内藤とは武田の重臣の一人に数えられる内藤修理亮昌豊の事で、父親の代から親子二代で武田家に仕えて信玄の時代には馬場、山県、春日と並んで「武田四天王」と呼ばれる立場まで出世していた
そして春日とは、春日弾正忠虎綱の事で、元は百姓の家の出だったのだが、父親の遺産を巡る争いで負けた結果、
一文無しになって追い出されたところを武田家に拾ってもらい死に物狂いで働き続けた結果、四天王と呼ばれる立場まで出世した。ちなみに信玄とゲフンゲフンというかアッー!な関係だったらしい
「お館様。四人が到着しました」
「うむ。四人共、入って来い」
信玄に呼ばれて四人は寝所に入った
「お館様。お体は大丈夫なのですか?」
「無理をせずお休みくだされ」
「我々の為に無理をしてはいけませぬ」
馬場も内藤も春日も一言目は信玄の心配だった。しかし、孫六だけは違った
「ふ、やはり最初に目につくのは儂の体調か。孫六よ、ここではこの者達含め五人しか居らぬ。久方ぶりに主君ではなく兄として扱ってくれ」
信玄からそう言われた瞬間、孫六の目から涙が溢れた
「お館様、いえ兄上。もしや我々を集めた理由は、お体が」
「泣くでない我が弟よ。さっき山県に途中まで話したが、儂や孫六に流れる源氏の血が戦いを欲するのか、先祖は甲斐国を統一する前に他国へ侵攻して、
その報復を受けて甲斐国を攻められてを繰り返した結果、甲斐国を常に戦があるこの世の地獄に変えてしまった。父上の時になんとか甲斐国を統一したが、
長年の戦続きで地は荒れ、民は圧政に苦しみ、子が産まれても間引くしかない、この世の地獄が続いていた。
だからこそ儂は父上を追放した。父上が武田家の当主である限り何も変わらぬと思ったからこそじゃ。ゲホッ」
「「「「お館様」」」」
「兄上!」
「少し興奮してしまった。ふう。よし、では続けるが全ては甲斐国の民の為、儂は戦い続けた。
父上や従わぬ者達や、そして信濃国を巡って村上や上杉とも戦った。今川や北条との約定も何度も破った。今川治部が織田に討たれたと聞いた時、
即座に海を手に入れる為に駿河国を攻めたかった。だが、太郎が反対した。そしてあろう事か儂を追放して今川を助ける事を計画していた。
正室が今川治部の娘だったから、その正室に今川家を守って欲しいと頼まれたから。その様な理由だけで太郎は」
そこまで信玄が話すと山県が続いた
「お館様、そこから先は拙者が。その太郎様の計画を聞いた傅役でもあった我が兄、飯富虎昌は武田家の結束を揺るがす一大事として、
拙者に話した後、「全ての罪は儂が受ける。お館様を追放する計画は儂が企てた事とする。だから太郎様に咎が無い様にしてくれ」と後の事を頼んで、腹を切りました。
拙者がお館様に報告した事で兄の所領や家臣達は拙者に渡された事により、兄の子達には蛇蝎のごとく恨まれているでしょう。それでも拙者はお館様と兄のやった事は武田家の為と考えたら間違っていないと思いまする」
「すまぬな山県。少しだけ楽になった。後は儂が話す。儂は全てを飯富の仕業とし、太郎を許すつもりでいた。
しかし、あ奴は今川の娘と共に自害した。太郎が生きていたならば四郎は諏訪家の当主として、武田家の一家臣として人生を終えるはずだった。
四郎の母は武田に敗れた諏訪の娘だからこそ、古臭い考えの家臣達は四郎の事を嫡男と認めておらぬ。儂に万が一の事があったならば、四郎を支えてやれるのはお主達五人しかおらぬ。
此度、東海道を進み上洛する一か八かの戦を仕掛けたのも、儂が道半ばで死んだとしても、天下まであと一歩ならば四郎なら天下を手中にしてくれると思ったからじゃ」
「お館様!その様な事は」
「そうですぞ!お館様が天下を取った後に四郎様に引き継げる様にしたら良いではないですか」
「武田家の進軍の邪魔になりそうな国人達には降伏勧告を出しているのも、その為ではありませぬか。その様な事を言ってはなりませぬ」
「皆の気持ちは痛いほど理解しておる。だが、儂は五十を超えた年寄りじゃ。万が一の事も考えてくれ」
信玄のこの言葉に五人は勿論、寝所の前に居た武藤も五人と同じく声も出せない程、泣いていた




