武田対策会議に見せかけた
天正三年(1575年)四月三十日
美濃国 岐阜城内にて
「殿。羽柴殿からの文でございます」
「何事じゃ?もしも、佐久間が討ち取られたと最悪の内容ならば、色々考えないといけぬが、どれ」
信長は最悪の状況も考えながら、文を読み出した内容は
「殿へ。殿から摂津国への出陣命令を受けて六日後に着陣しました。この文は早馬に届けさせているので、四日から十日の間には届いていると思います。
そこで本題なのですが、佐久間殿や家臣の者達に討ち死にした者はおろか、重傷の者も居ないのです。
佐久間殿は、どの様な策を持って本願寺にあたっていたのか?と疑問に思います。
この状況で拙者や家臣達が気張って、佐久間殿よりも武功を挙げた場合は与力として出過ぎた事になるでしょうか?
そうでなければ、殿のお許しをいただいた上で、本願寺にあたりたいと思います」
佐久間がちゃんと戦ってない様に見えるけど、どうしますか?な内容だった。それを見た信長は
「やはり、猿も権六や十兵衛と同じ内容か。佐久間め。これは本願寺を落とさなかったら追放もやむを得ないか。
お蘭!猿と佐久間の両方に文を出すぞ!そうじゃな、内容としては、「五月の内に、本願寺からの和睦の願い出等の織田家に有利な報告が無ければ、佐久間は羽柴筑前の指揮下に入れ!」で行こう。これで、そんなのは断ると申すのであれは、もはや追放じゃな」
こうして、信長は佐久間の処分を戦の結果次第と決めた。
天正三年(1575年)五月一日
美濃国 岐阜城内にて
「殿。徳川様からの文でございます」
「二郎三郎からとな。まさか、武田が動いたのか?」
信長は嫌な予感がしながら文を取り、読み出した。中には
「三郎殿へ。物見の者より武田が甲斐国から出陣の様子が有ると報告を受けました。我々は三河国内にいる武田を殲滅する為に遠江国から三河国へ出陣します。
もしかしたら、武田が率いる事の出来る全軍を率いて来るかもしれませぬ。武田の本隊が三河国内の武田と合流したら、我々では手に負えないかもしれませぬ。
なので、三郎殿が動く事が出来ましたら、三河国の岡崎城で合流して、武田への対策を話し合いませんか?
そのついでに、三郎殿の孫でもある竹千代に会っていってくだされ。とても可愛いですぞ」
「二郎三郎め。文の最期にに緊迫感が出ない様に気を使いおって。だが、武田がこの時期に動いたとなると、信玄坊主の死から家中をまとめきったという事か。
しかし、六三郎が言っておったな。「西の敵は抑えるだけにして、東の敵に全軍を率いて叩きのめせ」と。
ならば、言った本人にも出陣してもらおうではないか。くっくっくっ。元服希望の文にも「今年か来年、武田と戦う」と予想しておったが、
ここまで当たるとなると、戦があ奴を呼んでいるとしか思えぬ。よし!お蘭よ。本願寺にあたっている佐久間と猿以外の家臣全員、それこそ柴田家にて色々教えている水野藤四郎にもじゃ!
率いる事の出来る最大限の人間を率いて、岐阜城に一旦集まる様に文を出せ!戦が近いと書いて家臣達のやる気に火をつけよ!」
「ははっ!」
「さて。孫を見るだけの物見遊山で終わるか?それとも武田との大勝負になるか?」




