夜
恐る恐る振り向くと、そこにはヴィルヘルミーナ嬢らしき者がいた。見られてはいけないものを見られた。いっそ縊り殺して、いや、先にこちらが殺されるか。徒手格闘なら、ヴィルヘルミーナ嬢の土俵の上だ。彼女は自分の一族伝来の格闘術で師範をやっていたはずだから間違いない。得物がなければ戦いにもなるまい。あってもどこまでやれるかはわからんが。
ということで観念して指を引き抜いて、…抜けない。というかついてくる。抜かれたくないのかも知らん。まあ抜くのだが。ずるりと抜けた指先とエルザ嬢の唇の間に銀糸のような唾液の橋が架かる。それで、振り返りつつ話題をそらす。
「あー、うん。ヴィルヘルミーナ嬢。明日のことなのだが。」
しかし、それはヴィルヘルミーナ嬢ではなかった。『を。』と思う間もなく放擲されており、ああ、きっと手榴弾とはこのような気分を味わうのだろうな、などと。そしてそのまま、頭頂から床に落ちた。薄れゆく意識の中で聞いたのはヒステリックな女の叫び声と扉が開いた音だった。
“Die Trommel schlägt und schmettert,rataplan don diri don.”
目を覚ました時に、よくはわからんのだが、天蓋付きのベットらしきものに横たえられていた。正直あの天蓋というものにどんな価値があるのか理解しがたい。まだ痛む頭をさすりながら、起き上がる。はい出るようにしてベットから出てみると、先ほどの、そうだ、フリートヘルミーナ嬢が、なぜか裸に剥かれて土下座していた。彼女の隣には丁寧にたたまれた被服。絵面がよろしくない。その隣に全く同様にしたヴィルヘルミーナ嬢。絵面がよろしくないぞ。髪型の他にあまり差異がない後ろ姿なので、何とも言い難い。しかしなんだ。綺麗な体をしている。いっそこれを写真に残したいほどであるが、惜しむらくはこの国の写真機は今のところ一人で持ち運べるものではない。いや、偵察機材用に開発中のあれならいけるか?持ってきてはいるが室内向けでないからやはりだめだ。
あたりは先ほどの部屋と異なっていて、生活感のない整然とした部屋だ。そうしてマントルピースの上には巨大な『偉大なる帝国指導者』の肖像が掲げられ、それを護るように置かれた結界だのの器具がある。肖像画の中の自分は親衛隊の礼装に身を包み玉座に手をかけて立っているもので、確かこれは最低額面紙幣のデザインのものだったはずだ。というか紙幣の肖像では額面ごとに服装や姿勢が異なるだけだった記憶がある。自分では直接紙幣に触らないので詳細は忘れた。親衛隊は政治力が低いので最低額面になったことだけは覚えている。
と、気になるものは多いがとりあえず現状がどうした状況であるか聞かねばどうにもならない。
「誰か状況を説明せよ。」
怖々、といった感じで顔をあげるフリートヘルミーナ嬢。顔面は蒼白である。まあ、仕方ないだろう。この国はスターリン主義体制めいたものになりつつある。『月次粛清件数の統計』なんてものもあるのは多分この世界ではこの国だけだろう。さらに言うならこの帝国の中で、サキュバスほどいろいろと面倒な生き物を知らないので、その中で何か起こるかも知らん。知らんものは知らぬ。
「電話をいたしまして。」
最近内務省が張り切って電話を普及させつつあったのを思い出した。内務省警察長官が交換台におすすめの蕎麦屋を聞いて出前してもらったことがある、なんて逸話もあったはずだ。
で、ここまで電気に誇りを持っているサキュバスの町田、まさか貴族が電話を引いていないということはなかったわけだ。ただ、ゾンネベーケの家のほうには口裏を合わせるように連絡が行ったはずであるが。
「どうも、行き違いがありましたようで。」
続けて言うのはヴィルヘルミーナ嬢。ここからは時折話がそれがちであったがために簡単にまとめる。東條閣下をまねてメモ魔になった甲斐があってか、大体人の言うことをまとめることはうまくなったように思う。手帳って小さいからね。
要するにフリートヘルミーナ嬢がゾンネベーケの家に電話をしたところ、出た使用人がどうも口裏合わせのことを通知されておらず、それで応対をしたために起こった事故のようである。まあ、使用人への教育不適切、のところでけん責処分で大方は決まりだろう。それは後で行うにして。
さて、この姉妹に対してどういった態度で臨むべきかわからない。厳な態度で臨むと勝手に死にそうだし、死なれたら困る、どうしたものか。




