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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第三章
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死者からの伝言

翌日。


俺は科捜研を訪れていた。


無機質な白い壁。


鼻をつくのは微かな薬品の臭いと、室内のやけに乾燥した空気だった。


ここには、生者の熱気はない。


あるのは、死者が残した物言わぬ証拠だけだ。


法医担当の職員が、一枚の書類をデスクに広げた。


法医学教室から送られてきたばかりの、皆原誠の司法解剖報告書だ。


「報告書によれば、皆原さんの死因は急速な出血性ショック死です」


職員は事務的な口調で、淡々と死の事実を読み上げる。


「頸部に深い切創があり、これが致命傷となっています。頸動脈を寸断しており、極めて短時間で大量出血が起きたと考えられます」


俺は報告書に添付されたシェーマ……人体図に目を落とした。


首元に引かれた、太く赤い線。


一撃必殺。


迷いなく、命を断ち切る深さ。


「顔と胸部には多数の刺し傷がありますが……」


職員は言葉を切り、少し眉をひそめた。


「これらの傷の多くは、生活反応が乏しい。つまり、死後に加えられた可能性が高いです」


死体への暴行。


オーバーキル。


須田優司という男の、底知れない闇が覗く。


だが、俺の中で何かが引っかかった。


「防御創については? 何か特徴的なことはありますか?」


刃物で襲われた人間は、本能的に手で身を守ろうとする。


腕や掌に傷が残るのが普通だ。


職員は少し困惑したように首を振った。


「それが、明確な防御創が見当たらないのです」


「ない?」


「はい。致命傷が非常に重篤だったため、皆原さんが抵抗する機会がほとんどなかった可能性があります。おそらく一撃で意識を失い、その直後に死亡したと推測されます」


俺は腕組みをして考え込んだ。


不意打ちだったのか?


それとも、皆原は抵抗しなかったのか?


あるいは――抵抗できなかったのか?


「つまり最初の一撃で致命傷を負い、その後意識を失っている間に他の傷を負ったということですか?」


「その可能性が高いですね、ただし詳細な状況については現場の痕跡と合わせないと断定はできませんが」


納得はいかないが、事実は事実だ。


俺は礼を言って席を立った。


「ありがとうございました」


科捜研を後にする。


自動ドアを抜けて建物の外に出ると、昼下がりの生温かい風が肌を撫でた。


室内の冷気で冷え切った体が、急激な温度差に戸惑う。


俺は一息つくように立ち止まり、深く息を吸い込んだ。


肺の中の薬品臭さを吐き出したかった。


頭を整理しようと、ポケットからタバコを取り出しかけた時だ。


――視線。


背筋に、冷たいものが這った。


誰かに見られている。


長年の刑事の勘が、警鐘を鳴らしている。


俺は素早く振り返った。


そこには、昼休みの職員たちが行き交う日常の風景があるだけだった。


植え込みの影や建物の角、駐車場の車列。


目を凝らして探るが、怪しい人影はない。


「……気のせいか?」


いや。


粘りつくような視線の感触は、間違い無く感じた。


獲物を狙う獣のような、あるいは値踏みするような眼差し。


俺は舌打ちをし、足早に歩き出した。


落ち着かない。


この事件に関わってから、何かがずっと俺の背中に張り付いている気がする。


捜査一課のオフィスに戻ると、瀬戸が俺を待っていた。


彼女の表情は硬い。


手には一枚の紙切れが握られている。


「どうした?」


俺が近づくと、瀬戸は気まずそうにその紙を差し出した。


それは、古い新聞記事のコピーだった。


「十河さん……これを見てください」


俺は記事を受け取り、見出しを目で追う。


そこには、七年前の大震災の被害状況を伝える文字が躍っていた。


そして死亡者リストの中に、見覚えのある名前があった。


『須田 紗季』


思わず目を見開く。


「須田紗季さんが……八年前の震災で亡くなっていただと!」


あの『笑顔の仮面』を剥がすことができた唯一の人物。


須田優司の心の拠り所。


瀬戸は静かに頷いた。


「はい……須田の人生に最も大きな影響を与えた出来事だったようです」


「そうか……」


俺は記事をデスクに置き、深いため息をついた。


拠り所を失った少年。


その喪失が、彼を怪物に変えたのか?


いや、そんな単純な話ではないはずだ。


「皆原のスマホの捜査はどうなっている?」


俺は話題を変えた。


感情移入は捜査の目を曇らせる。


今は事実を積み上げるしかない。


瀬戸は少し目を逸らしながら答えた。


「それが……皆原名義の契約は見つかりませんでした」


「何だと?」


「須田や、念の為亡くなった須田の母親・沙良の名義でも確認しましたが……皆原が使っていたスマホは特定できていません」


現代社会で、スマホを持たずに生活しているとは考えにくい。


大家も皆原はスマホを持っていたと証言している。


「PINEアプリの調査結果は?」


「海外法人のアプリで秘匿性が高く、情報開示に難色を示しています。運営側からの回答待ちですが、望みは薄いかと……」


瀬戸の声には微かな緊張が感じられた。


手詰まり感が漂う。


俺は眉間に指を押し当て、深くシワを刻んだ。


「須田本人は相変わらずのらりくらりだしな」


なぜスマホが見つからない?


犯行現場のあの部屋にはなかった。


須田が持ち去ったのか?


それとも、最初からそこにはなかったのか?


「なぜスマホが見つからないんだ? 何か見落としているのか……」


俺の独り言のような問いに、瀬戸は答えなかった。


彼女は黙ったまま、じっと俺の横顔を見つめているようだった。


須田の笑顔。


消えたスマホ。


防御創のない遺体。


そして、八年前の死。


パズルのピースは揃いつつあるのに、なぜか綺麗にハマらない。


まるで最初から、違う絵を見せられているような感覚だった。

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