表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第二章
4/40

冷えた陽だまり

腰に走る鈍い痛みを掌でさすりながら、私――里村久恵さとむらひさえは深く息を吐いた。


窓の外。

十一月の冷たく澄み切った空が、どこまでも高く広がっている。


かつての熱気は跡形もなく消え去り、代わりに乾いた北風が、街の色彩を奪い去っていた。


低くなった太陽から放たれる光は暖かさをもたらすことなく、ただ白々と部屋の中を照らし出している。


閉め切られた部屋の中、暖房を入れたエアコンの駆動音だけが低く唸っている。


手元の湯呑みには、すっかり冷めきって酸化した緑茶が淀んでいた。


私はそれを口に含んだが、舌に残るのは渋みだけだ。


視線は、消すに消せないままつけっぱなしにしていたテレビ画面に吸い寄せられている。


元高校教師である私が、最後の卒業生を送り出して定年退職を迎えてから数年。


本来なら、縁側で茶を啜るような穏やかな隠居生活が待っていたはずだった。


だが、現実は違った。


『……須田優司容疑者の事件について、警視庁は……』


ニュースキャスターの無機質な声が、鼓膜を突き刺す。


画面に映し出されるテロップ。


そこには、私の元教え子である『須田優司』の名前があった。


ここ数日、このニュースが私の日常を侵食していた。


警察やマスコミからの執拗な問い合わせ、近所からの好奇の視線。


それらが積み重なり、私の平穏は粉々に砕け散っていた。


耐えきれず、リモコンの電源ボタンを押し込む。


ふつと画面が暗転し、部屋に重苦しい静寂が戻った。


頭が痛い。


こめかみの奥で、誰かが小さな金槌で叩いているような脈動がある。


眠れない夜が続いたせいだけではない。


あのニュースが、あの子の笑顔が……錆びついた棘となって脳髄に突き刺さっているのだ。


優司君。


あの子が、人を殺した?


あの穏やかな笑顔の裏で?


思考が泥沼にはまりかけた、その時だった。


ジリリリリ……!


固定電話のベルが、静寂を引き裂くように鳴り響いた。


心臓が跳ね上がり、私は弾かれたように立ち上がる。


受話器を見つめる視線が揺れる。


またマスコミか、それとも警察か。


三度目のコール音。


意を決して受話器を取り、耳に当てた。


「……はい、里村です」


喉が張り付いて、声が掠れる。


「私、弁護士の高津こうづと申します。里村久恵さんのお電話でお間違いないでしょうか?」


受話器の向こうから聞こえてきた声。


それは予想に反して若く、それでいて落ち着き払った男性の声だった。


「……はい」


「お忙しい所恐れ入ります。私、須田優司さんの弁護を担当しております」


弁護士。


その肩書きを聞いた瞬間、胃の腑に冷たい石が落ちたような感覚に襲われた。


「もしよろしければ、須田さんの事についてお話を伺いたいのですが、いかがでしょうか?」


一瞬、言葉に詰まる。


もう忘れたい。


何も考えたくない。


逃げ出したいという本能が警鐘を鳴らす。


だが、それ以上に――あの子が殺人犯になったという現実を、どうしても腹の底で消化しきれない自分がいた。


知りたい。


なぜあの子が。


「ええ……構いませんが……」


迷いを孕んだ声で答えると、相手は即座に応じた。


「ありがとうございます。実は今、お宅の近くにおります。直接お会いしてお話しできればと思うのですが、よろしいでしょうか?」


マスコミだけでなく、弁護士にも私の住所は筒抜けらしい。


まあアポイントも取らずに押しかける者も多い中、意思確認をするだけ誠実な対応と言えるだろうか。


「わかりました、お待ちしています」


受話器を置くと、掌がじっとりと汗ばんでいた。


約十五分後。


インターホンが鳴り、私は重い足取りで玄関へ向かう。


ドアを開けるとそこには、熱気と共にきちんとしたスーツを着こなした若い男性が立っていた。


細身の体躯に、短く整えられた黒髪。


額には薄っすらと汗が滲んでいるが、清潔感のあるハンカチでそれを拭い真摯な眼差しを私に向けていた。


三十代前半だろうか。真面目さが服を着て歩いているような青年だ。


「お待たせしました、高津です。お時間をいただき、ありがとうございます」


深々と頭を下げる彼に私は少し間を置いてから、


「中へどうぞ」


と促した。


彼を居間へ通しながら、私はハッとしてテーブルの上を見た。


そこには、須田君たちが写っている卒業アルバムが開かれたまま放置されていた。


彼らがまだ無垢だった頃の記憶に、私が縋り付いていた証拠だ。


見られたくない。


私は慌ててアルバムを閉じ、脇の棚へと押しやった。


「お茶、お持ちしますね」


台所へ逃げ込み、震える手で急須を握る。


「お気を遣わせてしまい申し訳ありません」


高津さんの恐縮した声が耳に届く。


汗を搔いていらしたから、冷たいものの方がいいだろう。


冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。


氷がカランと音を立てた。


居間に戻り、向かい合ってソファに座る。


グラスの表面に結露した水滴が、一筋流れてコースターに染み込んでいく。


窓の外の秋の光は白々しく眩しすぎるのに、部屋の中には鉛のような沈黙が横たわっていた。


私は呼吸を整え、口火を切った。


「高津さん」


相手の目を、努めて真っ直ぐに見据える。


「本当に、あの子が……あのようなことをしたとお考えですか?」


私の問いに高津さんは、表情を引き締め真摯に答えた。


「残念ですが……自分で通報した上で最終的に自首しているので、それは間違いないと思います。ただ、どうしてそうなってしまったのかは知りたいと考えています」


正直な方だ。


それは嘘偽りのない、しかし残酷な肯定だった。


胸の奥で燻っていた微かな希望が消える。


私は吐き出すように問い重ねた。


「本人は、何と言っているのですか?」


「ほぼ、黙秘しているような状態です」


高津さんの声には、無力感が滲んでいた。


「黙秘?」


思わず鸚鵡返しに尋ねてしまう。


「須田君は、あなたに弁護を依頼したのでしょう?」


私が首を傾げると、彼は気まずそうに視線を僅かに逸らした。


「実は、須田さんは弁護士を雇いませんでした。私は国選弁護人です」


その言葉に、私は思わず声を上げた。


「えっ……」


国選弁護人。


それはつまり、彼が自ら選んだわけではない。


ただ単に制度として、国からあてがわれただけの関係ということだ。


「つまり高津さんは名簿から偶然選ばれた国選弁護人で、しかも須田君もまともに事件について話していないと言うのに……こんなところまで足を運んで調べてくださっているのですか?」


信じられなかった。


言い方は良くないが、ただの割り振られた仕事。


いや、この事件の報道を見るに押し付けられたと言って良いかも知れない。


そんな物の為に、ここまでする人間がいるなんて。


高津さんは照れくさそうに頭をかいた。


「いえ、なんだかどうしても腑に落ちなくて。それに私は意外と顔が広いので、色んな方にご協力いただきながらなんとかやれています」


目頭が熱くなる。


国選弁護人という枠を超えて、諦めずに『須田優司』という人間を知ろうとしてくれる人がここにいると知れたのだから。


その誠実さに触れ、張り詰めていた警戒心が氷解していくのを感じた。


この人なら、話してもいいかもしれない。


私は大きく深呼吸をして、肺の奥の空気を入れ替えた。


「須田優司君のことですね」


記憶の彼方から七、八年前の風景を手繰り寄せる。


「細かいことは思い出せないかもしれませんが……」


「印象に残っていることだけで構いません」


高津さんがペンを構える。


目を閉じると蘇る。


チョークの粉の匂いと、生徒たちの喧騒。


「あの頃、教室はいつも生徒たちの話し声と笑い声で溢れていました。休み時間になればグラウンドの土埃、廊下を走る足音……それぞれが思い思いに過ごしていました。やんちゃな子も多くて、時には手を焼くこともありましたが……」


懐かしさに口元が緩む。


だが、すぐに現実に引き戻された。


「あらいけない、優司君のことでしたね」


自嘲気味に笑い、本題に戻る。


「優司君は、智成ともなり君と清香さやかちゃんとよく一緒にいました。三人で過ごす時間が多かったように思います。他の生徒との関係も、特に問題はなかったように思います」


高津さんは静かに頷き、メモを取る手を止めずに尋ねた。


「須田さんの家庭環境について、何か印象に残っていることはありますか?」


核心だ。


私は記憶の澱をかき混ぜるように、重い口を開いた。


「そうですね……優司君の家庭環境は少し複雑で、詳しいことは次第にわかってきたのですが……」


一拍置き、心を落ち着ける。


「私があの子達の担任になったのは、八年前のことです。高校二年と三年の時、優司君は最初叔母さんと2人で暮らしていたんです。その頃のあの子は穏やかで、クラスでも落ち着いた様子が印象的でしたね」


高津さんが顔を上げる。


「ところが、彼が高校二年生の終わり頃だったでしょうか。あの震災が起こり、その叔母様を突然亡くされたんです。それから優司君は、お母様と暮らすようになりました」


当時の優司君の、どこか影のある横顔が脳裏に浮かぶ。


「その後、あの子の様子が少しずつ変わっていったんです」


「母親との関係が影響したのでしょうか?」


私は重く頷いた。


「はい、お母様との関係は……あまり良くなかったものですから……」


言葉を選ぶのが苦しい。


だが、事実は伝えなければならない。


「ある日、智成君が私に相談してきたんです。『優司の体にアザがある』と」


あの時の智成君の真剣で、不安げな瞳を思い出す。


「その後、清香ちゃんも私に話してくれました。放課後にプリントを届けた時、家の中からお母さんの怒鳴り声と、何かを叩く音が聞こえたと……」


鈍い音。


女性の金切り声。


それを聞いた生徒たちの恐怖を思うと、今でも胸が痛む。


「それで、どう対応されたのですか?」


高津さんの声が低くなる。


「すぐに児童相談所と警察に相談しました。警察にも協力してもらい、一時保護施設へ入れることになったんです」


しかし、それは解決にはならなかった。


「でも、その一時保護施設も長くは続きませんでした。優司君のお母様が、執念で居場所を突き止めてしまったんです」


高津さんが目を見開く。


「それで?」


「児童相談所も人手不足で対応が追いつかず、結局『在宅支援』という形で家に戻されることになりました」


私は己の声に隠しきれない怒りが滲むのを感じた。


行政の壁を前にしたあの時の無力感、それが再びこの胸に訪れる。


「私はその決定に納得できませんでした。そこで学校を巻き込んで、須田君を学校の寮に入れることを提案したんです」


「学校の寮ですか、それなら安全ですね」


「そう思ったんですが」


私は苦い笑みを浮かべた。


「お母様が大反対しただけでなく、児童相談所も難色を示して話し合いは難航しました。でも最終的には、お母様の内縁のご主人が説得してくれたんです」


「そのご主人は、どんな理由で説得されたのでしょう?」


「彼が言うには『優司君と沙良さんのためにも、今は少し距離を置いたほうがいい』と言っていました。お母様もわかってはいたようで、渋々ですが納得したようでした」


高津さんは感心したように、


「ご主人には冷静な判断力があったようですね」


と呟いた。


そう、あれは確かに救いの手だった。


あの時は。


「この出来事がきっかけで、須田君はかなり私を信頼してくれるようになったと思います……」


だが、すぐに暗い物が胸に押し寄せる。


「今にして思うと、それも良くなかったのかもしれません」


そう呟いた私の視線は、再びテーブルの上の冷めたお茶へと落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
かつての教え子が事件を起こしたという衝撃と、自らの過去の選択への葛藤が重なり、読者の心に深く突き刺さる章でした。教師としての誇りと無力感、そして優司君への複雑な想いが、丁寧な心理描写で描かれています。…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ