月下の対峙
胸元の弁護士バッジに無意識に手が伸びる。
冷たい金属の感触を指先に確かめることで、かろうじて理性を繋ぎ止めていた。
夜の墓地。
足元は悪く、視界も悪い。
私は久美子から受け取った情報を頼りに、息を切らせて石畳の道を急いでいた。
冷ややかな夜風が汗ばんだ肌を撫でる。
須田さんは、本当にここにいるのだろうか。
そして、無事なのだろうか。
墓地の入り口付近で、人影を見つけた。
街灯の頼りない明かりの下、二人の若者が不安そうに立ち尽くしている。
私は足を止めた。
「あれは……」
久美子から渡された資料にあった顔写真が脳裏をよぎる。
五十島謙さんの子供たち、真知さんと信護君だ。
こんな夜更けに、なぜ二人がここに?
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
私は呼吸を整え、努めて穏やかな表情を作って二人に近づいた。
「失礼ですが、五十島真知さんと信護君ですか?」
声をかけると二人はびくりと肩を震わせ、警戒心を露わにして振り返った。
「私は弁護士の高津です。お父さんの知り合いです」
名刺を差し出す時間が惜しい、言葉だけで信用してもらうしかない。
「お二人がここにいるのは……?」
真知さんが、縋るような目で私を見た。
「お父さんが……戻るのを待っていたんです。でも全然帰ってこなくて、電話も繋がらなくて……」
「だから、探しに来ました」
信護君が硬い声で言葉を継ぐ。
五十島さんが、ここに?
まさか、須田さんと会っているのか?
最悪のシナリオが頭をかすめ、血の気が引くのがわかった。
「でもどうして私たちのことを知っているんですか?」
当然の疑問だ。
私は一瞬躊躇したが、今は説明している時間がない。
「お父様に写真を見せてもらったことがあります」
咄嗟に嘘をついた。
「一緒に行ってもいいですか? 私もお父さんを探しているんです」
少し戸惑いながらも大人の同伴に安堵したのか、二人は頷いた。
私は彼らを庇うように前に立ち、墓地の奥へと進んだ。
砂利を踏む音が、静寂の中でやけに大きく響く。
しばらく歩くと、前方の開けた空間に異様な光景が広がっていた。
月明かりの下、三つの人影が対峙している。
時間が凍りついたような、張り詰めた空気。
私は息を呑み、子供たちを手で制した。
「待って」
そこにいたのは、須田さん。
そして、彼と向かい合うように立つ、スーツ姿の女性。
彼女の手には黒光りする拳銃が握られ、その銃口は真っ直ぐに須田さんに向けられていた。
そして二人の間に割って入るように立っているのは、五十島さんだ。
五十島さんは、両手を広げて須田さんを庇うようにしていた。
その背中は小刻みに震えているが、足は一歩も引いていない。
「待ってください!」
五十島さんの声が、夜気に響く。
「瀬戸警部、優司君は抵抗する気はありません。銃を下ろしていただけませんか?」
瀬戸警部と呼ばれた女性は銃口をぶらさず、困惑と焦燥が入り混じった表情で二人を見据えている。
「退いてください、五十島さん! その男は危険です!」
その緊迫したやり取りの中、須田さんだけが異質だった。
彼は口元にいつものあの穏やかな、しかしどこか諦観を帯びた微笑みを浮かべていた。
「お人好しですね、五十島さん」
須田さんの声には、皮肉めいた温かさが混じっていた。
「僕を信用するのは危険ですよ、こんな状況なら尚更」
「優司君、お願いだ。もうこれ以上……」
五十島さんが説得を試みようとした、その時だった。
「お父さん?」
私の背後から、我慢しきれなくなった真知さんの声が漏れた。
「兄さん?」
信護君も続く。
「どうして、こんなことに?」
「お兄ちゃん、何があったの!?」
その声が、均衡を破った。
須田さんの表情から、すっと感情が抜け落ちる。
彼は目にも止まらぬ速さで動いた。
「優司君!?」
須田さんは五十島さんが反応するよりも早く彼の背後に回り込み、その腕を羽交い締めにした。
そして、首筋に何かを突きつける。
月光を反射して鋭く光るそれは――大きなガラスの破片だ。
護送車の事故現場から持ち出したものだろうか。
布が巻かれた持ち手部分を、彼は強く握りしめている。
「動かないで」
須田さんの声は低く、冷徹だった。
「全員、動かないでください」
子供たちの前だからか?
それとも、他に目的があるのか?
瀬戸警部が悲鳴のような怒声を上げる。
「須田! 子供の前で親に危害を加えるつもり!?」
しかし人質となった五十島さんは、自分の身よりも子供たちを案じて叫んだ。
「落ち着いて! 真知も信護も来るんじゃない!」
「お父さん!」
子供たちはパニックに陥り、その場に釘付けになっている。
私は歯を食いしばった。
このままでは、誰かが傷つく。
最悪の事態を避けるために、私は前に進み出た。
「須田さん」
静かに、しかし腹にお腹に力を入れて呼びかける。
須田さんの視線が私に向けられた。
その瞳の奥に一瞬だけ驚きと、そして微かな安堵のような色が揺らめいた気がした。
だが彼はすぐに、人懐っこい笑顔を浮かべる。
「高津さん」
その声はまるで、カフェで偶然会ったかのように軽かった。
「ちょうどいいところに」
私が一歩近づくと、須田さんは突拍子もない提案をした。
「高津さん、五十島さんの身代わりになってくれませんか?」
「え?」
私は耳を疑った。
須田さんは困ったような顔をして、ガラス片を五十島さんの喉元に押し当てたまま言った。
「刑事さんも言っていたでしょう? 子の前で親に危害を加えるのは、さすがの私でも心が痛むんです。教育上もよろしくない」
冗談のような口調だ。
いつもの笑顔に見えるが、よく見ると目は笑っていない。
瀬戸警部が叫ぶ。
「勝手なこと言わないで! どっちかを人質になんてやめなさい!」
しかし、私は直感した。
これはチャンスだ。
彼と直接対話する事ができるかもしれない。
私は深く息を吸い込み、両手を挙げてゆっくりと近づいた。
「構いません瀬戸警部、私は須田さんの弁護士の高津です。須田さん、五十島さんは解放してくださいね」
「高津さん!?」
五十島さんが驚愕の声を上げる。
須田さんの笑顔が、さらに深くなった。
「さすが、私の弁護士」
それは褒め言葉なのだろうか。
私は彼の間合いに入った。
須田さんの動きは洗練されていた。
一瞬のうちに五十島さんを突き飛ばし、入れ替わりに私の腕を掴んで引き寄せる。
ひやりとした硬質な感触が、私の首筋に触れた。
鋭利なガラスの切っ先。
動脈の上で、死の感触が脈打っている。
「ご協力ありがとうございます、高津さん」
耳元で、須田さんが囁いた。
その声はまるで、はぐれてしまった友人を見つけて喜ぶかのようだった。
解放された五十島さんはよろめきながら子供たちのもとへ駆け寄ると、二人を強く抱きしめた。
「お前たち、無事か!?」
「お父さん……!」
抱き合う家族の姿。
それを須田さんは冷ややかな、それでいてどこか羨望を含んだ目で見つめていた。
瀬戸警部は、銃を下ろせないまま立ち尽くしている。
標的が変わり、しかも子供たちが近くにいる状況で引き金を引くことはできない。
「須田君……」
彼女の声から、先程までの怒気が消えていた。
代わりに滲んでいたのは、深い悲しみと懐かしさ。
「久しぶりね」
その言葉に、私の首筋に当てられたガラス片がわずかに揺れた。
須田さんが、反応している。
「そうだね、こうして会って話すのは何年ぶりだろう」
須田さんの声色が、柔らかく変化する。
「何年ぶりだったかな」
瀬戸警部は、ゆっくりと銃口を下げた。
彼女は一歩、踏み出す。
「智成君のこと、覚えてる?」
智成。
その名前が出た瞬間、場の空気が変わった。
裁判で聞いた名前だ。
白血病で亡くなった、須田さんの親友。
須田さんの目が、遠い過去を見るように細められる。
「ああ……懐かしいな」
彼の声には、嘘偽りのない感情が宿っていた。
「忘れるわけないだろう」
「そうね」
瀬戸警部は噛み締めるように頷いた。
「彼が学校に来なくなる前に、急に旅行に行きたいって言い出して。私たち三人で行った遊園地、覚えてる?」
「ああ、あの旅行か」
「ジェットコースターで智成君が叫びすぎて、声が枯れちゃったこと。あとお化け屋敷で須田君が意外と怖がってて、智成君と私で笑ったこと」
まるで同窓会のような会話。
しかし、状況は首元に凶器を突きつけられた人質劇だ。
この奇妙な均衡が、逆に痛々しさを増幅させる。
須田さんは、ふっと小さく笑った。
「覚えてるよ。智成、心底楽しそうだったな」
「ええ」
「でも、最後にみんなで観覧車に乗った時が一番印象に残ってる。夕日を見ながら、三人で将来の夢を語り合ったんだ」
須田さんの言葉に、瀬戸警部の表情が歪む。
「そうね、須田君の夢は……お医者さんだったね」
「ああ、そうだった」
「医大……どうして辞めちゃったの?」
瀬戸警部の問いかけは警察官としてではなく、かつての友人としてのものだった。
須田さんは少し考え込むような間を置いて、答えた。
「勉強についていけなくてね」
嘘だ。
私は久美子から、須田さんが沙良さんのために大学を辞めたと皆原さんが言っていた事を聞いていた。
「そう……」
瀬戸警部も恐らく、それを察しているのだろう。
彼女は悲しげに目を伏せ、そして顔を上げた。
「私は、夢なんてまだわからないって言ってて……」
「そうだったね」
須田さんは優しい声で促した。
「で、智成の夢は……」
「警察官だった」
瀬戸警部が、静かに告げた。
須田さんの目が、驚きに見開かれた。
「まさか、それで警察官に?」
瀬戸警部は答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁な肯定だった。
亡き友の夢を継ぎ、彼女はここに立っている。
「どうだろうね」
はぐらかすように彼女は言ったが、須田さんは納得したように頷いた。
「いや、僕はようやく合点がいったよ」
「智成君は最後に、須田君のことを頼むって言ったの」
瀬戸警部の瞳に、涙が膜を張る。
「私に、あなたのことを見守ってほしいって」
その言葉を聞いた瞬間、私の首元の力がわずかに緩んだ気がした。
須田さんの心が、揺れている。
そう言う事なのだろうか。




