追憶の先に
ずり落ちそうになったキャップのつばを、乱暴に掴んで深く被り直す。
焦燥感が、背中をじりじりと焼いていた。
私は高津秀人の法律事務所が入居している雑居ビルの階段を、一段飛ばしで駆け上がった。
息が切れる。
心臓が早鐘を打っている。
だが、足を止めるわけにはいかない。
事務所の錆びついたドアノブを掴み、勢いよく開け放つ。
バンッ!
静かな事務所に、破壊音に近い音が響き渡る。
デスクで書類と格闘していた高津が、弾かれたように顔を上げた。
「久美子!? どうしたんだ、そんなに慌てて……」
私は肩で息をしながら、部屋の中へ踏み込んだ。
「時間がない、すぐに出て」
「え?」
「優司が……須田優司が、護送車から脱走した」
その一言で、高津の表情が一変した。
間の抜けた驚き顔が、一瞬で弁護士の鋭い顔つきに変わる。
「本当か? どうやって?」
「詳しいことは後で話す。車、下に回してあるから」
私は高津の腕を掴み、強引に椅子から引き剥がした。
質問に答えている暇などない、一分一秒が惜しいのだ。
二人で私の愛車に乗り込むと、私はキーを回しアクセルを床まで踏み込んだ。
タイヤが悲鳴を上げ、車体が急発進する。
助手席の高津は、シートベルトを締めながら混乱した様子で私を見た。
「おい、一体どこに向かっているんだ?」
私は前方を見据えたまま、ハンドルを強く握りしめる。
流れる街灯が、フロントガラスに赤い線を引いていく。
「須田沙良さんの墓」
短く答える。
「墓? なぜそこに?」
「優司は久留島を殺した直後も、紗季さんと同級生の墓参りに行っていたのよ」
私は脳内の地図と、入ってきた情報を照らし合わせる。
「それに護送車が事故を起こした場所が、沙良さんの墓がある霊園の近くなの。偶然にしては出来すぎている。……私の勘が、あそこだって言ってる」
「勘、か……」
高津は軽く笑った。
「君は相変わらず突然だな、根拠よりも直感を信じて走り出す」
その言い草に、昔の苛立ちが蘇る。
私はちらりと高津を睨みつけ、
「そういう言い方、昔から嫌いだったわ」
そう吐き捨てた。
声に、少しだけ本気の棘を混ぜる。
「それが、離婚の理由?」
高津が冗談めかして言う。
私は何も答えなかった。
『あんたのせいじゃない』なんて、口が裂けても言ってやるものか。
ハンドルを切る手に力を込める。
車内には沈黙が流れた。
気まずい沈黙ではない。
長く連れ添った者同士の、阿吽の呼吸にも似た静寂。
その間。
私の頭の中では優司とのこれまでの関わりや、沙良さんとの複雑な因縁が走馬灯のように浮かんでは消えていた。
やがて、目的の霊園が見えてきた。
周囲にはまだ警察車両の姿はない。
私は車を少し離れた路肩に寄せ、エンジンを切らずに停車させた。
「もうすぐそこよ、ここからは走って行って」
高津がドアに手をかけ、振り返る。
「君は?」
私はサイドミラーを確認しながら、微かに笑みを浮かべた。
「私はここまで、警察に見つかるとまずいから」
目配せをする。
「地震の混乱のおかげで検問は抜けられたけど、すぐに警察が網を張るでしょう。特にあの目つきの悪い刑事……十河警視に見つかったら厄介だわ」
以前尾行がバレて捕まりかけた時の、あの鋭い眼光を思い出す。
高津は全てを察したように頷いた。
「わかった、ありがとう久美子」
「行って」
高津は車を降り、夜の闇に沈む墓地へ向けて走り出した。
その背中を見送りながら私はふと、窓から顔を出して叫んでいた。
「待って!」
高津が足を止め、不思議そうに振り返る。
「どうした?」
何を言おうとしたんだ、私は。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、別の言葉に変換する。
「……一緒に行けなくてごめん、優司をお願い」
高津は優しく微笑んだ。
「言うまでもないだろ」
そう言って、再び駆け出す。
「……あんたも気をつけなさいよ、いつもありがとう」
小さく呟いたその言葉は、エンジンの音にかき消された。
聞こえなくていい。
これは私の、ただの独り言だ。
高津が優司の国選弁護人に指名された時、私は運命めいたものを感じた。
『予告殺人鬼の弁護人』として世間からバッシングを受け、それでも真っ直ぐに須田優司と向き合い続けるこのお人好しな元夫。
私は心底心配していたし、同時に誇らしくも思っていた。
高津の背中が闇に溶けて見えなくなると、私は車をゆっくりと発進させた。
バックミラーに映る墓地の入り口が遠ざかっていく。
ハンドルを握る手の中で、過去の記憶が熱を帯びて蘇ってくる。
私がまだ、祖父の探偵事務所を手伝い始めたばかりの高校生だった頃。
近所に住んでいた、美しい姉妹のことを思い出す。
姉の沙良さんは、誰もが振り返るような華やかな美人だった。
長い黒髪と大きな瞳、そして自信に満ちた立ち振る舞い。
彼女の周りにはいつも男性の影が絶えなかった。
対照的に、妹の紗季さんは地味だった。
黒縁眼鏡にひっつめ髪。
真面目で、頭脳明晰。
性格は正反対だったが、二人とも私のことを妹のように可愛がってくれていた。
数年後。
祖父が亡くなり、私が事務所を継いで間もない頃。
最初に訪ねてきたのは、妹の紗季さんだった。
「久美子ちゃん、お願いがあるの」
彼女は切実な表情で、一枚の写真を取り出した。
甥の、須田優司の写真だった。
「優司を……探してほしいの」
「家出したんですか?」
「ええ……色々あって私が優司の面倒を見ていたんだけど」
紗季さんは静かに、しかし決意に満ちた口調で語った。
「私ね、医者から子供は望めないって言われたの」
彼女は寂しげに笑った。
「ま! そもそも相手もいないんだけどね!」
明るく振る舞うその姿が、痛々しかった。
「だから優司は私にとって宝物なの、あの子だけは私が守らなきゃいけないの」
子を成せなかった彼女にとって姉の子である優司という存在は、神様がくれた唯一の救いだったのだろう。
その切実な願いに応えて捜索を始めたが結局、優司は警察に保護されることになった。
私自身はあまり役に立てなかった。
だが優司が見つかった時の紗季さんの安堵で崩れ落ちそうな泣き顔は、今でも忘れられない。
それからさらに数年後。
今度は、姉の沙良さんが事務所のドアを叩いた。
かつての美貌は見る影もなくやつれ頬はこけ、目は落ち窪んでいた。
まるで幽霊のような姿に、私は言葉を失った。
「息子を……優司を探してください」
沙良さんは土下座せんばかりの勢いで懇願した。
その声には、かつての自信など微塵もなかった。
「理由は?」
私が冷たく尋ねると、沙良さんは震えながら答えた。
「私が……虐待をしたせいで、あの子は……児童相談所に……」
私は眉をひそめた。
嫌悪感が腹の底から湧き上がる。
「自業自得じゃないですか? そんな依頼は受けられません」
私は依頼人を突き放した。
虐待をする親になど、加担したくない。
しかし、沙良さんは諦めなかった。
彼女は涙を流しながら、優司が生まれた経緯を語り始めた。
かつては男遊びを繰り返していた自分が五十島謙という運命の人に出会い、人生を改めたこと。
幸せの絶頂で妊娠し、優司を産んだこと。
しかし夫が行ったDNA鑑定で、『親子関係なし』という結果が出たこと。
「……自分でも、分からなくなってしまったの」
沙良さんの声は狂気を孕んでいた。
「私は誓って、謙さん以外の人とは……でも、鑑定結果が……」
「だからって、子供に当たっていい理由にはなりません」
私が冷たく言い放とうとした時、沙良さんは一冊の古びた大学ノートを差し出した。
「これを読んでから決めてください、それでもダメなら……諦めますから」
それは彼女の日記だった。
沙良さんが帰った後、私は半信半疑でその日記を開いた。
そこには彼女の複雑な心境や交際と妊娠の経緯が、生々しい筆致で克明に記されていた。
生理周期や避妊の記録、謙さんとの行為の日付。
すべてが詳細に書かれていた。
探偵としての直感が告げた。
これが真実なら、子供が五十島謙の子でない確率は限りなく低い。
どちらかが嘘をついている?
それとも、鑑定ミス?
いや、この日記は後から辻褄を合わせて捏造できるような代物ではなかった。
書き殴られた文字の筆圧と涙の跡、ページごとの経年劣化。
そこには、一人の女の魂の叫びがあった。
後日。
再び沙良さんと会った時、私は条件を出した。
「依頼をお引き受けします、ただし条件があります」
私は彼女の目を射抜くように見つめた。
「もし再び虐待したら、私はすぐに児童相談所に通報します。私があなたを監視します」
沙良さんは息を呑んだ。
「それとあなたとお子さんは、私の知人の医師に診てもらいます。青木先生という精神科医で、信頼できる人ですから」
私は青木先生のボサボサの頭を思い出しながらそう言った。
「……わかりました、全て従います」
沙良さんは深く頭を下げた。
こうして私は依頼を引き受け、優司の居場所を突き止めた。
それと同時に、私はある極秘調査を開始した。
沙良さんには内密に。
五十島謙と須田優司のDNA鑑定結果についての、再調査を。
これらの決断がその後の私の人生に、そして優司の運命にどれほど深く関わっていくことになるのか。
当時の私には、想像もつかなかった。
私は強く瞬きをして、前を見据えた。




