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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第九章
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血の呪縛

たわしを握る指先に、冷たい水が染みていく。


目の前の墓石に刻まれた『沙良』の名前が、私を無言で責めているようだ。


「……沙良のことを、どう思っている?」


私は視線を墓石に落としたまま、絞り出すように尋ねた。


優司の表情が一瞬、ピクリと硬直したのが気配でわかった。


だが顔を上げると、そこにはまたあの笑顔が張り付いている。


「今更、何を聞くんですか?」


彼は軽く肩をすくめた。


その仕草はあまりにも他人行儀で、私の胸をえぐる。


私は優司の一瞬の変化を見逃さなかった。


彼の中にも、まだ感情のさざ波はあるのだ。


「ただの、好奇心だよ」


「好奇心……」


優司は言葉を反芻し、遠くの空を見上げた。


茜色の雲が、どす黒く変色し始めている。


「五十島さんにとっては、どんな人だったんですか?」


逆に問い返され、私は言葉に詰まる。


愛した人。裏切られた人。


私の人生を彩り、そして破壊した人。


「そうだな……私にとっては、複雑な思い出の人だ」


当たり障りのない言葉でお茶を濁し、私は再び墓石を磨き始めた。


ゴシゴシという音が、気まずい沈黙を埋める。


優司は笑顔のまま黙り込み、私の作業を見下ろしている。


その表情からは軽蔑も同情も、何も読み取れない。


ただの空虚な穴のようだ。


しばらくの沈黙の後、私は話題を変えることにした。


どうしても、これだけは伝えておきたかった。


「真知と信護のこと、覚えているかな? もう随分と大きくなったよ」


双子の弟と妹。


彼らが小さかった頃、優司はよく面倒を見てくれていた。


「……そうですか」


優司の返事は素っ気なかった。


だがその声のトーンに、ほんのわずかだが柔らかな色が混じったような気がした。


それは、私の願望が見せた幻聴だったのかもしれない。


優司は視線を落とし静かに、しかし冷ややかに告げた。


「いつまで、あの家に二人を縛るつもりですか?」


心臓が凍りついた。


たわしを取り落としそうになる。


「……え?」


「あの家には、あなたの望むものはもう無いんです。……いや、最初から無かったんですよ」


優司の言葉は、予言のように響いた。


あの家。


私が必死に守ってきた『砂上の楼閣』。


そこにはもう、空虚な空間しかないと彼は見抜いているのか。


私は何も答えられない。


「ニュースで見たよ」


苦し紛れに、私は最悪の話題を口にしてしまった。


「二人を……」


最悪の想像が脳裏をよぎる。


言い終わる前に、優司は遮った。


「ええ、そうですよ」


あまりにも軽い肯定。


目の前が真っ暗になる。


だが、彼はすぐに言葉を継いだ。


「あの女の恋人だった皆原誠と、バイト先のオーナー店長・久留島秀一です。二人を殺しました」


その一言に、私の全身から力が抜けた。


唇を強く噛み、滲んだ血の味を感じる。


何か言おうとして口を開いたが結局は、


「……そうか」


とだけ言って、再び震える手で掃除を始めた。


再び、重苦しい沈黙が訪れた。


風が強くなり、墓地の木々がざわざわと音を立てる。


二人の間に流れる時間は十年の空白を埋めるどころか、その深さを残酷なまでに強調していた。


私は掃除の手を止め、立ち上がった。


そして、優司を真っ直ぐに見据えた。


今言わなければ、一生後悔する気がした。


「……あの日、もし、違う選択をしていたら……」


私の言葉に、優司の笑顔が深まった。


目元が三日月のように歪む。


だが、その瞳だけは笑っていなかった。


絶対零度の冷たい光が、私を射抜く。


「あの日? ああ、私が『息子』じゃなくなった日ですね」


その言葉は、あまりに深く私の胸に食い込んだ。


「他に、何か言い方がありますか?」


優司は一歩、私に近づいた。


「あまつさえ……自分が引き取っていればこうはならなかった、とでも? 僕を救えたはずだと?」


彼の声には、抑えきれない嘲笑が含まれていた。


「思い上がりも甚だしいですね」


その言葉に、私は思わずカッとなった。


罪悪感を逆撫でされた怒りが、恐怖を凌駕する。


「何故そう言える!?」


私は食ってかかった。


「環境が違えば、お前だって……!」


「蛙の子は蛙、血は争えないですから」


優司は淡々と、呪いの言葉を吐いた。


その笑顔は崩れない。鉄壁の仮面だ。


「真知や信護もそうだと言うのか!」


私は声を荒らげた。


論点がずれていることは分かっている。


だが彼が『血』を理由に絶望することだけは、認めたくなかった。


優司は肩をすくめ、憐れむような目をした。


「違うでしょう? 母親『は』同じですがね」


そして彼は鋭い眼差しで私を見つめ、決定的な一言を放った。


「血など関係ないと、あなたは胸を張って言えますか?」


頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。


言葉が出ない。


自己弁護の言葉など、何一つ浮かばない。


心の中で、自分自身への痛烈な問いかけが反響する。


『本当に血など関係ないと思うなら、何故優司だけを引き取らなかったのか?』


『何故DNA鑑定の結果を見た瞬間、彼を『他人』だと思ってしまったのか?』


それは優司の口から発せられた言葉ではなく私自身の深層心理が生み出した、逃げ場のない断罪だった。


私は唇を噛みしめ、俯くことしかできなかった。


答えられない自分に、どうしようもない憤りと惨めさを感じる。


その時だった。


優司の表情が、僅かに変化した。


完璧に見えた笑顔の仮面に、微かな亀裂が入る。


彼は背後に、誰かの気配を感じ取ったようだ。


しかし、振り返ろうとはしない。


静かに、諦めたように呟いた。


「やれやれ……今度は誰ですか?」


優司の背後から、凛とした女性の声が静寂を切り裂いた。


「須田優司」


その声には、強い意志と、隠しきれない緊張が滲んでいた。


優司は一瞬止まると、ゆっくりと振り返った。


夕闇の中に立つ、スーツ姿の女性。


その手には、黒く光る拳銃が握られている。


その女性の姿を見ても、優司の表情は変わらない。


しかしその声には僅かな、本当に僅かな驚きが混じっていた。


「……これは、驚いたな」


女性は銃口を優司に向けたまま、冷静な声で告げた。


「私は警視庁捜査一課、警部の瀬戸です。須田優司、大人しくしなさい」


瀬戸……?


私には聞き覚えのない名だった。


だが、優司は知っているようだった。


彼は懐かしむように目を細める。


そして今日一番の、人間味のある笑顔を見せた。


「本当に久しぶりだね……清香ちゃん」

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