黄昏の墓標
ポケットからチューブを取り出し、指先に白いクリームを絞り出す。
乾燥した皮膚にそれを丁寧に刷り込みながら、私はふと自分の手が随分と老けたような気がした。
この季節になると、指先はすぐに荒れてささくれ立つ。
それはまるで私の荒んだ心象風景が、皮膚を通して表出しているかのようだった。
秋の終わり。
墓地には、冷たい風が吹き抜けている。
私は真知と信護を伴いながら、静寂に包まれた墓石の間を進んでいた。
乾いた落ち葉が足元でカサカサと音を立てて砕ける。
その乾いた音が、静寂を乱すようで妙に耳についた。
夕暮れの光が整然と並ぶ墓石に長い影を落とし、世界を茜色と黒色のコントラストに染め上げている。
「お父さん、誰のお墓?」
真知が首を傾げながら尋ねてきた。
その大きな瞳には、無邪気な好奇心が溢れている。
私は一瞬、足が止まりそうになるのを堪えた。
喉の奥に、苦いものがこみ上げる。
お母さんの墓だよ、とは言えなかった。
彼女の存在は、今のこの穏やかな家庭――私が必死に守ろうとしている『砂上の楼閣』を脅かす、過去の亡霊そのものだからだ。
「……行けばわかるよ」
私は穏やかな声を装って答えた。
だが。
その声に説明を避けたがっている後ろめたさが滲んでいることを、自分自身が一番よくわかっていた。
真知と信護は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げたが、それ以上の追求はしなかった。
聡明な子たちだ。父親の微かな拒絶を感じ取ったのかもしれない。
私は子供たちの肩に手を置き、逃げるように前へ進み始めた。
墓地の奥へと進むにつれ、私の心拍数は上がっていく。
周囲を警戒するように、時折後ろを振り返る。
誰かに見られていないか。
この場所にいることを、誰かに咎められるのではないか。
そんな強迫観念が、私を支配している。
やがて、目的の区画が見えてきた。
足を止める。
心臓が、早鐘を打った。
遠く、目的の墓の前に人影がある。
夕闇に溶け込むような、細身のシルエット。
私は息を呑み、反射的に子供たちを背に庇った。
夕暮れの逆光で顔までは見えない。
だが、その佇まいには見覚えがあった。
冷たい風が吹き抜けるたび、人影の髪が揺れる。
その姿はこの世のものではない何かが、墓石から染み出してきたかのように不気味に見えた。
「……ごめん、やっぱり帰ろう」
絞り出すように、私は子供たちに告げた。
「え? なんでだよ」
信護が不満げに声を上げる。
「せっかくここまで来たのに」
「いいから」
私は声を潜め、しかし強い口調で命じた。
「二人は先に車に戻っていなさい」
真知と信護は驚いた表情で私を見上げた。
私の顔色が、尋常ではないことに気づいたのだろう。
「……約束する、後でちゃんと説明するから」
懇願するような私の眼差しに、子供たちは黙って頷いた。
しぶしぶと来た道を引き返す二人の背中を見送る。
その背中が小さくなり見えなくなるまで、私は動けなかった。
あの子たちを、あの『人影』に近づけてはいけない。
それは本能的な恐怖だった。
子供たちの姿が見えなくなったのを確認し、私は表情を変えた。
覚悟を決めた、大人の顔に。
砂利を踏む音を殺し、そろりそろりと目的の墓に近づいていく。
心臓の音がうるさい。
墓前に佇む人物の背中。
そこには何か言いようのない重みと、深い闇が沈殿しているように感じられた。
思わず一瞬たじろぐ。
逃げ出したい。
だが、足は地面に縫い付けられたように動かない。
近づくにつれ、確信は恐怖へと変わる。
間違いない、彼は……。
突如として、その人物が独り言を呟き始めた。
「……あなたにとって、この女は」
その声音に、私は息を呑んだ。
低く、温度のない声。
「不倫をして、托卵をして……勝手に死んだ。」
感情を極限まで押し殺したような響きだった。
しかし、その言葉の裏には、煮えたぎるような憎しみと、どうしようもない悲しみが潜んでいるように感じられた。
「……そうでしょう?」
私は動揺を抑えようと、深く息を吸い込んだ。
その微かな呼吸音が、静寂を破ってしまったのか。
人物が、ゆっくりと振り返る。
「……なぜ、そんな女の墓参りに?」
その顔を見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
逆光の中に浮かび上がる、整った顔立ち。
そして、そこに張り付いたような、穏やかな微笑み。
須田優司。
かつて私の息子だった男。
明らかに、ここに居てはいけない人物だ。
私の脳裏に、記憶の奔流が押し寄せる。
この子が初めて、私を『パパ』と呼んだ日のこと。
小さな手を握り、公園でサッカーボールを追いかけた日々。
肩車をした時のあたたかな重みと、柔らかい髪の感触。
初めての息子だと思っていた。
双子の片割れを失った悲しみを乗り越え、生まれてきてくれた奇跡。
この子を、何としても大事に育てようと誓ったあの日。
それら全てがあの日――DNA鑑定の結果を知った日に、凍りついてしまった。
十年の歳月が流れていた。
彼は大人になり、背も伸びた。
だがその笑顔は一見すると、昔と何も変わらないように見えた。
しかし、決定的に何かが違う。
昔の彼の笑顔には、私への信頼と愛情があった。
今の彼の笑顔にあるのは、底知れない虚無と世界への嘲笑だけだ。
私は言葉を選びながら、震える唇を開いた。
「……久しぶりだね、優司君」
この呼びかけに、優司の目が僅かに見開かれた。
これまで、私が優司を『君』付けで呼んだことなど、一度もなかったからだ。
常に『優司』と呼んでいた。
それが親子の証だった。
優司もまた、同様に微笑みを深めて応じた。
「ご無沙汰しております、五十島さん」
お父さん、ではない。
五十島さん。
この十年越しの初めての呼び合いが、二人の関係の断絶を残酷なまでに証明していた。
かつては父と子として、同じ屋根の下で暮らしていた二人。
しかし今。
ここにあるのは他人行儀な距離感と、埋めようのない深い溝だけだった。
夕暮れの光が墓石を赤く染め、その影が二人の足元まで黒く伸びていく。
冷たい風が吹き抜けるたび優司の髪が揺れ、その笑顔がより一層能面のように不気味に見えた。
私は優司の表情を読み取ろうとした。
だがその笑顔の奥に潜む本当の感情を、今の私には何一つ掴むことができなかった。
「……そういう君は、なぜそんな人の墓参りに?」
私は、優司の質問をそのまま返した。
優司は答えなかった。
ただ笑顔を浮かべたまま、沈黙を守っている。
その沈黙が、重く圧し掛かる。
私の胸に、十年前の決断が蘇る。
『お前は、私の実の子ではない』
そう告げて、優司の手を放した瞬間。
あの日……彼の人生はどう変わり、私の人生はどう歪んだのか。
自分の選択は正しかったのか。
そんな答えの出ない問いが、今も私を苛み続けていた。
私は逃げるようにため息をつくと、墓に近づいた。
手桶から柄杓で水を掬い、静かに墓石に掛け始める。
バシャという水音が響き、水滴が石の表面を伝い落ちる。
その音だけが、二人の間に流れる息苦しい沈黙を破っていた。
長年の風雨で薄れかけていた『沙良』の文字が水を浴びて黒く濡れ、鮮明になっていく。
私が持参した線香に火をつける。
立ち上る紫煙が、風に揺られて優司の方へ流れていく。
その懐かしい香りが二人の間に漂い、封印していたはずの過去の記憶を無理やりこじ開けるようだった。
私はたわしを取り出し、丁寧に墓石を擦り始めた。
没頭することで、思考を停止させたかった。
優司は相変わらずの笑顔で、その様子をじっと眺めていた。
まるで、珍しい動物の生態観察でもするかのように。
やがて、彼は静かに口を開いた。
「……正気ですか?」
……正気、か。
言いたいことはわかる。
今ここにいるのは殺人罪で無期懲役の判決を受けた『凶悪犯』だと。
そんな自分に背中を見せるなんてどうかしていると。
そう言いたいのだろう。
確かにどうかしている、正気ではないのだろうと
自分でもそう思う。
DNA鑑定結果を見たあの日から、きっと私は壊れてしまったのだ。
私は力を入れ、熱心に墓石を磨いた。




