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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第九章
19/40

黄昏の墓標

ポケットからチューブを取り出し、指先に白いクリームを絞り出す。


乾燥した皮膚にそれを丁寧に刷り込みながら、私はふと自分の手が随分と老けたような気がした。


この季節になると、指先はすぐに荒れてささくれ立つ。


それはまるで私の荒んだ心象風景が、皮膚を通して表出しているかのようだった。


秋の終わり。


墓地には、冷たい風が吹き抜けている。


私は真知と信護を伴いながら、静寂に包まれた墓石の間を進んでいた。


乾いた落ち葉が足元でカサカサと音を立てて砕ける。


その乾いた音が、静寂を乱すようで妙に耳についた。


夕暮れの光が整然と並ぶ墓石に長い影を落とし、世界を茜色と黒色のコントラストに染め上げている。


「お父さん、誰のお墓?」


真知が首を傾げながら尋ねてきた。


その大きな瞳には、無邪気な好奇心が溢れている。


私は一瞬、足が止まりそうになるのを堪えた。


喉の奥に、苦いものがこみ上げる。


お母さんの墓だよ、とは言えなかった。


彼女の存在は、今のこの穏やかな家庭――私が必死に守ろうとしている『砂上の楼閣』を脅かす、過去の亡霊そのものだからだ。


「……行けばわかるよ」


私は穏やかな声を装って答えた。


だが。


その声に説明を避けたがっている後ろめたさが滲んでいることを、自分自身が一番よくわかっていた。


真知と信護は顔を見合わせ、不思議そうに首を傾げたが、それ以上の追求はしなかった。


聡明な子たちだ。父親の微かな拒絶を感じ取ったのかもしれない。


私は子供たちの肩に手を置き、逃げるように前へ進み始めた。


墓地の奥へと進むにつれ、私の心拍数は上がっていく。


周囲を警戒するように、時折後ろを振り返る。


誰かに見られていないか。


この場所にいることを、誰かに咎められるのではないか。


そんな強迫観念が、私を支配している。


やがて、目的の区画が見えてきた。


足を止める。


心臓が、早鐘を打った。


遠く、目的の墓の前に人影がある。


夕闇に溶け込むような、細身のシルエット。


私は息を呑み、反射的に子供たちを背に庇った。


夕暮れの逆光で顔までは見えない。


だが、その佇まいには見覚えがあった。


冷たい風が吹き抜けるたび、人影の髪が揺れる。


その姿はこの世のものではない何かが、墓石から染み出してきたかのように不気味に見えた。


「……ごめん、やっぱり帰ろう」


絞り出すように、私は子供たちに告げた。


「え? なんでだよ」


信護が不満げに声を上げる。


「せっかくここまで来たのに」


「いいから」


私は声を潜め、しかし強い口調で命じた。


「二人は先に車に戻っていなさい」


真知と信護は驚いた表情で私を見上げた。


私の顔色が、尋常ではないことに気づいたのだろう。


「……約束する、後でちゃんと説明するから」


懇願するような私の眼差しに、子供たちは黙って頷いた。


しぶしぶと来た道を引き返す二人の背中を見送る。


その背中が小さくなり見えなくなるまで、私は動けなかった。


あの子たちを、あの『人影』に近づけてはいけない。


それは本能的な恐怖だった。


子供たちの姿が見えなくなったのを確認し、私は表情を変えた。


覚悟を決めた、大人の顔に。


砂利を踏む音を殺し、そろりそろりと目的の墓に近づいていく。


心臓の音がうるさい。


墓前に佇む人物の背中。


そこには何か言いようのない重みと、深い闇が沈殿しているように感じられた。


思わず一瞬たじろぐ。


逃げ出したい。


だが、足は地面に縫い付けられたように動かない。


近づくにつれ、確信は恐怖へと変わる。


間違いない、彼は……。


突如として、その人物が独り言を呟き始めた。


「……あなたにとって、この女は」


その声音に、私は息を呑んだ。


低く、温度のない声。


「不倫をして、托卵をして……勝手に死んだ。」


感情を極限まで押し殺したような響きだった。

しかし、その言葉の裏には、煮えたぎるような憎しみと、どうしようもない悲しみが潜んでいるように感じられた。


「……そうでしょう?」


私は動揺を抑えようと、深く息を吸い込んだ。


その微かな呼吸音が、静寂を破ってしまったのか。


人物が、ゆっくりと振り返る。


「……なぜ、そんな女の墓参りに?」


その顔を見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。


逆光の中に浮かび上がる、整った顔立ち。


そして、そこに張り付いたような、穏やかな微笑み。


須田優司。


かつて私の息子だった男。


明らかに、ここに居てはいけない人物だ。


私の脳裏に、記憶の奔流が押し寄せる。


この子が初めて、私を『パパ』と呼んだ日のこと。


小さな手を握り、公園でサッカーボールを追いかけた日々。


肩車をした時のあたたかな重みと、柔らかい髪の感触。


初めての息子だと思っていた。


双子の片割れを失った悲しみを乗り越え、生まれてきてくれた奇跡。


この子を、何としても大事に育てようと誓ったあの日。


それら全てがあの日――DNA鑑定の結果を知った日に、凍りついてしまった。


十年の歳月が流れていた。


彼は大人になり、背も伸びた。


だがその笑顔は一見すると、昔と何も変わらないように見えた。


しかし、決定的に何かが違う。


昔の彼の笑顔には、私への信頼と愛情があった。


今の彼の笑顔にあるのは、底知れない虚無と世界への嘲笑だけだ。


私は言葉を選びながら、震える唇を開いた。


「……久しぶりだね、優司君」


この呼びかけに、優司の目が僅かに見開かれた。


これまで、私が優司を『君』付けで呼んだことなど、一度もなかったからだ。


常に『優司』と呼んでいた。


それが親子の証だった。


優司もまた、同様に微笑みを深めて応じた。


「ご無沙汰しております、五十島さん」


お父さん、ではない。


五十島さん。


この十年越しの初めての呼び合いが、二人の関係の断絶を残酷なまでに証明していた。


かつては父と子として、同じ屋根の下で暮らしていた二人。


しかし今。


ここにあるのは他人行儀な距離感と、埋めようのない深い溝だけだった。


夕暮れの光が墓石を赤く染め、その影が二人の足元まで黒く伸びていく。


冷たい風が吹き抜けるたび優司の髪が揺れ、その笑顔がより一層能面のように不気味に見えた。


私は優司の表情を読み取ろうとした。


だがその笑顔の奥に潜む本当の感情を、今の私には何一つ掴むことができなかった。


「……そういう君は、なぜそんな人の墓参りに?」


私は、優司の質問をそのまま返した。


優司は答えなかった。


ただ笑顔を浮かべたまま、沈黙を守っている。


その沈黙が、重く圧し掛かる。


私の胸に、十年前の決断が蘇る。


『お前は、私の実の子ではない』


そう告げて、優司の手を放した瞬間。


あの日……彼の人生はどう変わり、私の人生はどう歪んだのか。


自分の選択は正しかったのか。


そんな答えの出ない問いが、今も私を苛み続けていた。


私は逃げるようにため息をつくと、墓に近づいた。


手桶から柄杓で水を掬い、静かに墓石に掛け始める。


バシャという水音が響き、水滴が石の表面を伝い落ちる。


その音だけが、二人の間に流れる息苦しい沈黙を破っていた。


長年の風雨で薄れかけていた『沙良』の文字が水を浴びて黒く濡れ、鮮明になっていく。


私が持参した線香に火をつける。


立ち上る紫煙が、風に揺られて優司の方へ流れていく。


その懐かしい香りが二人の間に漂い、封印していたはずの過去の記憶を無理やりこじ開けるようだった。


私はたわしを取り出し、丁寧に墓石を擦り始めた。


没頭することで、思考を停止させたかった。


優司は相変わらずの笑顔で、その様子をじっと眺めていた。


まるで、珍しい動物の生態観察でもするかのように。


やがて、彼は静かに口を開いた。


「……正気ですか?」


……正気、か。


言いたいことはわかる。


今ここにいるのは殺人罪で無期懲役の判決を受けた『凶悪犯』だと。


そんな自分に背中を見せるなんてどうかしていると。


そう言いたいのだろう。


確かにどうかしている、正気ではないのだろうと

自分でもそう思う。


DNA鑑定結果を見たあの日から、きっと私は壊れてしまったのだ。


私は力を入れ、熱心に墓石を磨いた。

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