正義の天秤
眉間の皺をなぞる。
指先に触れるその溝が今日は一段と深く、熱を持っているような気がした。
俺は感情を必死に抑え込みながら、東京地方検察庁の長い廊下を歩いていた。
その足取りは速く、重い。
『法廷の死神』こと白浜沙織との面会。
冷たい金属のドアノブの感触が、手のひらにじっとりと汗を滲ませる。
深呼吸をしても、肺の奥にこびりついた黒い靄が思考をはっきりとさせてはくれない。
まるで戦場に一人で放り込まれるような、そんな感覚。
廊下を歩く俺の形相は、さぞかし酷いものだろう。
周囲の警備を腕一本で振り切り、俺は強引にその場所まで辿り着いた。
白浜沙織の執務室。
俺の剣幕を見た白浜は、眉をわずかにひそめた。
彼女は手で制するように、騒ぎを聞きつけて集まってきた周囲の職員たちに下がれと命じる。
バタン、とドアが閉まる。
部屋には、俺と白浜だけが残された。
静まり返った執務室で、白浜が口を開く。
「どういうつもりですか、十河警視」
その声は静かで、どこまでも冷ややかだった。
俺は努めて冷静になろうと深呼吸をし、腹の底から問い返した。
「あなたは……ご自分が何をしたのか、わかっているのですか?」
白浜は小首を傾げ、とぼけた表情を浮かべる。
「何のことでしょうか?」
その白々しい態度。
俺は懐から茶封筒を取り出し、中から一枚の紙を乱暴に引き抜いた。
それを彼女の目の前に突きつける。
「これを見ても、まだそう言えますか?」
白浜の視線が紙片に落ちる。
彼女の眉が、わずかに顰められたのが見えた。
ほんの数ミリの動き。
だがそれは、彼女の仮面に入った亀裂だった。
「……やはり、何のことかわかりませんね」
彼女は視線を逸らし、平然と言い放つ。
俺は我慢の限界を超え、彼女に躙り寄った。
俺はそりが合わないながらも、なんだかんだこの女を認めていたのだなと今更ながらに痛感させられた。
だからこそ、許せない。
「あなたという人は……」
言葉にならない怒りが、声帯を震わせる。
白浜は動じることなく、俺を睨み返す。
その瞳には、狂信に近い光が宿っていた。
「私は、自分の信念に基づいて行動しているだけです」
信念。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。
何が信念だ。
結局は、勝ちたいだけじゃねぇか。
緊迫した空気が流れる中、突然コンコンとノックの音が響いた。
「よろしいでしょうか」
聞き覚えのある、穏やかな低音。
白浜の声に、俺は顔を背けた。
「……どうぞ」
ドアが開き、三木事務官が入ってきた。
彼は室内の殺伐とした空気を意に介する様子もなく、少し驚いたような表情を浮かべて言った。
「おや、十河警視がいらしていたんですね」
白浜は瞬時に表情を整え、平然と答えた。
「ええ、今お帰りになるところです」
「なっ!」
不意打ちを食らって呆気にとられる。
「お見送りしましょう」
腑に落ちないながら、そう言ってドアを開ける三木に従った。
三木の言葉には文言だけでは伝わらない、有無を言わせぬ迫力があった。
俺は歯噛みしながら、突きつけていた紙を茶封筒に戻しポケットにしまった。
俺たちは執務室を出て、長い廊下をエレベーターに向かって歩き始めた。
三木の横顔には一瞬だけ、何か言いようのない複雑な感情が浮かんだように見えた。
廊下を歩きながら、俺は三木に問う。
「白浜検事に用があったのでは?」
三木に訊ねると、彼は前を向いたまま穏やかに答えた。
「急ぎの用ではありませんので」
予想通りの回答に、俺は皮肉っぽく笑った。
「でしょうね」
俺たちは無言で歩を進めた。
白浜と俺が揉めていることを察して、三木が白浜に助け舟を出したことを俺は十分に理解していた。
しかし三木の冷静な対応と穏やかな態度に、俺の沸騰した怒りは少しずつ温度を下げていった。
三木は俺の表情が和らいできたのを見計らって、静かに話し始めた。
「十河警視、少し昔話を聞いていきませんか?」
「構いませんよ、昔話で喜ぶような年齢ではありませんが」
と俺は答えた。
三木はそのまま歩きながら、遠くを見るような目をして話し始めた。
「実は白浜検事とは昔からの知り合いでして、彼女について少しお話しさせていただきたいんです」
彼は一呼吸置き、続けた。
「白浜検事は以前、優秀な弁護士でした」
俺は思わず怪訝な表情を浮かべたが、黙って聞き続けた。
三木の声には普段の穏やかさの中に、かすかな緊張感が混じっているように感じられた。
三木は淡々と語り続けた。
「当時の彼女には夫と幼い子供がおり、幸せに暮らしていました。大学卒業後すぐに結婚した夫婦が、三十代になってようやくできた子です。夫婦は彼を深く愛しました。『この子のためなら命すら惜しくない』と、よく言っていました」
エレベーターに乗り込みながら、三木は続けた。
密室の中で、彼の話は核心へと近づいていく。
「ある日、その子供が交通事故で亡くなりました」
三木の声が、ふっと低くなる。
「飲酒運転の車による事故でした」
その瞬間、三木の目に一瞬の悲しみが浮かんだように見えた。
俺は黙ったまま、じっと三木の話に聞き入る。
怒りと同情が入り混じり、胸の奥に渦を巻く。
三木は静かに、しかし力強く語り続けた。
エレベーターが下降する間、彼の言葉が重く響く。
三木の目は、ここではない遠くを見つめていた。
「事故の知らせを受け、白浜検事はご主人と警察署に駆けつけました。私も後を追って行きましたが……」
三木の声が詰まる。
「お二人は遺体を前に、全身を震わせて泣き崩れていました。白浜検事は『どうして……どうして……』と繰り返すばかりで、とても見ていられませんでした」
俺は黙って聞いていた。
三木は深呼吸をして続けた。
「その後事件の裁判が行われ、被告に執行猶予付きの判決が下されました。悪意に満ちた被告人、反省の色など微塵も見えない。私の目から見ても不当判決でした」
三木の声に悲しみが混じる。
「判決を聞いた瞬間、白浜検事の体が震えているのを見ました。彼女が崩れ落ちそうになったのを、ご主人が支えていました」
「白浜検事の目には、深い失望と怒りが満ちていました。『こんなことがあっていいの?』と、彼女は繰り返し呟いていました」
三木は深く息を吐いた。
「その後検察に控訴を断念すると言われ、白浜検事は一週間ほど姿を消しました。心配した私が彼女の家を訪ねると、彼女は虚ろな表情で『三木君、私検事になる』と言ったんです」
エレベーターを降り検察庁の出口へと向かいながら、三木は話を続けた。
「『人殺しを裁けない弱い検察に存在意義なんてない。だから私が検察官になって、人殺しを殺すわ』と」
その言葉の凄まじさに、俺は息を呑む。
「彼女は全てを捨てて、検事になるための勉強に打ち込みました。血の滲むような努力を重ね、ついに検事になったのです」
「それで彼女は……」
俺の呟きに三木は直接答えず、寂しげに微笑んだ。
「命すら惜しくないと思っていたものを、奪われた。だからこそ、奪ったものを何が何でも裁いてみせる。それが、彼女の従う信念だということです」
と語った。
俺は深く息を吐いた。
子供を事故で亡くしていたのは知っていた。
が、そういうことだったのか。
「だからと言って」
俺は三木を真っ直ぐ見つめ返した。
「何をやっても許される事にはなりませんよ?」
「……」
三木は答えなかった。
「……それともう一つ、あなたは捜査報告書には目を通されましたか?」
やはり三木は答えない。
だが表情を見ればわかる、こいつは知っている。
俺は皮肉を込めて言った。
「白浜検事は、随分と忠義に厚い腹心をお持ちなんですね」
三木は微笑みながら、検察庁の入り口を指し示した。
「名残惜しいですが、お気をつけてお帰りください」
俺が検察庁を出ようとした瞬間、突然の揺れが襲った。
グラッ。
足元が大きく揺らいだ。
地震だ。
咄嗟に壁に手をつき、体勢を保った。
揺れは予想以上に強く、しばらく続いた。
「大丈夫ですか?」
三木が声をかけてきた。
俺は頷き、
「ええ問題ありません、三木さんはいかがですか?」
と返した。
「私は大丈夫です」
揺れが収まると、俺は急いで外に出た。
街は騒然としており、あちこちで警報音が鳴り響いていた。
車に乗り込んだ所で、ちょうど無線が入る。
「こちら十河」
「各所から地震による被害報告が入っています。最大震度五強の縦揺れで……あ、待ってください。今緊急の連絡が……」
通信が一時中断され、何とももどかしくなる。
しばらくして再び声が聞こえてきた。
「十河警視、大変です。須田優司の護送車が事故を起こしたという第一報が入りました。詳細は不明ですが、地震の影響で電柱に衝突したようです」
……最悪の事態だ。
「わかった、現場の場所は?」
場所を確認すると、俺はすぐに車を発進させた。
渋滞や迂回を強いられながら約二十分後、ようやく現場付近に到着した。
その時、再び無線が鳴った。
「十河だ」
「警視、状況が変わりました」
部下の声には焦りが混じっていた。
「現場からの続報によると、地震の混乱に乗じて須田が逃走したとのことです。詳細は不明ですが、護送車の損傷により手錠が外れた可能性があります。現在、周辺の捜索を進めています」
俺は歯を食いしばった。
「拳銃の携帯許可は?」
「はい、許可は出ています。これから瀬戸警部と須田を捜索します」
「わかった、何かあればすぐに連絡しろ」
俺は無線を切り、車を走らせる。
すると唐突に、スマートフォンが鳴った。
「十河だ」
「警視、大変です! 瀬戸警部がいなくなりました!」
「何だと? 詳しく話せ!」
部下の声には明らかな動揺が混じっていた。
「先ほど瀬戸警部と一緒に捜索していたんですが、『コンビニに寄りたい』と言われました。それで『十河さんに電話したいから飲み物を買ってきてほしい』と言われたんです」
「電話? 俺には何もかかってきていないぞ」
「え……? そ、それじゃあ……」
部下の声が震える。
「それでどうした?」
「僕がコンビニで飲み物を買っている間に、瀬戸警部が車を出してしまい……置いていかれました!」
思わず悪態をつく。
「瀬戸のやつ……何だってんだ!」
サイレンを鳴らしながらアクセルを踏み込む。
今思えば今回の事件の瀬戸には、おかしな点が目についていた。
胸中には、怒りと不安が渦巻いていた。




