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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第七章
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慟哭と鉄の味

「その知人は何度か金属バットで思い切り殴ったあと、自ら捕まるつもりで……そのクズの前で警察に電話をしたそうです。『今からこいつを殺す』とね」


須田は淡々と、まるで事務報告でもするように続けた。


「電話を切った後も、殴り続けた……。被害者は命乞いをしていたそうですが、彼の耳にはもう届いていなかった。ただ警察が来るまで耐えれば助かるかもしれないという、相手の藁にも縋るような浅ましい希望。それをへし折ることだけを考えていたのかもしれません」


僕は言葉を失った。


あの夜。


受話器越しに聞いた『今から目の前の男を殺します』という言葉。


あれは単なる犯行予告ではなく、被害者への究極の精神的拷問だったのか。


「通報後、警察が来る前にふと……墓参りをしたくなったそうです。そして瀕死のクズを捨て置き、その場を立ち去った」


「逃げた……わけじゃなかったのか?」


「ええ、逃げるつもりなんて毛頭なかった。ただ、会いたくなったんでしょうね」


須田は遠くを見る目をした。


「まず自分を引き取ってくれた叔母の墓を訪れ、そして白血病で亡くなった親友の墓にも足を運んだそうです」


深夜の墓地。


返り血を浴びた男が、静まり返った墓石の前に佇む姿が脳裏に浮かぶ。


「親友の墓前で、長い間黙っていたらしい。そしてふと、親友がよくハンバーガーショップに誘ってくれたことを思い出して……」


須田の声色が、少しだけ柔らかくなる。


「彼がお金がないからと断ろうとすると、親友はいつも『俺が食べたいんだよ、付き合ってくれ』と言って。結局、ほとんど奢ってもらってばかりだったそうです」


「……優しい友人だったんだな」


「はい、本当に」


須田は噛み締めるように頷いた。


「墓参りの帰り、ハンバーガーショップに立ち寄ったそうです。深夜営業の店で久しぶりに食べたハンバーガーは、親友と一緒に食べた時のように温かくて……でも、味は変わってしまっていたとか」


「味が?」


「ええ……失ったものは、もう二度と戻らないのだと。その時痛感したと言っていました」


須田の語り口は静かだったが、その底には深い喪失感が横たわっていた。


温かいハンバーガーと、冷え切った孤独。


その対比が、僕の胸を締め付ける。


「そして」


須田は最後の場面へと話を移す。


「彼は自宅へ……義父の遺体が待つ部屋へと帰ったそうです」


息を呑む。


殺害現場に戻ったというのか。


「強い鉄の匂いが部屋中に充満していたそうです、血の匂いです」


須田は鼻を鳴らすような仕草をした。


まるで今もその臭いが鼻腔に残っているかのように。


「彼は義父の遺体の隣に横になりました。そして遺体に寄り添った時、その冷たさに震えたと。かつてその体から感じた温もりは、もうどこにもなかった」


異常だ。


常軌を逸している。


自分が殺した死体に添い寝をするなんて。


だが。


須田の表情があまりにも切なげで、僕は恐怖よりも先に悲哀を感じてしまった。


「義父の顔を見ようとしましたが、自分の行為によってずたずたになった顔面を直視することができなかった。それでもかろうじて残った特徴から、義父の面影を探そうとしたと……」


須田は一瞬言葉を詰まらせ、深呼吸をしてから続けた。


「彼は義父との思い出を一つずつ手繰り寄せていったそうです。口下手だった義父が、実は気を配ってくれていたこと。例えば学校から帰ってくると、さりげなくホットミルクを用意してくれていたこと」


温かいミルクの記憶と、冷たい死体の現実。


「母親に何度も苦言を呈し、彼を守ろうとしてくれていたこと。母親が暴力を振るおうとすると、自分の体を盾にして庇ってくれたこともあったそうです」


須田の声が震え始める。


「傷の手当てをしながら、申し訳なさそうに『俺がもっと強ければ、お前をこんな目に遭わせずに済んだのに』と、涙ぐみながら消毒液を塗ってくれたとか」


「そんな義父を……なぜ?」


僕の問いに、須田は答えない。


ただ、独白を続ける。


「特に母親と別居する話が出た時、義父が母親を強く説得してくれたことを思い出していたみたいで。『このままじゃダメだ。この子のためにも……お前自身のためにも、一度離れて暮らすべきだ』と、声を震わせながらも毅然と母親に告げたそうです。その時の義父の必死な表情が、脳裏に焼き付いていたと……」


須田は一瞬黙り、そして静かに言葉を吐き出した。


「そんな義父の冷たくなった体に寄り添いながら、彼は何も言葉を発することができなかった……。ただ義父の手を握りしめて遺体の隣で一晩を過ごしてから、翌朝自首したわけです」


車内に、重い沈黙が落ちた。


タイヤの走行音だけが、虚しく響いている。


当然ながら異常だ。


狂気だ。


だが。


周囲の環境や大人たちによって、彼という人間は大きく歪められた。


そう考えると、歪んでしまうのは当然だという気もした。


普通だったからこそ異常な環境に適応しようとして、心が壊れてしまったのではないか。


「少し、喋りすぎましたね」


須田はおどけたように微笑んだ。


その笑顔を見た瞬間、僕の目から涙が溢れ出した。


止めようと思っても、止まらなかった。


「そうか……」


僕はボロボロと泣きながら、眼鏡を外して目を拭った。


声には同情と理解、そして何か言葉にできないやるせなさが混ざっていた。


「ふふっ、即興にしては良くできた話だと思いませんか?」


須田は自嘲気味に言う。


そんな彼の強がりが、余計に痛々しかった。


「……知人のために泣いてくれて、ありがとうございます」


須田は僕にそう言って、優しく微笑んだ。


これが彼自身の話であることは明白だった。


けれど、『これは君のことだろう』とは言えなかった。


言ってしまえば、彼が必死に保っている何かが崩れ去ってしまう気がしたからだ。


僕は涙を拭い、眼鏡をかけ直す。


そして最後に一つだけ問いかけた。


「もう一つだけ、義父の話とは結局何だったんだ?」


殺害の動機となった口論。


『なぜ、あの女を最低な母親のままでいさせてくれなかったのか』という言葉の意味。


「……」


須田は黙り込んだ。


車内の空気が再び張り詰める。


彼は視線を落とし、手錠のかかった自分の手を見つめていた。


やがて意を決したように口を開いた。


「義父は……いや、その人は義父から一つの『事実』と一つの『可能性』を伝えられました」


「事実と、可能性?」


「ええ、それらは彼が信じていた全ての前提を簡単にひっくり返してしまった」


須田の声には、感情を抑え込むような震えが混じっていた。


「それは……」


聞くのが怖い。


だが、聞かなければならない。


僕が身を乗り出した、その時だった。


ズンッ!


下から突き上げるような、強烈な衝撃が車体を襲った。


「うわっ!?」


体が大きく跳ね上がり、頭を天井に打ち付ける。


視界が揺れる。


何だ、爆発か?


いや、違う。


地面が、世界が……唸りを上げている。


「地震……!」


運転手の叫び声が聞こえた直後、車体が木の葉のように横滑りを始めた。


窓の外を見ると、電柱や建物が生き物のように不気味に波打っているのが見えた。


「掴まって!」


僕は叫んだが、手錠で固定されている須田には身を守る術がない。


キキーッ!


タイヤが悲鳴を上げる。


制御不能になった護送車は、路肩の電柱に向かって突っ込んでいく。


スローモーションのように景色が流れた。


須田の顔が見えた。


彼は驚愕に見開かれた目で、迫りくる衝撃を見つめていた。


次の瞬間。


ドォォォォン!


けたたましい金属音と共に、激しい衝撃が全身を襲った。


ガラスが砕け散り、破片が舞う。


体が投げ出されそうになり、シートベルトが肋骨に食い込む。


視界が明滅し、白く染まっていく。


意識が、遠のいていく。


……。


……痛い。


熱い。


ここは、どこだ……?


硝煙の臭いと、ガソリンの臭い。


頭が割れるように痛い。


薄れていく意識の中、誰かの声が聞こえる。


「……まさか、こんな場所で……」


……須田の、声……?


視界が霞む。


歪んだ鉄格子の向こうで、彼が動いている気配がする。


衝撃で固定具が壊れたのか?


「……つくづく、地震に……」


彼の声には深い諦めと、自嘲めいた笑いが含まれていた。


「……皮肉な巡り合わせですね……」


誰に言っているんだ?


僕にか?


それとも……


「……あなたも、運がない……」


……僕のこと……?


待て。


行くな。


言いたいことは、まだ……。


手を伸ばそうとしたが、指先一つ動かない。


深い闇が、僕を飲み込んでいく。


意識が途切れる寸前、僕は見た気がした。


砕け散った窓ガラスの隙間から彼が――須田優司が、ふらりと外へ出ていく背中を。


その背中は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。

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