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ポーカースマイル  作者: 城井龍馬
第七章
16/40

檻の中の告解

東京地方裁判所の裏手に、重々しいエンジン音が響く。


アスファルトを噛むタイヤの音と共に、一台の小型護送車が滑り込んできた。


ベースは日産NV350キャラバン。


一見、街中で見かける商用バンと変わりない。


だが黒く塗りつぶされたスモークガラスと内側から溶接された鉄格子が、この車両の特殊性を無言で主張していた。


周囲には制服警官が配置され、ピリついた空気が漂う。


「出ます」


警官の声と共に、庁舎の通用口から一人の男が姿を現した。


両脇を屈強な警官に固められ、手錠を掛けられたその男――須田優司。


無期懲役の判決を受けたばかりだというのに、彼の表情には悲壮感の欠片もない。


それどころかまるで散歩にでも出かけるような軽やかな足取りで、口元にはあの特徴的な穏やかな微笑みを浮かべていた。


僕は緊張で湿った掌をズボンで拭い、護送車の後部ドアを開けた。


「乗ってください」


努めて事務的な声を出す。


須田は素直に頷き、身を屈めて車内へと足を踏み入れた。


車内は狭い。


運転席と後部座席の間は強化プラスチックと金網の仕切りで完全に遮断されており、後部スペースはさながら走る独房だ。


鼻をつくのは染み付いた汗と鉄、そして古びたビニールシートの独特な臭い。


須田がシートに腰を下ろすのを確認し、僕は手際よく彼の手錠に鎖を通してシートの固定具へと連結した。


カチャン、という冷たい金属音が狭い車内に響く。


ドアを閉め、僕も向かい側の看守用シートに座る。


合図を送ると、運転手がエンジンを吹かした。


微かな振動と共に、車体が動き出す。


窓の外の景色はスモークフィルム越しに茶色く濁り、流れる街並みが非現実的な映像のように見えた。


車内には、重苦しい沈黙が満ちている。


タイヤが路面の継ぎ目を越えるたびに、ガタンと車体が揺れた。


僕は膝の上で拳を握りしめ、喉まで出かかった言葉を飲み込む。


心臓の音がうるさい。


この護送任務に就くために、どれだけ頭を下げて無理を通したことか。


赤縁のメガネがずり落ちてくるのを人差し指で押し上げ、僕は意を決して口を開いた。


「久しぶりですね」


その言葉に須田は、窓の外に向けていた視線をゆっくりとこちらに戻した。


彼はきょとんとしたように首を傾げる。


その動作には、一点の曇りもない純粋な疑問が浮かんでいた。


「失礼ですが……お会いしたことがありましたか?」


丁寧すぎるほどの物言い。


二人を惨殺して無期懲役になった男には、とても見えなかった。


「お会いするのは初めてです」


僕は緊張で上擦りそうになる声を抑え、答えた。


「一一〇番の通報を受けた者です」


一瞬、須田の目が大きく見開かれた。


貼り付けたような笑顔の仮面に、初めて亀裂が入る。


「まさか……」


漏れ出た声には、明らかな驚きの色が混じっていた。


僕は居住まいを正し、自己紹介をした。


「宇野健太といいます。元々護送担当から一一〇番センターに異動していたんですが……上司に頼み込んで、無理やり護送担当に戻してもらいました」


須田はすぐにいつもの表情を取り戻し、興味深そうに僕を見つめた。


「なぜですか?」


静かな問いかけ。


「どうしても、あなたと話したかったんです」


僕の答えに、須田は呆れたように小さく息を吐いた。


「なるほど、それで法廷には佐藤警部補が代わりに出廷したんですね」


「はい、裁判の証人が被告人の護送をするのはさすがに規則上まずいので」


「でしょうね……いや」


須田は納得したように頷きかけ、首を振る。


「通報を受けた人間が護送するというのも、中々グレーゾーンだと思いますがね」


口元に皮肉めいた笑みを浮かべる彼に、敵意は感じられない。


むしろ、この奇妙な巡り合わせを楽しんでいるようにすら見えた。


「それで、宇野さん」


須田は改まったように僕の名を呼んだ。


「わざわざ職権を乱用してまで、私に何を聞きたいのですか?」


核心だ。


僕は深く息を吸い込み、肺の中の空気を入れ替えた。


ずっと胸につかえていた疑問。


あの夜。


受話器越しに聞いた断末魔と、その後の彼の不可解な行動。


「なぜ自分で通報したのか、なぜ通報したのに逃げたのか。そしてなぜ、逃げたのに自首したのか」


矢継ぎ早に質問をぶつける。


これを聞かなければ、僕は前に進めない。


あの夜の通報音から、ずっと耳の奥で鳴り止まないノイズを消し去ることはできない。


須田は一瞬目を閉じ、シートに背中を預けた。


車内の空気が、急に重くなった気がした。


彼の中で、何かが天秤にかけられているような沈黙。


やがて彼は目を開けた。


そして静かに、しかし冷徹に言い放った。


「私は、自分のことを話すつもりは微塵もありませんよ」


拒絶。


その笑顔は、あまりにも堅牢な壁だった。


思わず肩を落とす。やはり駄目か。


期待していたものが手から滑り落ちていく失望感に、目の前が暗くなる。


そんな僕の様子を見て、須田はふっと表情を緩めた。


「ですが……」


僕が顔を上げると、彼はどこか遠くを見るような目で続けた。


「『知人の話』なら、少しばかりお話しできるかもしれません」


知人の話。


どういう意味だろう?


だがそれが、彼なりの妥協案であることは明白だった。


「……お願いします」


僕が頷くと、須田は覚悟を決めたように語り始めた。


「これから話すのは私ではなく、あくまで『ある知人』の話です」


前置きをして、彼は語り出す。


「その知人には、最低の母親がいたんです」


淡々とした口調とは裏腹に、その言葉の内容は凄惨だった。


「よくわからない男と不倫して、彼を孕んだそうです。あろうことか夫にその事実を隠し、自分の子として育てさせた」


昼ドラのような話だが、須田の声には現実味という重みがあった。


「ある日その父、いや……父だと思っていた人が職場で遺伝子検査について話題になった。それを機に検査した結果、自分との血縁関係がないことに気づいたそうです。そして離婚へと至りました」


須田は一拍置き、自嘲気味に笑った。


「その時、彼は人生で大切な教訓を学んだ。『この世に絶対と言えるものなんて無いんだ』と。家族の絆も、友情も……道徳や科学、常識ですら絶対ではないと、嫌というほど思い知らされたと」


車体が微かに揺れる。


遠くで地鳴りのような音が聞こえた気がしたが、須田の話に引き込まれていた僕は気にも留めなかった。


「父だと思っていた人は弟と妹を引き取り、知人は母親に引き取られることになったようです」


須田の視線は虚空を漂っている。


「不思議ですよね。私たちが揺るぎないと信じていたものが、実は脆くて儚いものだったりする。彼の人生は、まさにそんな経験の連続だったんでしょう」


「その後」


須田は続ける。


「母親は別の男と事実婚状態になり、三人で暮らしたようです。しかし母親は、事あるごとに息子を虐待していましてね。義父は多少は庇ってくれたようですが、根本的な解決には至らなかった」


虐待。


その単語が持つ響きに、僕は顔をしかめた。


「待ってください。その……彼の母親は、なぜそのようなことをしたんでしょうか? 実の息子なのに」


須田は一瞬言葉を詰まらせ、寂しげに微笑んだ。


「……それを確認する術は、もう無いんですよ」


「でも、何か理由があったはずです!」


須田に言っても仕方がないとわかってはいる、言われた須田も困ったように笑っている。


「そうですね……とは言え、人間の感情は単純ではありません」


須田は諭すように言った。


「彼自身、母親の本当の気持ちを理解することはできなかったのでしょう。ただ……」


「ただ?」


須田は深呼吸をして、窓の外の流れる景色に視線を移した。


「虐待は、些細なことから始まったそうです。最初は叱られた時に見せる目つきに対して、母親が『その目で私を見るな』と言う程度だったとか」


彼の声が、微かに震えを帯びる。


「しかし次第に、母親は彼の目つきに異常に拘るようになっていった……。些細なことで叱る時もまず『その目で私を見るな』と言い、それから暴力を振るうようになったと」


「その目で見るな……」


僕は呟いた。


自分の不貞の証である息子の目が……かつての愛人、あるいは裏切った夫に似ていたのか。


それとも、自らの罪悪感を刺激されたのか。


「ただ、殴ったあとは母親の態度が一変したそうです。泣きながら息子に縋りつき、『ごめんね、私どうかしてた』と何度も謝りながら抱きしめた」


典型的なDVのサイクルだ。


恐怖と、歪んだ愛情のサンドイッチ。


「息子が笑顔を見せると、母親の態度が少し和らぐように見えたそうです」


だからか。


僕はハッとして須田の顔を見た。


このいついかなる時も崩れない、貼り付けたような笑顔。


それは母親の機嫌を取り、自らの身を守るために身につけたもの。


悲しき処世術だったのだ。


「見かねた母親の妹……彼の叔母が引き取ってくれて、しばらくは幸せな日々を送れたそうです」


須田の声が、少しだけ柔らかくなった。


「でも……」


突然、その声が凍りつく。


「叔母が震災で亡くなり、また母親と義父との三人暮らしに戻った。そして虐待も、再び始まったと聞いています」


救いは、あまりにも呆気なく奪われた。


「彼が十七歳……高校二年生だった頃、よく男女二人の同級生と一緒にいました。ある時、同級生の男子が彼の体の青あざに気づいたそうです」


「その同級生が担任の先生に伝えてくれて……その先生は本当に優しい人でした。先生と同級生たちも動いてくれて、それを受けて児童相談所が調査を始めました」


須田の表情に、微かな光が差す。


「調査の結果、彼は母親と別居することになりました」


「周囲に恵まれたんだな」


僕が言うと須田は一瞬言葉を詰まらせ、そして目を伏せた。


「……ある時、同級生の男子が亡くなります。白血病で。高校に入る前からの親友でした」


言葉を失う。


彼の人生には、喪失ばかりが付き纏う。


「高校卒業後には、また母親との同居生活に戻ることになって」


なぜ?


とは聞けなかった。


そこには他人には計り知れない事情と、依存に近い親子関係があったのだろう。


「後に母親は病死しました。彼は義父と二人で暮らすことになり、それなりに平穏な日々を送れるようになったと」


須田は一瞬言葉を切り、深く息を吐いた。


そして、その瞳が真っ直ぐに僕を射抜いた。


「しかしある日、義父から話があると言われ……」


車内の空気が、一気に張り詰める。


ここからが核心だ。


僕は生唾を飲み込んだ。


タイヤが砂利を噛むような音が、不快なノイズとして鼓膜を震わせる。


僕は不安になって窓の外へ視線を逃がそうとした。


だが須田の言葉に縛り付けられ、身動きが取れなくなる。


須田の声が低く、重くなる。


「そしてその知人は……」


彼は変わらず笑顔だったが、その目に冷たい光が宿ったように見えた。


「口論の末、義父を滅多刺しにして殺したそうです。『何故、あの女を最低な母親のままでいさせてくれなかったのか』と」


僕の顔から血の気が引いた。


最低な母親のままで?


それはどういう意味だ?


須田は僕の動揺を意に介さず淡々と、しかし決定的な言葉を続けた。


「その後自分も死のうかと思ったらしいのですが、その前に最低なクズ野郎を道連れにしてやろうと考えたそうです」


クズ野郎。


それは、久留島秀一のことだろう。


「そいつは親の地位を利用して好き放題していた、パワハラセクハラを繰り返す本当に最低のクズ野郎だったんです。しかもある時酒に酔った勢いで『昔、飲酒運転で子供を轢き殺したことを親の権力で握りつぶした』こと、『他にも恐喝や暴行、強姦に監禁……何をやっても俺は裁かれなかった』と自慢げに話していたそうです」


確かに久留島は酷い男だったのかもしれない。


だが、だからといって殺していい理由にはならないだろう。


心の内で反論する自分がいた。


しかし須田の語る苦しみと、彼が見てきた理不尽な世界を前に、その正論はあまりにも無力だった。


須田は語り続ける。


まるで、懺悔のように。


あるいは、自分自身への鎮魂歌のように。

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