死刑台への賭け
胸元の弁護士バッジを指で磨く。
私は高津秀人。
東京地方裁判所の第一法廷には、重苦しい空気が満ちていた。
午前中から続いた冒頭手続きと冒頭陳述、そして証拠調べが終わる。
「午前中の審理はここまでとします、午後の審理は十三時から再開します」
東雲正和裁判長の声が法廷に響いた。
小柄だが、威厳のある雰囲気を醸し出している。
白髪が目立つ短髪と、立派な髭を蓄えた五十代後半の男性だ。
厳格な表情だが、その眼差しにはどこか優しさも感じさせる。
昼休憩の時間を利用して、私は須田さんとの面会を申し出た。
許可が下り、面会室へと向かう。
蛍光灯の下。
アクリル板の向こうに座る彼は、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべていた。
私は椅子に深く腰掛け、須田さんの目をまっすぐ見つめた。
「須田さん、午後からは論告と求刑が始まります。その前にあなたから事件の真相について直接聞きたいのです」
静かに告げる。
「私はあなたの過去について調べました。あなたの複雑な家庭環境や母親との確執、そしてあなたを引き取ってくれた叔母さんとの絆……」
須田さんは変わらぬ笑顔で私を見つめていた。
その表情からは何も読み取ることができない。
「そしてあなたの周りの人々からも話を聞きました、バイト先の同僚や昔の担任の先生……」
私は言葉を選びながら続けた。
「みんな口を揃えてあなたの優しさや思いやりを語っていました。困っている人を見かけると必ず声をかけ、いつも笑顔で接する。そんなあなたの姿が浮かび上がってきたんです」
須田さんは黙って聞いていたが、その笑顔は少しも崩れなかった。
私は深呼吸をし、最後の質問を投げかけた。
「須田さん、どうしてこんな事件を起こしてしまったのですか? あなたのような人が……」
須田さんは相変わらずの笑顔で答えた。
「今更何も話す気はありません、判決が出れば全て終わりです」
終わり。
それは間違い無く、自分は死刑になると確信しているからこそ出る言葉だ。
私は真剣な表情で言い返した。
「私が、死刑になんてさせません」
須田さんは小さく首を振った。
「無理ですね。あなたがどう弁護しようとも反省の弁どころか罪を認めるだけで他には何も語らない、そんな被告人に相応しい末路など……死刑以外にないでしょう?」
私は前のめりになって言った。
「あなたは確かに罪を犯した、でも調べれば調べるほどあなたは死刑になるべき人ではないと確信を持ちました。」
拳に力が入り、言葉に熱が籠る。
「そもそも私は弁護人ですよ? 量刑弁論では減刑を求めます、死刑になんてさせません」
「これはおかしなことを仰いますね」
須田さんは少し興味深そうに私を見た。
「弁護人とは被告人の利益を第一に考える代弁者であるはずでは? 私がそれでいいと言っているものを、あなたが自分の意思で勝手に捻じ曲げるおつもりですか?」
少し痛いところを突かれたが、譲るつもりはない。
「私は弁護士です。我々の倫理規定ではたとえ依頼人の希望であっても、弁護人が死刑という『究極の不利益』に同意してはならないと解釈されています」
『倫理規定』だなんて、我ながらよく咄嗟に出たなと思う。
実際には明文化こそされていないが、実務上の不文律だ。
「おや? 以前の大阪の事件では被告人が死刑を求め、弁護側も『被告の希望はできるだけかなえたい』として死刑判決を受け入れた事例もあったかと思いますが? その時の弁護人は弁護士として相応しくないと?」
なんでそんなこと知ってるんだよ。
あれは弁護士会の懲戒請求にまで発展した極めて特異な事例だぞ。
「……関係ありませんね。人の事をとやかく言えるような高尚な人間ではないので。ただあなたがそういう極端な例外を挙げるのなら、被告人が死刑を望んでも弁護人が最後まで減刑を求めた事例の方が圧倒的に多い」
私は須田さんをまっすぐ見つめた。
室内に長い沈黙が訪れる。
するとふっと須田さんの笑顔が柔らかくなった。
「物好きですね、好きにするといい。ただ、無駄でしょうがね」
そのふとした笑顔こそ素顔だと信じたい。
私は自信に満ちた声で言った。
「私には勝算があるのです。ただ死刑に決まっているとそこまでいうのであれば、もし死刑にならなかったら……本当のことを全て教えてくれませんか?」
勝算。
まあそんなものは当然ない。
気持ちでは負けていない、それが全てだ。
相手は『法廷の死神』とか呼ばれていると、受け取った資料にあった。
やだ怖い。
でも気持ちでは負けない!
そんな私を見て、須田さんは一瞬考え込むような表情を見せた。
「……もしそんなことになれば、私を生かしたことを後悔しますよ?」
私は即座に答えた。
こういう時は間を置いてはいけない。
「それは無いと確信しています」
私はもう、自分の勘を疑わないことにしたのだ。
信頼に足る依頼人だと私が、そう感じたこと。
それで充分だった。
須田さんはわずかに肩をすくめる。
「まぁ話してもいいですよ、そんなことはありえませんけどね」
面会時間が終わりに近づき、私は立ち上がった。
「午後の審理に戻ります、最後まで諦めませんから」
と言って、須田さんに深々と頭を下げた。
部屋を出ると、須田さんの言葉が胸に重くのしかかる。
面会室を出て冷たい廊下を歩きながら、私は午後の審理に備えた。
昼休憩が終わる。
法廷に足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が肌を刺した。
張り詰めた静寂の中、東雲裁判長が重々しく腰を下ろす。
小柄な体躯からは想像もつかない威圧感が、傍聴席まで押し寄せてくるようだった。
傍聴席は埋め尽くされ、窓際には報道陣が群がっている。
白浜検事は分厚い資料に目を落としたまま、固く口を結んでいた。
東雲裁判長が午後の審理の開始を宣言した。
証人尋問が始まる。
最初に検察側の証人として、佐藤香菜さんが呼ばれた。
佐藤さんは三十五歳の警部補で、通信指令本部の指令第三係に所属していた。
白浜検事は立ち上がり、東雲裁判長に向かって言った。
「裁判長、被告人の一一〇番通報の録音、証拠番号甲第七号証の再生を申請いたします。この録音には被告人の声だけでなく、被害者久留島秀一さんの声や断末魔とも取れる叫び声も含まれています。被告人の犯行時の心理状態と、犯行の残虐性を示す重要な証拠となります。再生の許可をお願いいたします」
東雲裁判長は眉をひそめ、
「弁護人、よろしいですか?」
と私に尋ねた。
私は立ち上がり、少し躊躇した後で答えた。
「私としては事件の真相を明らかにするという観点から、録音の再生自体には異議はありません。ただし事前協議で合意したように被害者の尊厳を考慮し、特に残虐な部分については配慮をお願いいたします」
この言葉を聞いた直後だった。
「裁判長」
法廷内が凍りつく。
須田さんだ。
白浜検事は目を見開いている。
私は恐る恐る須田さんに目を向けた。傍聴席からはざわめきが起こっている。
東雲裁判長は一瞬の動揺を見せたが、すぐに厳しい口調で諭した。
「被告人、発言の許可は出していません」
しかし、須田さんは構わず続けた。
「これは重要です、弁護人は本当に被害者に配慮しているのでしょうか? 被害者は自分の断末魔を聞かれたくないというより、自分を殺した者を断罪してほしいと思っているのではないでしょうか?」
騒然とする法廷の中、東雲裁判長は声を張り上げた。
「被告人、これ以上の発言は控えてください」
私は須田さんの腕を掴み、小声で詰め寄った。
「何をしているんですか、邪魔するとは聞いていませんよ!」
須田さんは私に向かって微笑む。
そして一瞬裁判長を見つめた後、黙り込んだ。
その顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。
この時、白浜検事が立ち上がった。
「裁判長、当職としても被告人の発言に一理あると考えます」
うわ!
あの女乗っかりやがった!
東雲裁判長は眉をひそめ、
「検察官、どういう意味でしょうか?」
「被害者の尊厳を守ることは重要です、しかしそれは真実を隠蔽することではありません。被害者の苦しみや恐怖を直視することこそが、この事件の重大性を理解する上で不可欠だと考えます」
咄嗟にそれっぽいこと言いやがって。
事前協議ではあの女も一部再生で合意したのに。
「幸い当職の手元には修正前の録音テープがございます。裁判長、よろしくお願いいたします」
おいマジかよふざけんな、なんで修正前のテープあんだよ。
東雲裁判長は深く考え込んだ様子でしばらく沈黙する。
頼むぞおっさん変なこと言い出さないでくれよ。
東雲裁判長は深く考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「検察官の意見及び被告人の意向も考慮し、極めて異例ではありますが録音の全てを再生することとします。ただし、これから流れる音声に強い衝撃を受ける可能性があることをあらかじめお伝えします。心臓の弱い方や、気分が悪くなった方は一時退席していただいて構いません」
裁判長は一息置いてから続けた。
「また、この録音の内容は法廷外での公開や共有を厳に慎んでいただくようお願いします」
白浜検事が頷き、再生の準備を始める。
私は歯を食いしばりながら笑顔を作った。
しかし、もはや異議を唱えることはできない。
深いため息をつき、録音の再生に備えた。
「では証拠番号甲第7号証の再生を始めてください」
東雲裁判長が告げた。
いやいや証拠番号甲第7号証は修正後のテープだろ、公判前整理手続きは何だったんだよちゃんとやれよ。
法廷内に緊張が走る中、一一〇番通報の録音が再生され始めた。
『一一〇番、警察です。事件ですか? 事故ですか?』
資料によるとオペレーター宇野さんの声だろう。
『事件です』
須田さんの声は、いつも通り落ち着いている。
『詳しい状況を教えてください』
『場所は麹町区霞見町の旧七條ビルです、状況についてですが……』
須田さんの声は驚くほど平静だった。
背景で微かな物音が聞こえる。
何かが床を引きずるような音だ。
『須田さん、そちらで何か……』
『パトカーは何分くらいで来られますか?』
『二十分から三十分くらいだと思います。ただ、今夜は市内で複数の事件が発生しているようで、パトカーの到着が遅れる可能性もあります』
『わかりました』
須田さんはあまりに当たり前のように続ける。
『今から目の前の男を殺しますので、急いであげたほうがいいですよ』
突然、男性の悲鳴が響き渡る。
『や、やめろ! もう殴らないでくれ!』
恐怖に満ちた声が響く。
鈍い音が聞こえ、続いて苦しそうなうめき声が漏れる。
『おい須田! お前知ってんだろ! 俺の親父は国会議員だぞ! お前なんか……』
『ぐおおおぉっ!』
苦痛に満ちた叫び声が響き、その後急に途切れる。
重いものが床に倒れる音が鮮明に聞こえる。
『待ってください! 何を……』
通話が切れる音。
その後、無機質な通話終了音が響く。
分かってはいたがいざ耳にすると、さすがに堪えるものがある。
背筋を冷たいものが伝う。
録音が終わると、法廷内は重苦しい沈黙に包まれた。
傍聴席からはすすり泣く音が聞こえ、何人かは顔を背けていた。
東雲裁判長は深呼吸をして、
「これで証拠番号甲第七号証の再生を終わります」
そう告げた。




