EP-99 歪められた真実
カフェの扉に臨時休業の看板を下げて一度家に戻った私は用意していた荷物を持って自動車に乗り込む。
「お待たせ」
「まだ時間はあるから平気よ」
今日は愛音が所属する水泳部が今年最後の大会が行われる日。中学生3年生の愛音にはこれが中学最後の大会となる。私達はそこで愛音が有終の美を飾れるように応援に行くのだ。
正直に言って私はこれがどのくらい凄いことなのかよく分かっていない。分かるのは私には全く縁が無いような立派なイベントであるということだけだ。
いずれにせよ大勢のヒトが注目しているのは間違い無いので、今日は耳と尻尾は隠す服装で出かける。
最高のパフォーマンスができることを祈ってお弁当も作りました。喜んでもらえると嬉しいな。
「琴姉ぇは去年も応援に行ったんだよね」
「ええ。受験があるから断ろうと思ったけど、泣きついて来たから仕方なくね」
「どんな感じだったの?」
「ヒトは多かったかな。大会の内容として愛音の独壇場だったけど」
「あいつ全国大会でも新記録を出していたからなぁ。同年代で勝てる奴は居ないと思うぞ」
確かに愛音が泳ぐとプールなのに嵐の海みたいな波が生じるからね。一緒に泳いだヒトは波に飲まれて沈むのではないだろうか。沈没船みたいに。
会場となる施設は1階にプールがあり、2階に客席がある。到着した私達は受付を済ませると2階に上がり席を取る。桜里浜中学校の応援する姿が見える位置を選んだから、きっと愛音の様子がよく見えるだろう。
「愛音はどこにいるかな」
「あそこで手を振った飛び跳ねている子がそうよ」
「本当だ。他に沢山ヒトがいるのによく分かったね」
「向こうが先に見つけてアピールしていたから。詩音の方は直ぐに見つかるだろうし」
「何ですと」
やっぱり耳と尻尾を隠したとしても目立つか。そりゃあこのご時世、翡翠色の目をしたヒトだってまず見かけないもんね。
手を振り返すと笑顔の花を咲かせた愛音が周りの友人に私の存在を伝える。そんなことはどうでも良いから早くウォーミングアップを済ませなさい。一応部長なんだから。
琴姉ぇから今日のスケジュールを教えてもらう間に開会式は始まり、次々とレースが行われる。
出場するヒトは競泳経験者ということもあり、私から見ると皆んなとても速い。壁を触らずにターンをしているけど一体どうやっているのか。客席から見ているだけではさっぱり分からない。
「頑張れー」
「琴音。桜里浜中学の水泳部って強いの?」
「私の在学中はそうでも無かったはずよ。それこそ愛音が入部してから変わったと思う」
「あいつはどこに行っても嵐を巻き起こすな」
「頑張れー」
顔と名前を知らないので紹介のとき愛音と同じ中学校のヒトを応援する。愛音だけは放置しても問題なさそうだけど。私には記録の良し悪しもよく分からないけど、泳ぎ終わった後に喜んでいるから満足のいく結果だったのだろう。
時は流れてお昼過ぎ。昼休憩のために学生達がプールから一時的に撤収する。午後に備えて腹拵えをしたり、休憩やストレッチをして午後に備えているのだろう。
「詩音、愛音ところに行くならこれを持って行け」
「何これ?」
「通行許可証だ。休憩室には基本的に学生しか入れないから、俺達が行くにはそれが必要なんだ」
「分かった。ありがとう」
許可証を首から下げてお弁当を持った私は1階へ降りて愛音が待つ場所に向かう。パパが言う通りに警備員に許可証を見せると無事に通ることができた。
他校の生徒も大勢いる中で愛音を探していると、何度も私を呼ぶ声が聞こえた。相変わらず便利な耳だよね。
ヒトのかき分けて声がする方に向かい、ようやく愛音と合流する。
「しー姉ぇ、I love you。Je t'aime」
「ごめんなさいヒト違いでした」
「いやー!行かないでー!」
公衆の面前で愛を叫ぶ妹なんて知らない。踵を返して引き続き探そうとすると愛音が涙目になって抱きついてきた。部長の威厳が欠片も無い奴だな。
甘える愛音を宥めている間に騒ぎを聞いた学校の同級生や後輩が集まって来る。迷惑になるから離れなさい。
「えっと、初めまして。詩音と言います。愛音がいつもお世話になっております」
「初めまして。あなたが噂の詩音先輩ですね。いつも愛音先輩からお話を聞いています」
「せ、先輩だなんてそんな。えへへ」
「お弁当を用意してあげるなんて、詩音先輩は本当に愛音先輩のことが大好きなんですね」
「ん?」
尊敬の眼差しを向けてくれる後輩だけど言葉のニュアンスに違和感を感じる。ふと愛音の方を見ると思いっきり顔を逸らし、無駄に上手い口笛を吹いている。
こいつもしやわざと私のことを妹が大好きな奴だと言いふらしているな。事実は全くの正反対だぞ。
眩しいくらい敬意が込められた1年生の視線が突き刺さって痛い。私が元は男であることを知っている2、3年生はそこまでではないが、それでも微笑ましい目で私を見ている。この妹、学校でどれだけ上手く猫を被っているんだ。
「違う!愛音がやたら距離が近いだけで私は普通だよ。このお弁当だって大会の応援に来ただけだし、皆んなの分だって用意しているからね」
「そうですね。そういうことにしておきましょう」
「お願いだから話を聞いて」
その後も一生懸命弁明するものの愛音が時間をかけて施した洗脳を解くことは叶わなかった。それどころか他人の前では素直になれないツンデレお姉さんという印象が固まってしまう。
どうしてこうなった。せめてお兄さんと言ってくれ。
「何だこの可愛い生き物は。庇護欲をダイレクトに刺激しやがる」
「落ち着け!女子達は良いが俺達が触ったら犯罪だぞ!」
「いや、見た目は幼女でも先輩だし」
「くっ、属性が多過ぎる!」
「一時撤退だ。理性を失う前に距離をとれ!」
視線を向けた途端に散り散りに立ち去る男子生徒達。属性が多過ぎるとはどういう意味だろう。全く話しについていけない。
いや、落ち着くんだ私。感情的になれば愛音の思うツボだ。ここは余裕を持って冷静に対応しなければ。
そもそも本来の目的はお弁当を届けること。早々にミッションを終わらせてこの場を離脱する。洗脳は別の機会に何とかするしかない。
「本当は試合の最中はゼリー飲料とかの方が良いらしいから、要らないヒトは言ってね」
「「「1つ残らず頂きます」」」
「即答かい」
「しー姉ぇ、折角だから一緒にご飯食べようよ」
「良いの?わーいやったぁ」
実はお弁当作りに熱中したせいで朝ご飯を食べ損ねていたからお腹が空いていたのだ。味見で少し食べたくらいかな。
最初の頃は下手だったお弁当作りも他人に振る舞えるくらいには上達したと思うよ。運動しているヒトに食べてもらうために少し塩味を濃くしたんだ。
「はぇー、頭の横にヒトの耳が無い。聞いてはいましたけど本当に獣人なんですね」
「他のヒトには言わないでね」
「分かりました。でも折角なので写真を撮っても良いですか?」
「恥ずかしいから嫌だ」
「そこをどうかお願いします。ってあれ、急にスマホの調子が悪くなった」
「そんなことより、折角だからもっと近くで応援してよ」
そりゃあ2階の観客席より近くに行けるのならそうしたい。愛音の迫力のある格好良い泳ぎを間近で見たいし。
でもあの観客席より近付ける場所なんて他に無いから仕方ない。ママなら双眼鏡くらい持ってそうだけど。
「先輩、これを」
「皆んなが着ている制服だね」
「これを着れば私達と一緒にプールサイドまで行けます。少し遅れて来たマネージャーという設定です」
「嫌だよ!どうして高校生の私が中学生の制服を着ないといけないのさ。それも女子の制服を。百歩譲って体操服でしょ!」
「でもこれを着ないと近くに行けませんよ」
「着るくらいなら上に戻るよ」
制服を持った後輩が現れた。私は即座に逃げ出した。
しかし回り込まれてしまった。運動部なだけあって動きが俊敏だな。いや今はそんなことどうでも良い。こうしている間にもどんどん退路を塞がれている。
というかこの子たぶん1年生だよね。自分の制服を持っているのだろうけどそれを渡そうとする目が据わっていて怖いよ。瞳の奥が濁って見える気がするよ。
「大丈夫ですよ先輩。痛くしませんから。直ぐ終わりますから」
「皆んな私に制服を着せて遊びたいだけだよね。嫌だよ。絶対に嫌だからね」
「わぁ、羽のように軽いよ」
「離してー!」
「じゃあ俺達はさっさと戻るか。ここにいても役に立たないし」
「そうだな」
「誰が助けてー!」
助けを求める声を上げるが現実は非常である。休憩時間が終わる頃には身ぐるみを剥がされて制服を着させられ、プールサイドにある学生の応援スペースに連行された。先輩にする仕打ちでは無い。
出場する種目が近付くと事前に移動するのだけど、誰かしら私を監視しているので逃げられない。スカートのお陰で尻尾を隠すことができるのが唯一の救いか。
「お母さん達はあそこにいるよ」
「そうだね。異様に大きなカメラを向けているからよく分かるよ」
「さっきまであんなもの使っていなかったよ」
「気のせいかな。あのレンズ愛音じゃなくて私に向いていないかな」
「あのヒト、凄く大きな機械でビデオ撮影してますよ。テレビ局のヒトかな」
「あれね、私達のパパだよ」
「あー、なんかその。元気出してください」
今更慰められたってもう遅いんだよ。労わるくらいなら今まで以上に全力で泳いで良い結果を出してきてくれ。
そんな私の血肉を削った応援が功を奏したのか、今回の大会では部員の多くが自己ベストを更新したらしい。
次を頑張る弾みになったのなら良かったけど。もう2度と私が来ることは無いと思う。今日が愛音が出場する最後の大会で良かったよ。
母「詩音の制服中学生バージョン!良くやったわ愛音」
父「こいつは永久保存版だな」
琴「後で嫌われても知らないわよ。まぁ、それはそれとしてお父さん」
父「どうした?」
琴「通行許可証なんてどうやって手に入れたのよ。他の保護者だって持っていないのに、お父さんだけ持っているなんておかしくない?」
父「ビデオセッティング完了。ピント調整良し。撮影開始だー!」
琴「聞いちゃいないわね」




