EP-98 禁断の関係
『そっかぁ。今日は遊べないんだね』
「ごめんね狐鳴さん」
『いやいや。いきなり連絡したのは私の方だから大丈夫だよ。また今度ね」
「うん、またね」
『ばいばーい』
通話が切られたことを確認した私は椅子の背もたれに体を預けて脱力する。側にいたパパが労うように頭を撫でるのも特に抵抗すること無く受け入れる。
麦茶を入れたコップを差し出されたのでありがたく頂く。両手で挟むように持ち上げて喉を潤すことでようやく一息つくことができた。
「今月もこの日が来たか」
「この格好で家で過ごすのは今回が初めてだけどね」
肉球で挟まれたコップを見たパパの言葉に私は苦笑いをしながら返事をする。頬を掻いているのだけど、パパには肉球を当てているようにしか見えないのだろう。
今夜の月は小望月。満月の前日である今日は私が狼の姿に変わり始める日だ。朝起きるとこれまでと同じように手足が肉球となる半獣モードになっていた。
満月になると全身が毛で覆われて顔を形が狼のそれになる獣人モード。夜になると完全な狼になる賢狼モードになるのだけど、私としては満月の前後である小望月と十六夜のときになる半獣モードが最も不便なのだ。
何故なら獣人モードのときは毛で覆われて肉球があるとはいえ、手足の形はヒトのとき同じだからだ。つまり物を掴むことができるし、料理や掃除などの細かい作業もできるからだ。
一方で半獣モードのときは手から膝、足から膝にかけてしか変化していないが、手足は狼の前脚のような形になり、まともに動かすことができなくなる。
強いていうなら両手で何かを挟むことができるくらい。家のドアノブを掴むのも一苦労だし、着替えだってままならない。ペットボトルの蓋は開けられないし、スマホを操作することもできない。床に置いたら拾うことすら叶わない。愛音やママに着せ替え人形にされても抵抗すらできない。
つまり何をするにも1人では大変で、不便極まりないのだ。
そんな謎の生態を持つこともあり今までは竜崎先生の病院で過ごしていたけれど、今回から家で過ごしても良いという許可が得られたのである。
それを何より喜んだのは他でもないパパであり、こうして世話を焼かれているというわけだ。
「月の満ち欠けで姿が変わること。友達にはまだ話していないんだよな」
「うん。今さら気持ち悪いとか思われるなんてことはないだろうけど、本当の狼になればさすがに驚かれると思うし」
「そうだな」
「狐鳴さんとか目を輝かせてもふもふしてくるだろうし」
「そ、そうか」
上手く言えないんだけど、この姿を知られることを想像すると裸を見られるのに似た恥ずかしさがある。家族なら気にならないから同じでは無いけど、友達には親しき仲にも礼儀ありというか、できるだけ知られたくないと思ってしまう。
現状で獣化のことを知っているのは家族以外だと竜崎先生達と学校の先生くらいだ。
「前に獣化を意識してコントロールするっていう話をしたよな。それはできそうなのか?」
「それが全く分からないんだよね。この前どうにかできないかと思って明想みたいなことをしてみたり、逆に力んだりしてみたけど、戌神先生に可愛いですねって言われただけだった」
「何をしても好感が得られるとか、ある意味最強の武器だな」
「嬉しくない。全然嬉しくない」
話題を振られたこともあり、もう一度念を込める。他にも神経を研ぎ澄ませてみたり、それらしいことをやってみるけどやっぱり何も起こらない。
その代わりに目を開けるとパパが豆大福を置いていた。どうしてこうなる。
「よし、少し早いけど昼飯は俺が作るとしよう」
「本当に?ありがとう」
「正直今の詩音より下手だからあんまり期待はするなよ」
普段料理をしないヒトが料理を作ってくれるのって一際嬉しいものだよね。味だけで考えるとプロ並に上手いママの方が美味しいけど、慣れていないからこそ私のために気持ちを込めて頑張ったというのがとても嬉しく感じる。
皿に置かれた豆大福を直接齧り付きながら待つことしばらく。久しぶりのパパの手料理が食卓に並ぶ。
「お待たせ。そうめんと夏野菜の焼き上げだ。本当はフライとか天ぷらの方が様になるんだが勘弁してくれ」
「おー、美味しそうだね」
そうめんはシンプルに麺つゆで。旬の野菜は彩りも良くて美味しそうだ。狼が食べてはいけない野菜を使っていないのも配慮してくれているのが分かって嬉しい。
嬉しいけど、これはどうしたものかな。
「「いただきます」」
お椀に麺つゆを入れてもらい早速頂く。まずはそうめん。夏らしく音を立てて啜るのが乙だよね。
皿に盛られたそうめんを取るため箸を取る。箸を取るのだ。箸を取らないと。
肉球から滑り落ちた箸が床に落ちて乾いた音が木霊する。直ぐに拾おうとするが掴めない。というか掴むという動作ができない。
立ち上がってパパを見つめる。静寂に包まれる空間にエアコンと風鈴の音だけが虚しく響く。
「ごめんな。気が利かない父親で本当にごめんな」
「うん、まぁ、うん。そんなこともあるよ」
本当は料理が出てきたときに言うべきだった。この姿のときは箸やスプーンなどを使って食べる料理は自力で食べられないと言うことを。
でも嬉しそうに用意してくれたパパの笑顔が眩しくて言えなかった。むしろ気を遣わせたくなくて無謀と知りつつ頑張ったせいで余計に気まずい空気になった。
箸を拾ってくれるパパが見ていられなくて視線を逸らす。い、居た堪れない。
「よ、よし。こうなったらパパがちゃんと食べさせてあげるぞ」
「えっ、大丈夫だよ。その気になればこのくらいそのまま咥えて」
「いやいや!女の子が器から直接食べるなんて、そんな絵面見せられないぞ。マナー的にもパパは許しません!」
「でもこの年になって食べさせてもらうなんて恥ずかしいよぅ」
「それは本当にすまないと思う。パパが全面的に悪かった。でも今回だけは我慢してくれないか」
「うぅ、分かったよ」
落とした箸を洗い直して再び食事を再会する。パパは箸で野菜を取ると私の前に運ぶ。私はそれに顔を近付け、口に入れて咀嚼する。そうめんも同じように麺つゆにつけたそれを舌を使ってどうにか咥え、手繰り寄せるように啜って食べる。
それはまるで雛鳥が親鳥にご飯を分けてもらうよう。やっぱりこれ凄く恥ずかしい。顔から火が出るほど真っ赤になっているのがよくわかる。
「次は何を食べる?」
「ちゅるり」
「そうめんな」
他人にご飯を食べさせてもらうのに麺類は難易度が高い。特にスープにつけて食べるタイプは予期せぬ方向に汁が跳ねてしまう。
実際、1人で食べるようには上手くできなくて、汁を鼻につけてはパパに顔を拭かれる始末。早く終わらせようと思いっきり齧り付いたけど、これがいけなかった。
勢い良く啜ったそのとき、そうめんが盛大に気管に混入した。反射的に咳込む私にパパも驚いて咄嗟に手を引く。その結果、持っていたお椀から盛大に麺つゆが溢れた。
「なあぁーーー!?」
「あちゃー」
「詩音すまん!えっと、一体どうすれば」
「直ぐに洗濯すれば大丈夫だよ」
パパが隣で絶叫する中、私は茶色いシミが広がるパジャマを何となく眺めていた。こういう大変な事態になったときって本人は意外と冷静だったりするものだよね。
慌てるパパを他所にパジャマのボタンを外す。肉球と化した手でボタンを、外せなかった。
そうだった。自力で着替えられるなら昼過ぎになるまでこの格好のままでいないもんね。
顔を上げると唖然としているパパと目が合う。気まずい沈黙に耐え切れず、誤魔化すようにあざとく笑ってみる。
「えへっ」
「ぎゃー!」
パパが代わりに外そうとしてくれけど、焦っているか上手く外すことができない。何か手伝ってあげたいところだけど今の私は無力。
精々この肉球で労わることしかできないけど心配はいらない。運が良いことにちょうど誰かが帰って来たからだ。
「うぇーいただいまー。部活疲れたよー」
「お帰り愛音。ちょっと手を貸して欲しいんだけど」
「ぎゃー!お父さんがしー姉ぇを襲ってるー!」
「どこをどう見たらそうなるの!」
「どこをどう見てもそう見えるよ!」
一体愛音は何を言っているのだろうか。パパは私の服を脱がせている途中で胸をはだけさせるだけだ。やましいことなんて何も無い。
会って早々に言い争う兄妹にパパが動くが時すでに遅し。振り返るその顔に美しい回し蹴りが叩き込まれる。あんなに激しく動いてもスカートの中が見えないとは。やっぱり本物の女子は凄い。
「親が子に手を出すなんて最低だよ!」
窓を突き破り放物線を描いて庭に追い出されたパパに向かって愛音はそう吐き捨てた。
それを聞いて互いの認識の齟齬に気付いた私はパパの面子を守るために必死の弁明に追われるのであった。
愛「はぁ、良かった。お父さんが血迷った変態じゃなくて」
父「恐ろしい誤解が無事に解けて何よりだよ」
愛「じゃあこの話はこれで終わりにして。しー姉ぇ、お風呂に行こう」
詩「えっ」
愛「それを洗濯しないとでしょ。体も洗って着替えないといけないし。でも1人ではできない。後は言わなくても分かるよね」
詩「パパ助けて」
父「骨は拾っておこう」
詩「そんなぁ」
愛「私もシャワー浴びたいし。久しぶりに2人で入ろう。そして肉球を触らせろー」
詩「やーめーてー」




