SS-90 とある手芸部員の日常
「それでは先輩。お先に失礼します」
「はーいお疲れー」
夏休み。数少ない部員が部屋に集まり各々が自分の作業を進める中、私は午前のうちに一足早く家路に着きました。
というのも皆んな手よりも口が動いてばかりだから仕方がありません。
決して悪いヒト達ではないし、先輩曰く昔よりは良くなったと言います。でも他人と話すことが苦手な私にはその付き合いが少し億劫に感じるときもあります。
日差しから逃げるように早足で家に帰った私はシャワーで汗を流して私服に着替える。お母さんが用意してくれたお昼ご飯を食べて、少しの間リビングのソファで横になりのんびりと過ごします。
「んー、自由だぁ」
私の名前は人形造里。桜里浜高校の1年生で手芸部に所属しています。どこにでもいるありふれた女子高生です。
勉強はそれなりだけど手芸や裁縫は昔から好きでずっと続けています。皆んなは上手いと褒めてくれたけど、私はただ思うままに作っていればそれだけで充分に楽しいです。
でもあるとき張り詰めた糸が切れたように急に身が入らなくなりました。作っても作っても何か納得できないのです。いわゆるスランプというやつでしょうか。
まるで濃霧の中を彷徨っているように悩む毎日。そんなとき、霧を一気に晴らすような出会いがありました。
『初めまして。言ノ葉です。今日はよろしくお願いします』
彼女、いいえ。ここではあえて彼としましょう。
彼の名前は言ノ葉詩音さん。部活動紹介で初めて話したときの記憶は今も鮮明に覚えています。
彼について私が知っているのは学校から教えられたことだけです。詩音さんは元々は男性で、今は動物の耳と尻尾を持つ女性に変わってしまったということ。それ以上の詳しいことは何も分かりません。
最初は先生方は何を言っているのかと思いましたが、全校集会で本人を見かけたときに納得しました。だって聞いた通りの姿をしていましたから。
どんなに不思議な事でもそこに実在しているのなら事実として受け止める他にありません。大切なのはその後に何をするのかということ。
思いのままに表情を変えて、全身で感情を表現する姿。見た目が愛らしいのは勿論ですが、綺麗な心を持ったヒトであることは皆んなすぐに分かりました。
外見の特異性もありますが、彼は大勢から注目を集めていました。一挙手一投足がまるで愛玩動物のようで一度目にすると姿が見えなくなるまで動けなくなります。
それだけならまだ良いのです。ある日の掃除の時間、教室から彼の鼻歌が聴こえました。まるで耳が溶けるような美しい音色に廊下を通ろうとした生徒や先生の足が止まり、気付けば大勢のヒトが教室の外に集まっていました。
そんな事件があったことは本人は知らないと思います。でもそれで良いのです。詩音さんは何も知らなくて良いのです。
そうした経緯もあり、一方的に憧れというか敬愛というか。私を幸福で満たしてくれる彼のことが気になるようになり、遂に私は鞄に入っていた羊毛フェルトの余りでぬいぐるみを作っていました。
別のクラスだから会う機会は多くなかったけど、時々見かけるときの表情がとても豊かで。まるで写真を撮るようにその一瞬の姿を記憶に焼き付けてこの手でそれを再現します。
私は漫画やゲームを持っていないからよく分からなかったけど、それでも言ノ葉さんに似た格好のキャラクターは沢山いることは知っています。
近くで見たり話す機会はありませんでした。それでも少しでも彼の魅力を表現したくて。色々と調べて創作の知識を広げました。
やがてフェルトだけでは無く、布と綿を使った本格的なぬいぐるみの形がある程度定まり量産していた頃。その時は訪れました。
『おー人形、良いところに。突然だけど今日の放課後に部活紹介するから付き合え』
『何ですか急に』
『お前が大好きな言ノ葉詩音が見学に来るんだと』
『えぇっ!?言ノ葉さんが!っていや好きってそんな!私のこれは別にそういうでは』
『はははっ!どんだけ動揺しているのよ。まぁ、またとないチャンスだから頑張ってスカウトしよー』
当時の先輩とのやり取りを思い出すと顔が赤くなります。思えばこのとき言ノ葉さんに対して抱いていた気持ちが何か分かったのです。
好きか嫌いなら勿論好き。でも恋愛とか親愛とかそういうのではなくて。笑顔を見ると関係ないのに私まで嬉しくなる。頑張れと応援したくなる感じ。
きっとこれが「推し」と表現する気持ちなのだと思います。
残念ながら入部は断られました。それ以前に部活動紹介の内容は緊張してしまいほとんど覚えていない始末です。
でも言ノ葉さんが私が作ったぬいぐるみを気に入ってくれて、一体貰ってくれたのは覚えています。
あのとき見せてくれた笑顔は私の宝物です。あの一瞬はこの日のために生きていたのだと本気で思っていました。ちょっと恥ずかしいです。
あの日以来、私は再び手芸や裁縫を楽しくできるようになりました。前と違うのは言ノ葉さんを模したぬいぐるみばかり作っていることでしょうか。
正直に言って私は常人の一線を超えてのめり込んでいる自覚があります。1日の終わりに量産した言ノ葉さんぬいぐるみを見て、狂気を感じて自責の念に駆られるくらいには。でも作業中はとても幸せでやめられないんです。
ちなみに表情や衣装、ポーズなどはそれぞれ異なっているので、1つとして同じぬいぐるみはありません。私の細やかなこだわりです。
今は肌色を変えたり、髪や目の色を変えて更にバリエーションを増やしています。言ノ葉さんの可能性は無限です。言ノ葉さんは宇宙なのです。
はっ、いけない。また思考がおかしくなるところでした。自重しろ私。
「よし、あの続きをやろうっと」
気持ちを切り替えるために私は起き上がり自室へと戻ります。いつもなら自作のぬいぐるみや作るための道具が並んでいるのですが、実は最近模様替えをしました。
布や綿の代わりに作業台に置かれているのは粘土や芯材、スパチュラと呼ばれる金属製の小さなヘラが数種類に塗料まで。分かりやすく言うとフィギュアを作るのに使う道具が一通り揃っています。
そうです。私はぬいぐるみ作りに飽き足らず、完全な独学でフィギュア制作を始めました。モデルは勿論詩音さんです。
フィギュアはとても難しいです。ぬいぐるみと比べると細部まで表現することができる反面、それだけ高いリアリティが要求されます。
それでも本人の体型を知っているだけ随分とやりやすいです。水泳の授業でばっちり確認しましたからね。目視ですけど。
「本人再現はまだ早いかな。でも夏休み中には良いところまでいきたい」
もの作りに大切なのは根気です。ぬいぐるみ作りで鍛えたおかげか2頭身にデフォルメしたフィギュアなら結構良い感じに作れるようになりました。
私が知っているフィギュアとは違いますが、これはこれで可愛いのでとても気に入っています。これもぬいぐるみのように色々なパターンを作ってみようかな。今は夏だし、それこそ水着とかどうでしょう。
創造は想像。故に可能性は無限大です。言ノ葉さんの魅力を形にするべく、私は今日も研鑽を積み重ねるのです。
詩「はうっ、なんだか悪寒がする」
琴「エアコンの温度を下げ過ぎなのよ。設定変えてくるわね」
詩「まるで私の恥ずかしいところを全て形にされているような。そんな感じがする」
琴「ふーん。まぁ、あなたの可愛いところを形として残したい気持ちは分かる」
詩「なんで共感するんだよぅ」
琴「クリエイターの性ってやつよ」




