EP-9 迫る脅威
「それじゃあお父さん。紫音をよろしくね」
「おーう」
退院した後に服を買い、その足で近所のホームセンターに寄ることになった俺。母さん達曰く、男と違い女性には色々と必要なものがあるのだとか。そういうものなのか。
とは言え着せ替え人形にされて魂が抜けかけている俺を連れ回すつもりは無いらしい。買い物は済ませるから休んでいるように言われて、俺は有難くその言葉を受け入れることにした。
昼食はお腹を鳴らす俺に父さんがサンドイッチを買ってくれた。フードコートもあるけど大勢の人がいる場所へ向かう覚悟はまだ無い。
手持ち無沙汰な時間を父さんと何の変哲も無い世間話をして消化する。それにしても3人は遅いな。
それから更に時間が過ぎることしばらく。小波のように押しては引くを繰り返すその衝動は徐々に無視できない強さに至る。
「父さん。俺ちょっとトイレに行きたい、かも」
「マジか。どのくらいだ?」
「あんまり余裕ない」
少しでも意識を逸らせようと股を閉じて腿をすり合わせるくらいにはその欲求は近づいている。ここから家まで車を走らせると約10分程度。それなら何とか持つかもしれない。
そう思った矢先、その衝動がこれまでとは比較にならない強さで押し寄せてきた。
「父さん」
「どうした?」
「やっぱりもう無理」
今まさに車を走らせようとした父さんを止める。今ここで運転の振動を受けると取り返しがつかないことになる。人としてそれだけは何としてでも避けなければ。
幸いここはホームセンターで、建物に入れば直ぐ近くにお手洗いはある。知らない人に見られるのは嫌だけど、人の尊厳を失う方がもっと嫌だ。
「行ってくる!」
「おい、ちょっと待て!」
父さんを残して車を飛び出した俺は広い駐車場をひた走る。直前に父さんが何か話していた気がするがそれどころではない。
車に注意しつつ最短距離で駐車場を突破。その足でホームセンターの中へ入る。
幸いお手洗いはすぐ近くにある。人が並んでいる様子も無い。幸運に感謝しながらそこへ向かい、けれど俺は足を止める。
男性用と女性用。究極の分かれ道を前にして。
「ふぎゅう」
余裕の無さから変な声が漏れる。
世間体を考えれば女性用一択なのは揺るがない。でもそれは俺のプライドが、紫音の心がその選択を強く拒む。
では男性用に入るのか。外見だけとは言え本物の女子が。それも春から高校生になる女子が。知らない人がたくさんいる場で男子用のそれに駆け込むと。
人の尊厳を失うのと同等に不味い事態じゃないか!
どうすれば絶望しかない未来を避けられるのか。そもそも俺は病院でどうやって用を足していたのか。
「バリアフリートイレ!」
窮地に陥った頭が土壇場で最適解を導いた。というより思い出した。
それぞれの事情があり通常のお手洗いが使えない人のために用意されたバリアフリートイレ。当然病院に完備されているこれに俺は救われたのだ。
でも改めて考えると俺はバリアフリートイレを使っても良いのだろうか。正直に言って身体事態は男のときより健康体そのものだし。
踏み出した足を引っ込めたところでこれまでとは比較にならない欲求の波が来る。肩で息をするようにしてどうにか堪えたけどこれが最後だ。もう次は残されていない。
「元気は元気。でも性別が変わっているし、耳と尻尾も生えている。これはもうバリアフリー使っても許される、はず。駄目だとしても今だけはご勇恕願います!」
誰かに向けた訳でもなく許しを乞うたところで扉の手すりを掴む。
しかし扉は開かなかった。鍵がかかっていた。
「〜〜〜っ!」
声にならない悲鳴をあげる。なんで、よりにもよって、このタイミングなのかな!
もう四の五の言っている場合じゃない。お手洗いに入れるならこの際どこでも良い。
咄嗟に向かったのは男性用の方。産まれてから15年の間に培った反応がそうさせる。しかしあと一歩のところを残された理性が踏みとどまらせる。
そのとき、男性用のお手洗いから1人の男の人が出てきた。
「あっ、すみません」
「っ!」
ぶつかりそうになったからと軽く頭を下げたその人。予想外の事態に頭が真っ白になる。
「すみません!」
相手の顔を見る余裕なんてない。俺は泣きそうになりながら踵を返して女性用のお手洗いに駆け込む。
結論から言うと大事にはならずに済んだ。生憎と女性の身体が男とは勝手が違って困るとかそういうことは無い。そんなものは目を覚ました翌日に病院で経験済なのだ。
勿論そのときは抵抗があったけど生理現象が相手ではどうにもならない。いつまでも我慢できるものでもないし。
ひとしきり感情が揺さぶられたところで落ち着きを取り戻してお手洗いを後にする。そのタイミングを同じくしてバリアフリートイレの鍵が開いた。
「あれ、しー姉ぇだ。こんなところで奇遇だね」
出てきたのはまさかの知り合い。散々俺を苦しめた元凶は愛音だった女性用のお手洗いが混んでいた訳でも無いのにバリアフリートイレを占領した大罪人め!
「えっ、何?うわ、ちょっといきなり蹴らないでよ」
「いいから謝れ。本当に必要としている全ての人に謝れ!」
「ごめん。ごめんってば。いたっ!いや痛くない。蹴りの威力弱い」
謝罪の言葉こそ引き出せたけど有効打は与えられず、俺の鬱憤を晴らすことは叶わなかった。
父「———あぁ、分かってる。そっちは任せたぞ」
紫「父さんただいま」
父「おぅ、大丈夫だったか?」
紫「なんとかね。父さんは電話?誰から?」
父「別に。ただの職場の後輩さ」
紫「そういえば父さんってどんな仕事をしてるの?」
父「北極でペンギンの数を数えながら石油を掘っているのさ」
紫「へぇー、だから家を空けることが多かったんだね」
父「ん、まぁな。でもこれからはちゃんと毎日帰って来るから」
紫「そうなんだ。嬉しいなぁ」
父「これからは一緒に夕飯を食おうな」
紫「うん!」




