EP-88 恐れるべきは無垢なる心
海水浴を謳歌した記憶が鮮やかに残るこの日。私は竜崎病院に訪れていた。定期検診や獣化の経過観察でよくお世話になっているけど今回は別件で来ている。
「ミャー」
「ほれほれー」
竜崎先生に遊んでもらい楽しそうにはしゃぐあんこ。出会った後から何度か診てもらっていて、最初のときこそ栄養失調気味だったらしいけど今は見ての通り元気に育っている。
なんなら竜崎先生に凄く懐いている。少なくとも私が知らない表情をみせるくらいには。なんだかちょっとだけ悔しい。
「ご飯もちゃんと食べているみたいだし、今やすっかり健康体だね」
「良かったねあんこ」
ひとしきり遊んでもらい満足したあんこは飼い主は飛鳥さんの腕を伝って肩に乗ると、互いの頬をすり寄せる。控えめに言って可愛い。
「おっ、どうした詩音ちゃん。あんこみたいにすりすりして欲しいのかな」
「や、やめてよ」
私の視線に気付いた飛鳥さんは下から覗くようにして顔色を伺う。何を言い出すかと思えばとんでもないことを言い始めた。
私はあんこが可愛いと思っただけで、別に飛鳥さんと仲が良くて羨ましいとか思っていないからね。
第一、あんこと同じことを飛鳥さんにするなんて私の身が持たない。飛鳥さんは綺麗なヒトだから絶対に顔が赤くなって挙動不審になるよ。
「んー残念。詩音ちゃんのもふもふを合意のもとで楽しめるチャンスだったのに」
「ひのえちゃんとこのと君にやって」
「あの2匹はほら、もう取られちゃったし」
「そうだけどさ」
悪戯心を宿した表情から一変。呆れるように細い視線を送る先には噂の犬が2匹とも揃っていた。
『誰だこいつ』
『何だこいつ』
「コォー、コォー」
否、正確には2匹の間にいるガスマスク人間に向けて送られていた。顔を完全に隠していて、夏なのに一切の露出がない完全防御形態は誰がどう見ても浮いている。
その怪しさはやんちゃな2匹ですら大人しくなるほど。この病院では危険な細菌試験を行っているのかと勘違いされかねない格好だよ。
「詩音さんの友達。面白いヒトですね」
「コォー、コォー。ふへへ」
「あれと一緒の扱いをされるのはちょっと」
「あはは」
ガスマスク人間の正体。それは生まれながらにして動物に触ることができない呪いを宿した少女、狐鳴稲穂そのヒトである。
ゴム手袋を装着した手を伸ばしてこのと君の背中を撫でる姿は控えめに言っても異様だ。ガスマスク越しに聞こえる声もその風体との違和感が凄い。
「あなたそんな格好でも触ったときの感触って分かるの?」
「それはほら。私の想像力で補完すれば」
「妄想の間違いでしょうが」
どうしてこんな事態になったのか。事の発端は海水浴の帰りのときまで遡る。最初にあんこの健康診断の話になり、その流れで飛鳥さんと動物に関する話で盛り上がったのだ。
そして一緒に行くことを了承してもらったところに嫉妬に狂った狐鳴さんが乱入。半ば強引について来たというわけだ。
「アレルギーねぇ。ここでも薬の処方は可能なんだが、院長達がいるからなー」
「通院だけで命懸けですね」
そのヒトにあった薬を処方するには正確な診察による正しい診断が不可欠だ。しかしここには沢山の動物が出入りするし、竜崎先生も訪問診療に赴くほど暇ではない。
狐鳴さんは命の危険こそ無いらしいが、少しの油断ですぐに症状が出るしいつも大変なことになる。どうにかならないかと思ったけど、直ぐにどうにかするのは難しいみたいだ。
「そう考えると詩音ちゃんだとアレルギー反応が全く出ないっていうのは本当に不思議なことだね」
「そうなんだよ。故にしーちゃんは私のメシアなのだよ」
「救世主じゃないし」
でも狐鳴さんの姿を見ると動物に触れないヒトにとっては気兼ねなく触れ合える私は貴重な存在なんだと改めて実感した。
今ですらガスマスク越しに私の尻尾に狙いを定めているし。もしも半獣や獣人、完全な狼の姿になる賢狼モードの姿になれることを知られたら何をされることやら。
竜崎先生と視線が交わる。どうやら似たようなことを考えていたらしい。こうした秘め事は絶対に守ってくれるから本当に良いヒトだよ。
「折角だし話くらい聞こうか?こう見えて人間もちゃんと診れるし」
「あなたは神か」
「しがないお医者さんです」
くたびれた白衣を着た医師とガスマスク姿の女子高生が真剣に話をしている。何だこの光景。異様過ぎる。
2人のことは見なかったことにして私は皆んなと遊ぶとしよう。
「このとくーん。ひのえちゃーん」
狐鳴さんから解放された2匹が駆け寄り私の周りをくるくると回る。やがて飛鳥さんの下に近付くと撫でろと言わんばかりに頭を差し出す。
2匹とも好奇心が旺盛で知らないヒトにもあまり怖がらないんだよね。加えて飛鳥さんはあんこの件で定期的に来るから今となってはすっかり仲良しになっている。
人懐っこいペットと綺麗な女性が一緒にいると絵になる。その様子を激写するべくスマホを取り出したとき、小さなハンターもまた私を狙っていた。
「ミィー」
スマホの画面に注目しつつ飛鳥さんに近付いていたそのとき、彼女の肩に乗っていたあんこが跳躍。まだ小さいのに驚異的な身体能力を披露して私の腕にとびついたのだ。
当然写真はブレてしまい、驚いた私は思わず腕を引く。その勢いを利用してあんこは私の頭に飛び移る。
「ひゃわぁ!?」
多分あんこは私に構って欲しかったのだと思う。でも私は顔にめがけて跳んできたあんこに驚いて反射的に顔を背けてしまった。これが後に訪れる地獄の発端となるとはね。
顔を背けたことにより着地地点がズレたあんこは私の首の辺りに落ちる。体勢整えるべく動いたとき、私は盛大に尻餅をついてしまった。
その衝撃はあんこの体勢を崩して脚を滑らせた。肢体を宙に投げたあんこはなす術もなく落ちてしまう。
そう、尻餅をついたまま倒れていた私の襟に落ちて、そのまま綺麗に服の中に入ってしまったのだ。
「あうぅ、ふわっ!?」
ふわふわしたものが肌に触れる感覚で何が起きたのか直ぐに察した。慌てて外に出そうとするが、あんこも混乱しているみたいであちこちに動き回る。
「ちょ、待って。動かないで。お願いだから」
「どうしたの詩音ちゃん」
あんこが動く度に柔らかい毛が肌を撫でて力が抜ける。取り出そうと躍起になるほどあんこは逃げ回り、くすぐったいあまりに息が苦しくなる。
どうして私は今日に限ってゆとりがある服を着てしまったんだ。これではまるで動くキャットタワーじゃないか。
「あんこぉ。お願いだから早く出てぇ」
「ミー」
鳥肌が立つような感覚から逃れたくて暴れそうになるが、それであんこが怪我をしてしまっては一大事である。
かと言って袖や襟、服の下から手を伸ばしてもあんこは私の体を這って逃げてしまう。お前まさかこの状態を楽しんでいるんじゃないだろうな!?
結局私は四つん這いの姿勢になり、あんこが自力で脱出してくれるのを待つしかなかった。なんかくすぐったいを通り越して変な気分になってきた。
「詩音ちゃんが、詩音ちゃんが!男子には絶対に見せられない姿になっている!」
「な、なんて艶のある声を出すの」
ようやく苦しみから解放されたときには息も絶え絶え。視界の端で服の下から転がり出るあんこの姿を見ると同時に、私はそのまま床に倒れる。
事件を起こした張本人といえば何事もなかったかのように毛繕いをしている。そのまま欠伸をすると私の側で丸くなり目を閉じた。なんて自由なんだ。可愛いやつめ。
その後、戌神さんに介抱される私。例えあんこが相手でも、もう2度と醜態は晒すまいと心に誓うのだった。
詩「うぅ、酷い目に遭った」
鳥「いやー、面白いものが見れた。さすがあんこ」
狐「ちくしょう。ガスマスク越しじゃなくて生で見たかった」
竜「おいおい頼むよー。ここは健全な病院なんだからさー」
詩「わざとじゃないのに」
戌「良かったです。もう少しで先生の目を潰さないといけないところでした」
竜「何それコワイ」




