EP-82 ことの発端
連日の真夏の暑さが続く中、空調が効いた「Lesezeichen」には太陽の日差しから避難したヒト達がひと時の安らぎに浸っている。
「はぁー、生き返るわー」
注文したアイスコーヒーを一口飲んで感想を述べる彼女の名前は柚葉さん。琴姉ぇの親友であり、今は専門学校で服飾の勉強に邁進している先輩である。
実は柚葉さんは定期的にレーゼに遊びに来る常連客だったりする。何でも勉強やデザインのアイデアに詰まったときに良いリフレッシュになるのだとか。私もスケッチブックにペンを走らせる姿を度々目撃している。
確かにここに来る客層の幅はかなり広い。学生を中心にお茶とお喋りを楽しむ主婦から普通に食事に来たサラリーマンのヒト。ゲームを持ち込んで友達と遊ぶ子から私のことを慕ってくれる女の子まで本当に多様だ。
それだけの被写体があればデッサンも捗るというもの。喉を潤して英気を養った柚葉さんは早速いつものように絵を描き始める。
「詩音。これもお願い」
「はーい」
ママから渡されたチーズケーキをトレイに乗せて柚葉さんの所に持って行く。ついでに絵を見せてもらうと店内の様子や窓から見た景色などが描かれていた。
緻密な1枚というより光景の全体を大まかに捉えた下書きをいくつも書いているようだ。それでも物の特徴をしっかり捉えていて、これだけでも上手い絵だと感じる。
「詩音君も描いてみる?」
「いや、私は別に。その、全然上手くないので」
「こういうのは上手とか下手ではないのだよ」
そう言うと柚葉さんはスケッチブックから器用に紙を1枚切ると予備のペンと合わせて私の前に置いた。一瞬で断り辛い雰囲気にのまれてしまった。
ちなみに私の中学生時代の美術の成績は平均だ。というのも絶望的な技術を前向きな授業態度と絵画鑑賞の感想文で帳消しにしたからである。
評価欲しさに裏面までびっしり感想文を書いたプリントを提出したときの哀れむような先生の顔は今も鮮明に覚えています。
「おー、まさかこいつと勝負することになるとは」
「それにしては反応薄いな」
「そりゃあ結構伏線あったからな。ってレベル高い!?」
ゲームに興じるヒト達の声を聞きながらとりあえず何か描いてみる。何事も挑戦が大切であることを私はこの身を持って知っているのだよ。
そんな意気込みで描いた作品には何故か空間が捩れたワンダーランドの世界が構築されていた。考えてみれば二次元の紙に立体的な三次元の被写体を描こうとするなんてできるわけが無いのさ。
「詩音君が描く線には迷いがないね。その思いっきりの良さはとても良いことだよ!」
どうにか褒めようと絵良いところを捻り出す柚葉さん。ハッシュドポテトで狼の形を作るのと、簡単なラテアートならできるんだけど。普通の絵も練習すれば上達するのだろうか。
「どう柚ちゃん。捗ってる?」
「琴のママさん!お邪魔してます」
紙を裏返して2つ目の作品に挑もうとしているとママが乱入して来た。対する柚葉さんも元気に返事をする。
「詩音も大変なのよ。一を教えたら百を覚える姉と最初から何でも器用にこなせる妹に挟まれて」
「確かに琴はチートですよねぇ。愛音ちゃんもエアホッケーのとき鬼神みたいだったし。詩音君が一番人間らしいですよ」
「私も色々と教え甲斐があって楽しいわ。柚ちゃんはどうかしら」
「同感です。苦手なりに一生懸命頑張るところとか控えめに言って萌えます」
「その話しは私がいないところでやって」
涼しい空気が流れているはずなのに顔が熱くなるのを感じる。この体は肌が白いから、赤くなると直ぐに分かってしまうのだ。
「あっ、そうだ。実は私、琴ママさんに聞きたいことがあるんですよ」
「何かしら」
「詩音君がいま着ている超絶可愛い和風制服なんですけど」
「あら、やっぱり分かっちゃう?でもそうよね。他ならぬこのデザインを考えた本人なんだから」
「勿論ですよ!詩音君に似合う衣装を妄想しながら描いたやつがまさか形になるとは思いませんでしたから。私もう何がなんでも本物のデザイナーになると誓いましたよ!」
適当に聞き流そうとした2人の会話だったけど、あまりに気になる会話の内容に思わず手を止めて顔をあげる。
この服を作ったってどういうことなのかな。納得のいく説明をしてもらおうか!
「そんな両手でテーブルを叩いてぷりぷり怒らないの。もう全く怖くないから」
「手が痛い」
「だから言ったのに」
「別に大した話しではないの。私はいつも脳内の詩音君に思いついたデザインの服を試着して貰っているんだけど」
どうやら想像の中の私は常日頃から相当な辱めを受けているらしい。何故そんな惨いことを。一体私が何をしたというのだ。
「そのうちのいくつかを琴ママさんが気に入ってくれたみたいでさ。作るときの参考にするからってその落書きをあげたんだよ」
「その割には服を作るのに問題が無かったくらい設定が緻密に書き込まれていたけどね」
「一応プロを目指しているので」
ママの称賛を素直に喜びつつ、どこか恥ずかしそうに後頭部に手を当てる柚葉さん。今回はママが外部発注をして形になったけど、今度は自分で一から作ると息巻いている。
言いたいことはいくつもあるが、機能性では確かに優れているんだよね。モデルが私でなければ完璧だったと思う。
専門学校に今年入学したばかりで服が作れるほどの案を生み出せるなんて、柚葉さんはとても凄いヒトなんだなぁ。
「いやもう、私の話しは良いんですよ。ほら詩音君、次はどんな絵を描いたのか見せて」
柚葉さんは照れ隠しに私から紙を攫いそれを見る。すると徐々に表情が変化していき、最終的には首を傾げて頭上を疑問符で一杯にした。
しかしそれは無理もない。何故なら私が書いていたのは絵ではなく楽譜だったのだから。
「詩音君、これはどういう?」
「何を描こうか悩んでいたのですが、気付いたらこうなっていました」
たぶん聴こえた音をそのまま譜面に書き起こしたのだと思う。自分のことなのに確証が無いのは悲しいけど、他に説明のしようがない。
ただ1つ確かなことは今はまだ楽譜が完成していないことだ。だから早く返して欲しい。こういうのはきちんと仕上げないと気分が悪いからね。
「一応この通りに演奏するとちゃんと曲になるはず。たぶんだけど」
「それならちょっと弾いてみてよ。詩音の不定期ライブ開催ってことで」
「いやいや、いきなりピアノを弾いたら他のお客様に迷惑だから」
「皆んなー。詩音の演奏聴きたいヒトは手を挙げてー」
「「「はーい」」」
突然の質問に満場一致で賛成するお客様達。どんだけ皆んなノリが良いんだよ。
表情で難色を示すが期待に満ちた視線が痛い。別にピアノを弾くことが嫌ということはないから良いんだけどさ。
おずおずと席を立つと拍手がまばらに送られた。和服制服に襷掛けをして袖が演奏の妨げにならないようにする。軽く弾いて音を確認すれば準備完了だ。
「あぁ、これさっきのか」
冒頭を弾いた瞬間、私は何を楽譜におこしたのか分かった。お客様の一組が遊んでいたゲームのBGMだ。良い曲だなと思っていたけど、私の耳はその音をしっかり拾っていたらしい。
これは後でそのお客様から聞いたことだけど、そのゲームは世界で最も売れたRPGゲームの最新作らしい。当然私だってそのタイトルは知っていた。面白いゲームは音楽にもこだわっているということだ。
またゲームのBGMということはその曲はループするように作られている。つまり一定の長さの曲を繰り返し連続で演奏しても違和感が無い構成になっているのだ。
だから私はこの曲をいつまでも引き続けることができる。それにノリが良い曲だから徐々にテンションが上がってくるのがこれまたニクイよね。
ループする度にアレンジを加え続けてひとしきり満足したところで終わらせる。全力で走り切ったようなこの達成感が堪らないよね。
「いやー凄いよ詩音君!めっちゃ格好良かったよ!」
「えへへ」
「もう私すっかりファンになっちゃった。また聴かせてよね」
手放しで喜ばれるのは恥ずかしいけど素直に嬉しかった。たまにはこういうのも悪くないね。
詩「ゲームのBGMの曲は弾いたことが無かったけど楽しかった」
客「たかがバックサウンドかと思うでしょうけど、名曲はたくさんありますよ」
詩「そうなんだ」
柚「最近はゲーム音楽を聴くことをメインにした動画とかもあるよ。暇なときにでも聴いてみなよ」
詩「動画ってどうやって見るの?」
柚「そこからかぁ」
客「獣耳店員さんとお喋りをしてしまった。皆んなに自慢してやろう」




