EP-79 善行
「詩音、ちょっと良いかしら」
「なぁに?」
ママが淹れるサイフォンコーヒーをじっと眺めていると本人に声をかけられた。顔だけを向けると何がおかしいのか小さく笑う。
「実はちょっと買い出しを頼みたくて。大したものではないけれど、開店する前に行って来てくれないかしら」
「別に良いけど。どうして私なの?」
「琴音は部屋に篭っているし、愛音は部活でいないから」
「そうなんだ」
仮に暇なヒトがいたとしても断る理由はないから構わないんだけどね。近くのスーパーまで行くだけならそれほど時間もかからないし。
無駄に可愛らしいがま口財布を渡された。何だこれ。私は初めて独りでお使いに行く子どもではないぞ。
「私が言うのもアレだけどその格好で行くの?」
「行かないよ!ちゃんと着替えるよ!」
誰がこんな無駄に映える制服で街中に行くものか。他人の視線に慣れてきたとは言っても自ら醜態を晒すつもりは毛頭ないぞ。
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手早く着替えられるラフな格好を纏い、帽子を被り家を後にする。夏の日差しと熱を帯びた空気が肌を撫でる。汗をかく前に空調が効いたスーパーに着きたいところだ。
「あぁ、そこのヒト!」
突然かけられた言葉に顔を上げると、緩い坂道を転がるみかんがあった。咄嗟に体が動いてそれを手に取り、その流れで2つ3つと拾い集まる。いや結構転がってくるなぁ。
集めたみかんを手に立ち上がると腰が曲がったお婆さんが近寄ってきた。どうやらこのヒトの落とし物らしい。
「ありがとう。ありがとうね」
「いえ、お構いなく」
渡したみかんを買い物袋に入れたお婆さんは礼を述べると再び歩き始める。
しかしその足取りはどうにも覚束ない。手にしている買い物袋の中身が結構重いのかな。
そう言えばこの坂の先には信号があり、長さに対して信号が青の時間が短かったはずだ。お婆さんの足では渡り切れないかも知れない。
「あの、えっと。よければ荷物をお持ちします、けど」
「えっ?良いのかい?」
「いやその。お邪魔でなければですけど」
「そんなことないよ。その厚意、有難く甘えさせてもらおうかね」
柄にも無く他人に気を遣うなんてお節介か。そう思ったけどお婆さんは嬉しそうに喜んでくれた。そう言ってくれると声をかけて良かったと思えるよね。
お婆さんから買い物袋を受け取った私は一緒に坂を上がり信号を渡る。お婆さんの歩みに合わせて歩いていると、停止している車の運転手の視線と目があった。微笑ましく見守るような温かい視線。何だか少し恥ずかしい。
「お嬢さんはこの辺りに住んでいるのかい?」
「はい。ここから少し歩いたところに住んでいます」
「ほー。その髪は染めているのかい?そういうのは髪が痛むからやめておきなさいよ」
「これ地毛なんです」
「外人さんなのかい」
「純日本人です」
他愛のない話をしているとあっという間にスーパーに着いてしまった。お婆さんは既に買い物は済ませていてこれから家に帰るらしいのでここでお別れということになる。
「ありがとうね、親切なお嬢さん」
「気を付けて帰って下さいね」
去り行くお婆さんを見送った私は早速目当てのものを買う為にスーパーに入る。手早く済ませて早く家に戻らないといけないからね。
しかし残念ながら今日は順調に事が運ばない一日となってしまう。
「まさか1つ残らず売り切れだなんて。まだ午前中なのに」
商品が一つも置かれていない棚を見て私は愕然としていた。
どうやら今日は特売日だったようで、情報通の地元の方々が買い占めてしまったらしい。私の油揚げは一体何処に。
まぁ、無いものは仕方がない。少し遠くなるけど別のお店で探せば良いだけのこと。私は急なトラブルにも臨機応変に対応できる男なのだ。
更に足を伸ばして別のお店に向かう。ここの品物は先に行ったスーパーより少し高値だけど良いものを揃えていて味が良いのが特徴だ。
売場の配置は把握している。迷わず油揚げがある場所に向かうと、陳列棚の一角だけ綺麗さっぱり商品がない。
「どうしてお豆腐も厚揚げもあるのに油揚げだけないんだ」
流石にここまで買い物に苦戦した経験はないぞ。頬を流れるこの汗は暑さによるものか。それとも不測の事態に焦る冷汗か。
他のお店を探すこと自体は構わない。問題は次に行くスーパーは家からそれなりに離れてしまうため、カフェの開店時間に間に合うか微妙ということだ。
「一先ずママに連絡しないと。ってあれ?」
ポケットを探るがスマホがない。買い物袋をひっくり返すがここにもない。
そういえば朝ご飯のときにテーブルに置いてからスマホを触った記憶がない。十中八九リビングに置き去りにされているだろう。雪上加霜とはこのことか。
「家に戻ると絶対に間に合わないし。行ってみるしかないか」
買えなかったからと言って開店ができなくなるほど深刻なものではないし、そのくらいで怒るママではない。でも頼み事を引き受けた以上はできる手は打たないと。
ふと空を見上げると夏の日差しが目を眩ませる。汗のせいで服や髪が肌に貼り付いて鬱陶しい。やっぱり前に散髪したとき短くするべきだったんだよ。
道すがらにある自動販売機に視線が移る。いつものように水筒も持ち歩いていないからとても魅力的に見えるが、お使いのお金を使ってしまうのは本末転倒だ。惜しいけど家に帰って飲む冷たい麦茶を楽しみにしよう。
「ふぅ、やれやれ。年寄りには堪えるねぇ」
流れる汗を拭っていると空からヒトの声が聞こえた。見上げるとすぐ隣にある歩道橋を上がるご老人がいた。
偶然行く方向が同じだから後を追うように階段を登る。ご老人は重そうな荷物を持ち、手すりを掴んだまま立ち止まっている。
と言うかあのヒト。さっきみかんを落としたお婆さんだ。あの買い物袋には見覚えがあるし。
歩道橋の階段は私には大した苦ではないけれど、お婆さんにはこれを登るのは大変だと思う。結構な重さの荷物も持っているし。
しかし私もさっきとは違って他人に構っている暇はない。買い物をして真っ直ぐ帰っても間に合うか分からないんだから。ここは知らないフリをして通り過ぎた方が良いかもしれない。
「あの、大丈夫ですか?」
「君はさっきの。えっと確か」
「私は詩音って言います」
気付いたときには無意識のうちに手を差し出していた。お婆さんも驚いたように目を丸くするが、私を見て直ぐに誰だか分かったみたい。一度会うだけで顔を覚えてもらえるのはこの姿の数少ない長所かもね。
「ありがとうよ。今どきこんな老ぼれに手を貸してくれる子がいるなんてね」
荷物を受け取り一先ず階段を上り切る。本当はお婆さんを背負って運べると格好良かったけど、この体だとおんぶした途端に潰れる姿が目に見える。
精々転ばないように支えるくらいのことしかできないのが惜しいなぁ。
「ここはさっき会ったところからだいぶ離れているが用事の方は済んだのかい?」
「うっ、まぁその、もうそろそろ終わりますよ」
「お前さん。嘘が下手だね」
「あうぅ」
気を遣わせないように取り繕っただけにその全てを見透かされて凄く恥ずかしい。歩道橋を渡り切る短い時間の間に暑さと羞恥の熱でのぼせそうになったよ。
「何度も助けてくれてありがとう。お礼に何かしてやりたいんだが」
「いいえ、大丈夫ですよ」
「他人の厚意は遠慮せず受け取るものだよ。まぁ、今はこんなものしかないのだけどね」
そう言ってお婆さんが袋から取り出したのはある意味で私がいま最も欲しているもの。即ち油揚げだった。
「安く売っているのを見つけてね。思わず買い込んでしまったのさ。沢山あるから貰っておくれ」
「わぁ、ありがとうございます」
「油揚げは好きかい?」
「はい。普段からよく食べます」
「それは良かった」
味噌汁や煮物は勿論。どんな料理に入れても美味しさを引き出してくれるこれは実に優秀な食材である。原料は大豆だからカロリーを気にするヒトにもおすすめなのだ。
「お前さん急いでいるんだろう。ここまで来れば私は大丈夫だから早く帰りな」
「はっ、そうだお店!えっと、私はLesezeichenというカフェで働いているんです。よければいつか遊びに来て下さいね」
「ほー。それなら孫を連れて今度行かせてもらうとするよ」
「はい。お待ちしています。油揚げありがとうございました」
私は頭を下げて家路に着くと、お婆さんは姿が見えなくなるそのときまで手を振って見送りをしてくれた。苦労したけれど良い出会いがあったことは素直に喜ぶとしよう。
余談だけど油揚げは夕食のおかずを少し豪華にするために使われた。苦労して手に入れたからか、いつもと変わらないものを使った筈なのに今日の煮物は美味しく感じました。
母「1日で2回も同じヒトを助けるなんて凄い偶然ね」
琴「昔の詩音なら絶対そんな行動はしなかったわね」
詩「うるさいな」
琴「照れないでよ。褒めているんだから」
愛「しー姉ぇは生きている間に一体どれだけの徳を積むつもりなの」
父「いや、もう既に仏の域に達しているな」
愛「そのうち新しい宗教が生まれるかも知れない」
琴「ヒトはそれをファンクラブと言うのよ」
詩「そんなの絶対に認めない」




