EP-74 枷を外せ
夏の暑さに連日悩まされていた私はある決意を固めた。
家族には絶対に言えないため1人でこっそり家を抜ける。少ない荷物に帽子を携え向かったのは美容院。ここでやることといえばただ一つ。散髪である。
そもそもどうして暑いのが苦手なのか。理由を考えた結果、私はこの長い髪が原因だと思うに至った。
性別が変わったときから腰まで届く長髪だったけど、別に短髪にしてはいけないことはない。洗うのも結構大変だし。私が良ければ誰に咎められる筋合もない。
とは言えそんなことを家族に話すと猛反対されることは目に見えている。だから黙って家を出たのだ。
「お、大きい」
琴姉ぇに教えてもらった行きつけの美容院に着いたものの、そこはまるで別世界だった。
広くて明るい空間は私がよく利用していた近所の床屋の何倍もある。並んだ椅子の前にある大きな鏡が更にそう見せているのだろう。
順番待ちをするスペースにもソファが並んでいて、沢山の雑誌を読めるようになっている。観葉植物も置かれているので、ストレスなく待つことができるように工夫されている。
外装は外から中の様子が見えるように一部がお店のロゴが入ったガラス張りになっていて、彩り豊かなボトルや小瓶が飾られていて華やかなインテリアになっている。
お店のヒトがプライベートの旅行で買ったような統一感のない置物とか一切ない。未だかつて踏み込んだことがない未知の世界だ。
「よし。い、いくぞ」
お店の前で右往左往すること20分。覚悟を決めて美容院の扉を開けると、ドアベルが軽快な音色を奏でた。
「お邪魔します」
「いらっしゃいませー。少々お待ち下さい」
手を動かしながら私の姿を見た店員さん。私の特異な容姿に他のお客さんが驚く中、一瞬固まるものの直ぐに営業スマイルの華を咲かせて順番待ちのソファで待機するように促した。さすがプロだ。
邪魔にならないようにできるだけ端に座りスマホを構える。順番が来るまで小説でも読んで時間を潰そう。
「お待たせしました言ノ葉様。こちらへどうぞ」
「わふっ!はい」
緊張して変な声が出たが美容師さん?は気にする素振りもなく空いた席に案内してくれた。促されるままに椅子に座り、右から尻尾をまわして太腿の上に置く。
「本日はどのような感じにしますか?」
「あの、その。思いっきり短くして下さい!」
「分かりました。ではまず髪を洗いますね」
「あっ、耳の穴には水を入れないで下さい」
「えっ」
ふっふっふ。とうとう言ってやった。これで煩わしい長髪からお別れだ。もうあっという間にシャンプーが無くなる悩みから解放されるぞ。
「どうやって耳を避ければ良いのかしら」
「泡立てたもので撫でるようにして、シャワーは角度を気を付けるしかないかと」
「いっそのこと耳栓をして頂くのはどうですか?」
「獣耳に合う耳栓なんて持ってないわよ」
「泡を洗い残しそうだな。最後に蒸しタオルで丁寧に拭いてあげよう」
恐る恐る髪に触り、試行錯誤しながら洗っているのが指から伝わる。
ちなみに私は耳の近くを洗うときは前屈みになった状態で耳の後ろからシャワーの水を当てて、流れ落ちる水で泡を洗い流しているよ。その後に長い後髪とか他の箇所を洗うんだ。
「言ノ葉さん。そんなに力まなくても大丈夫ですよ」
「はひっ」
仰向けに寝かされて髪を洗い始めた美容師さんに指摘される。そう言われて初めて脇を強く閉じて両手で尻尾を握り締めていることに気付く。
ゆっくりと身体の力を抜くものの、耳の先に冷たい水が当たる度に要らない力が全身に入ってしまう。自分でやるときは何ともないのに、誰かにやってもらうのはこんなにも過敏に反応してしまうものなんだね。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「言ノ葉さん、言ノ葉さん」
「すやぁ」
「もう終わりましたよ。起きて下さい」
「わふ」
いつの間に眠ってしまったのか。何度か肩を叩かれてその事実に気付いた私は慌てて意識を浮上させる。髪を洗ってもらいカットが始まったところまでは覚えているけど、それ以降の記憶が綺麗に抜け落ちている。
丁寧に髪を触られるのが気持ち良かったのか。緊張が和らいで気が抜けたのか。いずれにせよ他所のヒトの目がある場所で醜態を晒したことに顔が熱くなる。
しかし過ぎたことを気にしても仕方がない。たいせつなのは鬱陶しい髪がなくなりすっきりしたかどうかだ。
自信と達成感から笑顔を見せる美容師さんから手鏡を貰う。果たしてどのような仕上がりになったのだろう。
「思い切って毛先を2センチもカットしましたよ!」
「いやそれ全然変わってない!」
「そんなっ!?」
自信と達成感に溢れた笑顔から一転、雷が落ちたような衝撃を受けたと言わんばかりに驚いた美容師さん。あまりのショックに数歩後退して膝を付いた。
確かに男のときなら2センチはかなり頭がすっきりしてしまうことだろう。しかし今の私が持つこのもふもふは尻尾の付け根に当たるくらい長い。その程度では毛先のお手入れくらいにしかならないのだ。
心機一転で短髪にしたかった私の望みは叶っていないと言わざるを得ない。
「これほど滑らかで艶のある髪質。美容師歴10年の私が出会った中でも群を抜いて良質なこの素材を、私が持つ全ての技術を総動員して仕上げた傑作だというのに。教えて頂戴。一体何が駄目だったの?」
「短くしてくださいと言ったと思うのですが」
「毛先2センチでもまだ足りないというの!?」
あれ、私の感覚では短髪と言えば首の後ろが見えるか、肩よりも高い位置で切り揃えるくらいだと思っていたけれど。
もしかすると長髪の女性でも毛先を2センチ切るというのは思いっきり」の部類に入っているのだろうか。
そう言われると確かに私も「首の後ろが見えるくらい」のように具体的な指定はしていなかった。ヒトが持つ感性の差って怖いね。
これは私が悪かったことだけど、要望が通っていないのは事実だ。ここは改めて正確に伝えないといけない。
「男のヒトみたいに短いやつが良かったです」
「ベリーショートですって!?髪は女の子の命。それもあなたの髪はさらさらでふわふわでグラデーションが美しい。国宝と言っても過言ではないわ」
「過言です」
「いや待って。美しいからと言ってそれを残す前提の考え方はもう前時代的発想。固定概念という枷を外し、内に秘める輝きを解き放つことこそ真の美しさ。そう言うことなのね」
「違うと思います」
「今ある魅力の全てを放棄しても新しい自分の美しさを求めることを厭わないなんて。ごめんなさい言ノ葉詩音さん。あなたは私達が思っていたより遥かに美しい女の子だったわ」
「嬉しくない。全然嬉しくない」
鬱陶しくて要らないものを切り捨てに来ただけなのに、前向きに拡大解釈されても困る。
ただありがたいのは短く切ることに賛同を得られたことだ。このまま行けば今度こそ私の要望を叶えてくれるはずだ。
「でもごめんなさい。短くするのはNGだと強く言われていて無理なの」
「何故です!?」
「だって私がそうお願いしたもの」
そのとき私は背筋が凍るような感覚を覚えた。声がした方向を見ると、私の隣に座っていたお客さんが雑誌を開いて隠していた顔を見せる。
「こ、琴姉ぇ。どうしてここに」
「誰があなたにこの美容院を紹介したと思っているのよ。それにあなた、来る前に予約していなかったでしょう」
「予約?」
「近所の床屋と違って、こういう場所は事前に予約が必要なのよ。特に初めて来たなら名前とか連絡先とか、髪の悩みとか色々と書かされたりするんだから」
「そんなの知らない」
「だと思って一足先に来て準備は済ませてあげたわよ。ちなみに詩音が店の前で入るか悩んでいたところまでしっかり見させてもらったわ」
そう言って琴姉ぇが見せたスマホの画面には外から店内の様子を伺う私の写真がしっかり納められていた。穴があったら入りたい。
「あとほら、さっきの寝顔もちゃんと撮ってあげたわよ」
「やめてぇ」
これみよがしに私の醜態を晒す琴姉ぇ。対して私は真っ赤になった顔を尻尾に埋めて隠すことしかできない。
姉に勝る弟はいない。この日ほどそれを強く感じたことはなかった。
琴「もしも短く切った場合は銀髪の部分しか残らないわね。その場合は元の長さに戻るまで瑠璃色にはならないのかしら」
詩「どうかな。短くするとそこでまた毛先だけすぐに色が着くのかも」
琴「それは常識的に考えてあり得ないわよ」
詩「常識が通用するなら耳と尻尾は生えていないんだよ」
琴「た、確かに」
詩「これは実際に切って確かめてみる必要があるね。自分の身体のことだしちゃんと調べないといけないと思うな」
琴「そう言っても駄目なものは駄目!詩音は絶対に髪が長い方が可愛いもん!」
詩「固定概念という枷がなんたらかんたらだよ」
琴「この子、自分に都合が良いことだけ覚えて。もう!」




