EP-61 桜里浜のシャチ
梅雨がもたらした湿気に夏の日差しが加わり、日本特有の蒸暑い夏が訪れるこの頃。連日の茹だるような暑さに苦しめられるのとは別に、私はこれまた厄介な悩みを抱えていた。
「来週から体育の授業では水泳を行う。皆、準備を怠らないように気を付けろよ」
今日の体育にて先生が言った言葉を思い出す。他の陸上競技には無い感情の変化を覚えるのは私だけでは無いと思う。
水泳能力に関しては私は可もなく不可もないといったところだ。特に早く泳げる訳ではないけど溺れることもない。水に対する苦手意識みたいなものも全くない。
しかしそれは男のときの話だ。性別が変わった後に泳いだことはないし、体格がまるで違うこの体で泳げる自身はあまりない。
でも皆んなの前で醜態を晒すのは御免だ。できることなら格好良く泳いで皆んなを驚かせてやりたい。できないならせめて溺れないように最低限の水泳能力を身に付けたい。
ということで授業の前に練習をしたいところだけど、我が家にはこういった事に関するプロフェッショナルがいる。いちいち騒がしいのが難点だけどその実力は本物なのだ。
「愛音、いま大丈夫?」
「はいはーい。どうぞー」
部屋をノックしてから入ると両手を上げて訪問を歓迎する愛音。でもベッドの上にいくつもの漫画本が転がっている。さっきまで横になりながら読み漁っていたな。だらしない奴め。
「しー姉ぇから会いに来てくれるなんて珍しいね。どうかしたの?」
「ん、実はさ。今度時間があるときに泳ぎを教えて欲しくて」
「ほう、ほうほうほう!遂にこの季節が来ましたか。このテコ入れ、私が神回にしてやろうじゃないの!」
「てこいれ?」
何故か私を置いて一人で話しは勝手に盛り上がっている愛音。よく分からないけど了承してくれたのなら何でも良いか。
「しー姉ぇの水着、きっと何を着ても似合うよね。ぐふ、ぐふふ」
「女子中学生とは思えない笑い方はやめなさい」
「それじゃあ早速買いに行こう。琴姉ぇを呼んで来るから待ってて」
「でも授業は来週からだから間に合わないよ」
「ぎゃーす!」
意気揚々と部屋を出た途端に膝から崩れ落ちる愛音。一応学校が指定している水着があるから授業を受けるには問題ない。
ただし、猩々先生からはどういう理由があろうと女性用の水着を着用するように釘を刺されている。決して好き好んで着たい訳ではないけれど、痴女だと思われるのは絶対に嫌だ。私は健全な狼なのだよ。
「仕方ない。新しい水着ショッピングというイベントは夏休みにとっておくとして、明日は泳ぐ練習だけにしよう。震えて待つが良い!」
「誰に向かって話しかけているのさ」
虚空を指差して宣言する愛音が心配になる。最近部活もシーズンを迎えて多忙みたいだから疲れているのかもしれない。
頼み事をした手前あまり迷惑をかけないようにしないとね。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
泳ぎ方をご教授して欲しいと頼んでいながら、私は1つ失念していた。それはこの姿でプールや海に出かけること。知らないヒトが大勢いる場所に行き他人の目を気にせず泳ぐ度胸なんて私にはない。
「分かってる分かってる。可愛いしーねぇを有象無象の群衆に晒そうものなら、あまりの眩しさに皆んなの目が潰れて失明するからね。ちゃんと考えているから任せて」
「何それ怖い」
そういうことで行き先は愛音に一任したところ、案内されたのは私の母校にして彼女が通学している中学。桜里浜中学校だった。
「懐かしいわね。卒業してから来なかったらから、中に入るのは3年ぶりくらいかしら」
「私はまだ懐かしいって感じはしないな」
「2人ともこっちこっち。先生から許可は得ているから臆せず行こー」
鍵を貰いに職員室に向かう愛音の後をついて行く。この姿になったときに多くの迷惑をかけたのにまだ挨拶に来れていなかったから丁度良かった。
「詩音君。聞いてはいたけど随分と雰囲気が変わったねぇ。勿論、良い方向にね」
「その節はご迷惑をおかけしました」
「気にしなくて良いよ。今を楽しく過ごせているのならそれで良い」
「先生早く行きましょうよー。監督者がいないとプールは使えないんですからー」
「「生意気な妹でごめんなさい」」
「うん、まぁうん。2人が気にすることではないよ」
久しぶりに先生と会話しながら学校プールへと向かう。私の担任であった先生だけど実は水泳部の顧問でもあり、部長である愛音とは生徒の中でもかなり親しい相手らしい。
「いま思うと私は言ノ葉家と相当長い付き合いになるね。琴音さんの担任もしていたし」
「進路についてよく相談させて頂きましたね。本当にありがとうございました」
「進路指導の担当教論よりも相談されたっけ。頼りにしてくれて嬉しかったなぁ」
「それにしてもどうして今日はプールを貸切りで用意してくれたんですか?もしかして私のせいだったり」
「いいや。元々今日は部活も休みで空いていたから問題ないよ」
このとき先生は何も言わなかったけれど、プールの使用許可を取るときに愛音はある条件を提示したという。
それは今年参加する大会の全てにおいて出場する種目の記録を更新して勝利するというもの。後にそれを有言実行した彼女に脱帽したと先生は語る。
「ねぇ愛音。どうしてサングラスなんてかけているの?」
「今のしー姉ぇを直視したら目をやられるから」
「私は太陽か」
学校指定の水着とは言え私が着ているものはセパレートになっていて、肘や膝が見えるくらいの袖とズボンがある。他人の視線も無いからあまり恥ずかしいとかは無い。
ちなみに琴姉ぇにサングラスを奪われて仰け反る愛音はプロも着るような競泳水着。美しい放物線を描いてサングラスを投げ捨てた琴姉ぇは長年愛用している私物の水着だ。
準備運動をしていざ入水。夏とはいえ冷たい水に思わず足を引っ込めてしまう。気を取り直してもう一度。今度は目を閉じて飛び込むようにして入る
「ふひゃあ」
「その思いきり良いね。それじゃあ私も」
スタート台に乗った愛音は騒がしい普段の様子とは裏腹にとても綺麗なフォームで飛び込む。太陽の日差しに照らされたその姿は妹ながらとても美しい。
「良いよ良いよ。ちゃんと浮いているし息継ぎもできてる。もうちょいお腹に力を入れて」
「はひぃ」
プールサイドに足だけを入れている琴姉ぇに見守られながら、愛音に手を引いてもらう。水に対して抵抗はないけれど、バタ足と息継ぎに必死で周りの音はほとんど聞こえない。
それからしばらく練習を続けて体の動かし方に慣れたお陰で、どうにか泳げるようになった。男のときと比較して速く泳げないけれど、不思議と浮力があり長い時間安定して泳げる。
水泳というよりは遊泳という感じかな。学校の授業を受けるぶんには特に問題ないはずだ。
「しー姉ぇ、何なら前より泳ぐの上手くなっているよ。今日一日でバタフライ以外はマスターしてるって」
「背泳ぎとかは前から一応泳げたからね。上手くなったのは愛音の教え方が上手だからだよ」
「ふへっ、そんな急に褒めるなんて。調子狂っちゃうな」
「本当のことだよ。ありがとう、愛音」
「んんぅ!その笑顔は反則だよー!」
熱中症かと見紛う程に顔を真っ赤に染める愛音。ゴーグルを装着して水に潜るなり壁を蹴ると猛烈な勢いでプールを往復し始めた。
なんだあの人間離れした速さと体力。愛音がシャチなら私はクラゲだよ。
「さすが愛音。これが水泳部部長の実力なんだね」
「たった1人でプールの水面をうねらせることができる者が部長になるならこの世界は超人に溢れていることでしょうね」
そろそろプールの水面が津波と化してきたので、私と琴姉ぇはそっとプールサイドを離れる。まるで大海原のような荒波。どれだけ練習してもこのプールで生還するのは私には無理だと思う。
母校の水泳部はこんな大変な環境で練習していたなんて私は知らなかった。この夏は是非とも大会で良い結果を残して欲しい。
愛「ふー、久しぶりに思いっきり泳いだ」
詩「お疲れ様」
琴「あれだけの勢い良く泳げるなら、そのうち滝を登れるようになるかもね」
詩「まさに鯉の滝登りだね」
愛「さすがにそれは無理だよー。手を使わずにプールから出られるようにはなったけど」
詩「すごーい。イルカみたい」
琴「この水深の浅さではイルカでも無理だと思うわ」




