EP-54 小さな常連客
「Lesezeichen」にてお客様が最も混むピークが過ぎた後、片付けを手早く終えたところで始まるのが私の料理の練習時間が訪れる。
正確にはお客様が空いていて私のやる気があればいつでも良いんだけどね。今日はたまたまこの時間に練習をしている。
「ベシャメルソースがベチャベチャソースになったわね」
「あうぅ」
苦笑いするママが覗く鍋の中には牛乳の分量が多過ぎて、ソースになりきれなかった何ものでも無い何か。これに小麦粉を足したとしてもダマができるのは必至。私は既に詰んでいるのだ。
「最初はそんなものよ。失敗の理由は分かっているんだから次から気を付ければ良いの。気持ちを切り替えてね」
頭を撫でられてながら片付けをしていたそのとき、ドアベルが軽快に鳴る。この時間に来店とは珍しい。どんなヒトなのかと迎えると、そこにはとても可愛いお客様がいた。
「しおんねーね!」
「久しぶり、乃亜ちゃん。元気にしてた?」
「うん!」
一直線に走るノアちゃんを受け止める。加減を知らない突進は小さくてもそれなりに強い衝撃を与える。
この子の本名は海月乃亜ちゃん。私の性別と見た目が変わった後、入院していた病院で知り合った女の子で、母親曰くかなりの人見知りらしい。何故か私に対してだけ凄く懐いているけれど。
我が子の暴走に同伴している母親が謝ってくれたけど、本当に気にしていないから大丈夫だ。純粋な好意を向けられて悪い気分になるヒトはいないよ。
「いらっしゃいませ。病院以来ですね。あの後ノアちゃんの体調は?」
「見ての通り元気が有り余っています」
「ねーね、抱っこしてー」
「良いよー」
母親同士が挨拶を交わす中、私はノアちゃんの相手をする。小さい女の子とは言え成長期真っ盛り。結構重たいけどノアちゃんには格好悪いところを見せたくない。内心では結構頑張りながらお姫様抱っこをする。
その間、2人の母の会話を聞いてあの後の出来事を把握した。
まずノアちゃんは無事に退院をして、その後すぐに私のところに遊びに行きたいと駄々をこねたらしい。お互いの住所は聞いていなかったけど、何せ相手はやたらと注目を集める獣耳である。調べれば分かるかもしれないと思ったそうだ。
しかし期待とは裏腹に驚くほど目撃情報が出なかったとか。それでも諦めきれないノアちゃんは連日母親に調べるように頼んだという。
するとある日、あっさりと住所を特定することができた。と言うのもその日は私がレーゼの手伝いを始めた日であり、調子に乗ったママがホームページに営業再開のお知らせと共に私の写真を載せていたのである。
いやちょっと待て。ここのホームページがあるなんて私は聞いて無いぞ。そして私の写真が載っているってなんだ。そんなこと一度も許可した覚えは無い。
「ノアちゃん、ちょっとごめんね」
「きゃー」
はしゃぐノアちゃんの傍らでスマホで調べてみると一発で検索できた。店舗情報の記載の他に定期的にブログを書くことができるようになっていて、今も週1回くらいの頻度で更新されている。
上げられた写真は絶妙に顔こそ写っていないが特徴的な髪や尻尾の先、頭に生えた動物の耳が映り込んでいる。
「ママこれどういうことなの!」
「やばっ、遂にバレた」
「こういうのは期間限定の商品の写真とかを載せて宣伝しないと駄目だからね」
「そっち!?あっ、うんそうね。次から気を付けるわ」
ここは飲食店なんだから従業員より食べ物の宣伝をしないと意味がない。商売っ気が無いとはいえやるからにはちゃんとして欲しいものだ。
話が脱線したけれど、要はノアちゃんの母親はママが更新していたレーゼのブログから私の所在を掴むことができた。しかしここでもう一つの懸念事項があった。
ノアちゃんの両親は共働きなのだ。特に父親は単身赴任で中々会えず、仕事に育児と母親は多忙な日々を過ごしている。最近になってようやく休みを取れて2人で来ることができたそうだ。
「あらあら、そんなに忙しいの私には無理ねぇ」
「しばらくはゆっくりできるのですが夏にはまた色々とありそうで」
「そんなに根を詰めては駄目よ。私達だって愚痴を聞いたりちょっとした手伝いくらいならできるから。遠慮しないで頼ってね」
「ありがとうございます」
さり気なく私も協力することになっている。普段なら文句の一つでも言うところだが、それでノアちゃんが喜んでくれるのなら是非とも協力させて欲しいくらいだ。
「しおんねーね、お歌うたってー」
「歌かぁ。良いけど何を?」
「んっとねー」
少し考える素ぶりをしたノアちゃんは私から少し離れてその場で歌い始めた。辿々しい歌声とダンスは見ていて癒される。
「あっ、もしかしてウルピュア?」
「いえす!」
ウルピュアとは日曜日の朝に放送している魔法少女が活躍するアニメで、特に女児に人気が高い。その一方で何シリーズも制作されていて、愛音が子どもの頃にも似たものが放送されていた記憶がある。大人世代にも根強いファンがいるのではないだろうか。
ノアちゃんが披露したのは最新シリーズのオープニング曲である。私も何となくテレビを付けたときに見たことがあるから少しは分かるぞ。
でも伴奏無しを披露する勇気はないからピアノを弾きながらやろう。これなら音を外したり歌詞を間違えても勢いで誤魔化せると思う。ノアちゃんが楽しんでくれるなら手段は選ばないぞ。
「ノア!?詩音さんに演奏をリクエストするなんて図々しいわよ!」
「まぁまぁ。詩音もノリノリだから気にしなくて良いですよ」
「すみません。ウチの子がすみません!」
歌手ノアちゃん、伴奏兼コーラス私で急遽行われるコンサートは言い出した本人が満足するまで行われた。
ちらほらといた他のお客様も始めは驚いた様子だったけど、曲が終わるときには温かい拍手を送ってくれた。優しいお客様で良かったねノアちゃん。
「ありがとうねーね。すごく楽しかったよ!」
「良かったね。またいつでも遊びに来たね」
「ノアもねーねみたいにそれやりたい」
「私で良ければいつでも教えてあげるよ」
「やったぁ!約束だよ」
どうやらノアちゃんはピアノにも興味を持った様子。ピアノは良いぞ。これを機会に是非とも同志になろうじゃないか。
ひとしきりはしゃいだ後、空腹を無言で訴えるノアちゃんにママがクリームシチューを振舞った。もしかして私が盛大に失敗したベシャメルソースを再利用したのか。これがプロの技なんだね。
「これおいしい!」
「実はそれ詩音ねーねが作ったんだよー」
「誇張するにも程がある」
「ノアこれ大好き!」
口の周りを白くしながら一生懸命スプーンを運ぶノアちゃん。そんな可愛い姿に自然と笑顔にならながら、私は綺麗に拭ってやるのだった。
乃亜「ごちそうさまでした」
母「はーい。お粗末さまでした」
乃亜母「凄いです。ノアは人参もブロッコリーもグリーンピースも嫌いなのに残さず全部食べてます」
乃亜「ねーねのシチューだいすき!」
詩「いやそれは私が作ったやつでは」
乃亜「またつくってくれる?」
詩「むぎゅう」
母「あらあら、ふふっ」




