EP-5 姉妹
こうして母さんと顔を合わせて話をしたのはいつ以来だろう。すれ違い続けていつの間にか凍りついた胸の内が少しずつだけど溶けていくような気がする。
そうか。何も難しいことは無かったんだ。迷惑をかけてごめんなさい。心配してくれてありがとう。その二つをただ伝えるだけで良かったんだ。
「あらシオン。あの二人もお見舞いに来るって」
ふとスマホを確認したお母さんがそう言った。それと同じタイミングで病室の外が騒がしくなる。
一体どこの誰だ。病院の中を走るマナーの悪い人は。
なんて思っていると病室の扉が勢い良く開け放たれる。
「お母さん、お兄ちゃんは!?」
「愛音!」
思わず入って来た人物の名前を呼ぶと、彼女は俺に視線を向ける。目が見開いていてなんか怖い。
彼女の名前は言ノ葉愛音。俺より一つ年下の妹で来年度は中学三年生になる。
セミロングの黒髪をまとめて小さなツインテールにしているけど、あれってわざわざ結ぶ意味があるのだろうか。確かに可愛いとは思うけど。
「お母さん。そこにいるアニメの世界から飛び出したような超絶美少女はもしかして」
「えぇ、紫音よ」
「ええぇ〜〜〜!!」
相変わらずうるさい奴だな!頭の奥まで声が響いたよ。まさか騒音の元凶が身内だったなんて。いや、薄々分かっていた気もするけどさ。
俺は咄嗟に耳を押さえる。あっ、ここじゃ無い。頭の上だった。
「琴姉ぇ!早く、早く来て!」
「ちょっと愛音。廊下の端まで声が響いているわよ、ってあら?」
愛音に急かされて後を追って来たのは琴姉ぇこと、言ノ葉琴音。愛音と俺の姉であり、来年度より美術大学に進学する予定だ。
愛音と似た顔立ちをしているけど、やかましい妹とは違い落ち着きがある。血が繋がっているとは思えないほど性格が違う姉妹だ。
腰に届きそうなほど長い黒髪は艶のある綺麗なストレートで、まさに大和撫子を代表するような人である。
「可愛い」
「でしょ!」
驚いた様子で口元を手で隠しつつ、自然と口に出た感想に愛音が同意する。
でもその感想は弟に対して言っても全く嬉しく無いから。
「本当に紫音なの?」
「たぶん。正直俺も自信は無いんだけど」
琴姉ぇは半信半疑といった様子で俺の姿をまじまじと見つめる。足は布団に隠れて見えないけど、尻尾の先から頭の耳まで。視線が何度も何度も往復する。
「ねぇ、いくつか質問しても良い?」
「うん」
質問、そうだ。本人確認をするのなら俺、というより言ノ葉紫音が知っていることを質問してそれに答えられるか調べれば良い。
答えられるのなら一先ず信用してもらえるはず。でももしも答えられなかった場合、俺は家族として認められない。
心臓の鼓動は早まるのを否が応にも感じる。
「まず自分の誕生日を言ってみて」
「えっと、8月13日の15歳」
「私達のは?」
「琴姉ぇは12月6日で18歳。愛音は9月6日で14歳」
「お母さんは?」
「6月9日。永遠の20歳」
年齢を言う直前に病室の気温が氷点下になった気がした。
樹の枝を残して葉が枯れ果てていることから分かるようにまだ春は訪れていない。だから部屋は暖房を付けているはずなのに。
「最後に家族旅行に行ったのはいつ?」
「四年前かな。お母さんが温泉に行きたいって言い出して、皆んな賛成するなかで俺だけ断った。そのままベッドに寝たはずなのに起きると電車に乗っていて怖かった」
丁度性格が捩れて反抗期真盛りの頃だ。目が覚めると荷造りされた荷物を抱えて座席に座っていたのである。
あのとき俺はいつ着替えさせられたのだろうか。そしてどうやって改札を通過したのだろうか。知りたいけど知りたくない。
「私が小6のときの誕生日に何をくれたか覚えてる?」
「近所の画材店にある100色色鉛筆セット。愛音とお小遣いを出し合って買ったけど、飾られていたサンプルを落としてお店の床に色鉛筆をばら撒いた」
あのとき愛音に色鉛筆を拾いを手伝ってもらった記憶は今でも忘れない。騒ぎを聞いて駆けつけて一緒に拾ってくれた店員さんの微笑ましいもの見たような顔もね。
これは本当に黒歴史だ。こんな事にならなければ墓場まで持っていくつもりの秘密である。
「間違い無い。やっぱり本物のしー兄ぃだよ」
「そうみたいね。誕生日会のときに紫音が席を外したタイミングで愛音が言っていた事と全く同じだわ」
「あいねぇ!?言わないでって言ったのに!」
まさか人生に黒歴史を刻んだその日のうちには暴露されていたなんて。口止め料として帰りにコンビニで月見だいふくという名前のアイスを買ってあげたのに。
「大丈夫だよしー兄ぃ。お陰でしー兄ぃは間違い無くしー兄ぃで、今はしー姉ぇになったことがよく分かったからね!」
「嬉しくない。嬉しいけど嬉しくない」
「過ぎたことを気にしないの。お見舞いに色々と飲み物を買ってきたから好きなのを選びなさい」
琴姉ぇが持って来た袋には本当に色々な飲み物が入っていた。自動販売機に並んでいるものを片っ端から買ったのではないかと思うくらいはある。
その中で俺が選んだのはコーヒー。缶では無くペットボトルに入ったやつだ。
何せ俺こう見えて無類のコーヒー好き。それも砂糖無しのブラック派だ。苦味の中にある確かな味が好きなのだ。
もしかすると何種類もの飲み物を揃えたのも俺の好物を調べるためかもしれない。
まぁ、俺は紫音だからそうした思惑なんて関係無いけど。でもタダでくれるのなら有難く頂戴する。俺は意気揚々とペットボトルを開ける。
「んっ、うん?」
俺はペットボトルを開ける。
「んー、ちょっとこれ硬いな」
俺はペットボトルを開ける。
「ん〜〜〜〜〜!」
ペットボトルは開かなかった。やれやれ、こういうハズレってたまにあるよね。全く、困ったものだよ。
「ちょっと貸してー」
いちごミルクを飲む愛音にコーヒーを渡す。俺が開けられないものをそんな簡単に開けられる訳がない。
代わりに渡されたいちごミルクを預かると愛音は自然体でキャップ捻る。
ペットボトルは開いた。
「えっ」
「別に硬く無いよ。普通に開くよ」
「そ、そんな筈は」
返されたコーヒーは確かにキャップが開いていて良い香りがする。こいつはそんなに俺のことが嫌いなのか。
別に良いさ。要はコーヒーが飲めるのなら過程なんてどうでも良いのだ。そう自分に言い聞かせてコーヒーを飲む。
「うっ」
えっ、何これ。凄く苦い。奥にある美味しさを感じる前に口の中が苦味に支配される。前のように美味しく飲めない。
とは言え口を付けた以上、誰かにあげる訳にはいかない。捨てるなんて勿体無いこともできない。それに飲み慣れれば前みたいに飲めるようになる筈だ。
そう自分を信じて二口、三口と飲み進める。しかし四口目を前にして俺の手は完全に止まった。
「もしかして苦くて飲めないの?」
「そ、そんなことは」
琴姉ぇの的を射抜いた問いかけに抵抗するが事実なだけに言葉が尻すぼみになる。それが決定的だったのか、母さんが可笑しそうにくすりと笑った。何という屈辱。
「身体が変わったことで味覚も変化したのかもしれないわね」
「私のいちごミルクと交換する?」
「ううぅ」
好物が苦手になることがこんなに辛いとは思わなかった。加えて目の奥が熱くなり視界が霞む。この身体は感情の抑制もままならないらしい。
「うはぁ!涙目美少女可愛い!保護欲が爆発しそう」
「気持ちは分かるけど自重しなさいよ」
「最大限の努力は惜しまない」
俺が欲しいのは明確な了承であって善処する心意気では無いのだけど。
ちなみに交換したいちごミルクはとても美味しかった。前はそんなに甘いものに興味は無かったんだけどな。
「やっぱり女の子は泣いているときより笑顔の方が何倍も可愛いわね!」
紫「くぴくぴ」
愛「私にも一口頂戴」
紫「良いよ」
琴「紫音、それ絶対に他の人にやったら駄目だからね」
紫「なんで?」




