EP-4 母の愛
連日の晴れ間のお陰であの日降っていた雪は町から姿を消した。
病室の窓から見える樹に残る一枚の枯れ葉。あれが散るの同時に俺の命も尽きるのだろうか。
なんてセンチメンタルに感傷に浸ることも無く、俺の体調は快方に向かっていた。
俺が目を覚ましたのは事故から三日経った日のこと。あれから二日間、好きに眠りご飯を食べて体力が戻ると、自力で不自由無く動けるようにまで回復した。
医師曰く、病院に運ばれた俺は酷い様相だったらしい。手を尽くして助けてくれたのだが、所謂植物状態となっていたのだとか。
誰かしら俺の側に居れるようにと家族が交代で看病していたらしいが、交代したところで休める精神状態では無かった。結局、皆んなが時間の許す限り側にいてくれたと言う。
幸い俺は五体満足で復活して生死を彷徨っていたとは思えないほど元気だ。
問題は現在進行形で事故の怪我など可愛く思える深刻な状況に置かれていることか。
母さんが持って来てくれた荷物から折り畳み式の卓上鏡を取り出す。
「誰だこいつ」
現れるのは二日前と同じ少女の顔。以前使ったコンパクトミラーより大きいから髪色のグラデーションまでしっかり見える。
どうにも肩にかかる辺りから銀髪が変化していて、毛先の瑠璃色まで徐々に色が濃くなっているようだ。染めても無いのにどういう原理なんだこれ。
いや、髪の色はこの際どうでも良い。そんな些細な変化よりもっと重要なことがある。そう、性別が変わっていることだ。
「誰だこの子」
大きな翡翠の瞳を瞬きするタイミングが奇しくも俺とシンクロしている。夢落ちとか、一日経過したら元に戻るとか期待もしたけど、三日連続で裏切られればもう認めざるを得ない。
事故に遭った俺は、目を覚ますと少女になっていたのだ。
しかもこの見た目、童顔だからか小学生の高学年くらいにしか見えない。来年度から中学生デビューしますって感じだ。俺は二ヶ月後には高校生になる男なのに。
勿論首から下もしっかり女の子になっていた。汗をかいているから身体を拭くと言われて父さんを病室から追い出した後、母さんと女性看護師数名に病衣を脱がされてしっかりと見られた。
顔から火が出そうなほど恥ずかしいとはあの事を言うのかと実感させられたよ。姿見まで持ち出してくるんだからたまったものじゃない。
否が応でも女の子になったことを自覚させられた地獄の時間だった。
いや、性別もこの際どうでも良い。いやどうでも良くないけども。でもその摩訶不思議な変化よりもっと衝撃的なことが起きているのだ。
俺は鏡の角度を変えて頭部を写す。そこにあるのは俺の感情に呼応して勝手に動く動物の三角耳だ。
「何だこれ」
通称「獣耳」と呼ばれるそれが銀髪を押し退けてさも当然と言わんばかりに鎮座している。代わりに人間の耳は無く、もみあげと後髪で覆われていた。もうこれ人間ですら無いじゃないか。
また、この獣耳によく似合う尻尾もしっかり生えている。頑張って伸ばすと先端が頭頂部に触れるくらい大きな尻尾。これも髪と同じで付け根ば銀色の毛だが毛先にいくほど瑠璃色に変化している。
触り心地はもふもふしていながら滑らか。我ながら触ると結構気持ち良くて、内心気に入っていることがまた悔しい。
ちなみにこれの大半が体毛で本体はさほど大きくない。これは地獄に揉まれている最中に分かったことだ。
でもまぁ、大怪我が治ったことを考えると俺は幸せものなんだろうな。
「紫音、入るわよ」
「んっ」
扉越しにいる母さんにまだ慣れない声で返事をする。母さんは部屋に入り俺の顔を見てすっかり安心したように笑う。
「その様子だと大丈夫そうね。本当に無事で良かった」
「女の子になって耳が生えたことを無事というならその通りだよ」
「あら、私は可愛くなったシオンも好きよ」
母さんの言葉に不満を覚えると近付きがてら頬を摘まれていつの間にか膨らんでいたそれを萎ませられた。
「ふふっ、女の子になったシオンちゃんは随分表情が豊かみたいね」
「そ、そんな訳は」
否定しようとすると今度は尻尾に手を置かれた。どうやら今の今まで左右に元気良く揺れていたらしい。暇を持て余していたところに話し相手に来てくれた嬉しさがそのまま現れていたようだ。
「最もあなたは男の子の頃から分かり易い子だけどね」
「えっ」
「この際だから話すけど、細かい仕草とか見ていると結構分かり易いのよ。無愛想で無表情だからあなたを知らないヒトは誤解してしまいがちだけどね」
まさかの衝撃的な事実に顔が真っ赤になるのが分かる。これが母は強しということか。居た堪れなくなり思わず布団を被る。
「母さんはさ、どうして俺が紫音だって信じられるの?俺自身自分が信じられないのに」
俺の身に起きているのは空想の世界でしか有り得ない超常現象と言っても良い。紫音の面影が全く無いこの姿を見てどうして信じることができるのだろう。
「さっきも言ったけど細かな仕草や癖が瓜二つなのよ。母親を甘く見ないで」
「そうは言ってもさ」
「まぁ、その気持ちは分かるわ。でもあなたが紫音で無いとしても、それはそれで辻褄が合わないこともあるの」
それから母さんが話してくれたのは、俺が目を覚ます前の事だった。事故後の痛々しい俺の姿にまだ気持ちの整理がつかず、連日夜通し看病していた母さん。深夜ということもあり、俺の手を握ったまま疲労に負けて思わず眠ってしまったのだそうだ。
「私が起きたとき、あなたは今の女の子の姿になっていたのだけど、手品や悪戯だとしても有り得ないの。あなたが眠っていた病室はドアが一つあるだけで、他に出入り口は無いから」
実はそのときドアの隔てた廊下には父さんがいたらしい。看病したい気持ちは同じだが、お互いに気持ちの整理をしたくて一人になっていたのだとか。
父さんは複雑に絡まった感情を解き、落ち着くためにドアの前を忙しなく歩いていた。あの夜は俺が目を覚ますまで誰一人として部屋に出入りした者はいないと言う。
部屋に予め仕掛けがあったとしても、母さんは俺の手を握っていた。眠っていたとは言えそれはとても浅いもので、指先一つでも動けば飛び起きていたと断言している。
つまり当時の病室は事実上の密室空間だったという訳だ。
「それに紫音、自分のスマホのパスワードを簡単に解除してみせたじゃない。他人ならそうはできないわよ」
確かに取り急ぎの本人確認の手段としてやらされたな。事故の衝撃で画面が割れてしまったスマホを渡されたから言われた通りパスワードを入力したのだ。
充電の残量に不安があったけど、何とか電源が付いたときは安心した。顔認証は当然ながら反応せず結構落ち込んだけど。
「それに紫音は記憶喪失とかになっているわけでは無いのよね」
「うん、覚えていることに特に違和感は無いよ」
「それなら一緒に暮らしているうちに分かるわよ」
「一応ちゃんとした証明としてDNA鑑定もお願いしているけど、どんな結果が出たとしてもあなたは私達の家族よ」
「どうして?」
「仮にあなたが紫音で無いのなら、身寄りが無いあなたは天涯孤独ということでしょう。そんな子を見捨てるなんてできないわ」
穏やかで優しく笑う母さんはそう言って俺の頭を撫でる。それだけなのに目から次々と涙が溢れて止まらなくなってしまう。この身体は涙腺まで緩いようだ。
母さんは困ったように、それでもどこか嬉しそうに笑うとハンカチを取り出して病院の布団を濡らす俺の目にあてる。そのまま俺が落ち着くまで静かに背中をさすっていた。




