EP-25 激情
狼変化騒動がようやく落ち着いて家に帰って来た私はそれから丸一日を虚無に過ごした。自分でも知らない間に疲れが溜まっていたみたいで何もやる気が起きなかったのだ。
体の変化は竜崎先生の予測通り合計で3日間続いた。完全な狼の姿となった翌日に朝日の日差しと共に半獣モードに戻り、次の日には元の姿に戻ることができた。
因みに半獣モードとは変化初日の手足が動物になった例の姿のことだ。命名は愛音である。
また普段の姿は人型モード。ヒトの体格をした狼の姿は獣人モード。完全な狼の姿は賢狼モードと名付けられた。「賢狼」の名の理由は「なんか格好良いから」らしい。別に良いけどなんだかなぁ。
何はともあれ人型モードに戻ることができた私はその日の午後には退院できた。竜崎先生曰く「体質をよく理解すれば任意で変身できるかもしれない」と言われたけどそれはどうだろうか。
確かに満月になってもヒトの姿を維持できれば良いけれど、自分から狼の姿になることは無いと思うけどな。
「よし!」
しかしいつまでも堕落した日々を過ごしてはいけない。自分に喝を入れると家を後にしてカフェに向かう。
そう、今日はママが経営するカフェ「Lesezeichen」の手伝いをするその初日なのだ。
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支給された制服に袖を通して長い髪をツインテールに纏めてもらう。制服は私の毛先の色に近い深い藍色のエプロンドレスだ。ただし以前とは違い余分な装飾は無く、スカート丈も健全な長さまで伸びている。白のタイツも履いているので露出が気になることも無い。
加えて動きやすくて生地の通気性も程良く快適。お尻に開けられた穴から尻尾を出せば窮屈にもならない。他人の目に晒されると思うとなんだか落ち着かないけどね。
因みにスカートでは無くズボンが良いとママに言ったけど却下された。作り直すときに少し言い争ったんだけど、いい大人に頬を膨らませて両手を振って駄々を捏ねられた。
そんなことされたら私が折れるしか無いじゃないか。
「さて、ホールでやってもらう仕事としては大体このくらいだけど何か質問はある?」
「な、何とか」
「言葉で聞くと難しいけど要は慣れよ。実際に何回かやってみれば大したことないって分かるから」
「でもそれまでに失敗したらどうすれば」
「それをフォローするのが私の役目よ」
接客のやり方を一通り教わり、書いたメモを凝視しながら頭から煙を出す私。改めて聞くと複雑で難しい。
やっぱり今日は研修期間ということにして明日から頑張ろうか。いやでもそうやって逃げ腰になっているといつまでも変わらない。今日が殻を破るその日なのだ。
でも知らないヒトと話すの怖いなぁ。頑張ってお手入れをしている尻尾をみて「気持ち悪い」とか言われたら立ち直れる自信がないよ。
「そうだ詩音。これ表に置く立て看板なんだけどちょっと見て。少しデザインを変えて詩音のことを書き足したの。可愛い看板娘がいますってね」
「お店の売上が落ちる」
「そんなこと無いわよ!?」
看板には獣耳と尻尾を生やした女の子のイラストが描かれている。着ている制服や髪の色からみても間違いなく私だ。このお店は終わりです。
よし、こうなったら毛繕いをしよう。無心でお手入れをしてネガティブな気持ちと緊張を和らげるのだ。我ながら良い考えだ。
「ストレスを感じて毛繕いをするのは猫の習性なんだけどね。そんなに不安なら前みたいにそれを弾いてみたらどう?」
「どれ?」
ママが指で指し示したのはお店の背景の一部と化した電子ピアノだ。修理から戻ってきたから音は鳴るはず。でも鍵盤蓋を開けると私がつけた細かい傷や汚れはそのままになっていた。
きっとパパがあえて残してもらったんだろうな。綺麗な思い出を大切にして欲しいという想いが込められているのが分かる。
「最後にピアノを弾いたのなんて4年以上前だよ」
「身に付けた技術って存外忘れていないものよ。それに私が知る限り、ピアノを弾いているときのあなたは1番輝いていたから」
「うーん、そうかな」
「最盛期よりは腕は落ちているだろうけど気分転換にはなると思うわ。久しぶりに何か聴かせてよ」
何かとはまた随分具体性の無いリクエストだな。さてどうしたものか。
あくまでも気分転換だから難しいものや演奏時間が長い曲は無し。流行りの曲やアニメソングでも良いけどママはあまり詳しく無いと思う。
うん、無難に練習曲をアレンジして弾こう。その名の通り私の練習になるし、このお店で弾くならそれなりに雰囲気が出る。もしも間違えてもアレンジと言い張って押し通す。我ながら完璧な作戦だ。
後は腕が動くかどうかだけど。椅子に座ってピアノの電源を入れる。
鍵盤に指を置く。右腕は痛くない。最初の一音を出してみる。痛くない。
よし、これならできる。
「まぁ」
練習曲だってこれまで数え切れないほどの種類を何度も弾いた。楽譜はこの手が覚えている。
それでも私は丁寧に弾くことに集中した。初めて最初から最後まで通して弾いたあの頃のように。
やがて一曲を弾き終えたとき私は大きく息を吸った。必要以上に体に力が入り、呼吸を忘れて酸素が足りなくなったこの感覚。まるでピアノを弾き慣れない初心者になった気持ちだけど、今はそれが心地良い。
演奏後の余韻に浸っていると背後から拍手の音がした。少し恥ずかしい思いをしつつ振り返る。
そこにはママの他にカウンター席に座る2人の女性の姿があった。
「ぴっ!?」
「あっ、紹介するわね。この2人は私のママ友でカフェ再開を祝って来てくれたの。とはいえ詩音も昔会ったことがあるけどね」
ママの紹介で「こんにちはー」と挨拶をするママ友仲間達。さらっと言われたけどそれはつまり最初のお客様と言うことじゃないか。
挨拶。兎に角挨拶を返さないと。駄目だ考えがまとまらない。顔が熱くなるのを感じる。
「こんにちは!いらっしゃいませ!」
「はいこんにちはー」
勢いのまま大きな声で言ってしまったけど軽く流された。そして2人の視線が私に向いている。緊張で胸が苦しい。心拍が跳ね上がったのに血の巡りが追いつかないような感覚だ。
「今の演奏、やっぱりあなた紫音君なのねー。今は詩音ちゃんか。可愛くなったわねー」
「小さい頃の紫音君もこんな感じで表情がころころ変わっていたわね。懐かしいわ」
「紫音は元々感情豊かな子よ。大きくなってから表情に出なくなっただけで」
私の過去を出しにして会話に花を咲かせる主婦達。私すら忘れていた黒歴史が次々と暴露されていく。私の最初のお客様はある意味で最悪のお客様でした。
いや落ち着け。相手はお客様で私は店員。ママに教わった定型文をそのまま言うだけで良い。グラスに氷と水を入れてトレイにのせる。水が溢れないように慎重に運ばないと。あっ、おしぼり忘れた!
「こちらお冷です。注文が決まったら声をかけて下さい」
「それなら早速良いかしら」
メニューを見ていないのに注文が決まっているなんて一体何者なんだこの人達は。いやママの友達なら常連さんか。だったら知っていてもおかしくないか。
まずは注文をメモする。それをママに伝える。まずはここまでやり遂げるぞ。ってあれ?メモ帳がどこにも無い!
「わぅ、わうぅ」
辺りを見渡して探すとテーブル席に置き去りにされていた。急いで取りに戻り注文を伺う。聞いた注文は復唱して確認をとる。これで良し。
「それともう1つ」
「私もー」
「何でしょうか」
「「可愛い店員さんのスマイル」」
「〜〜〜っ!」
意地悪だ。この人達意地悪だ!私が慌てているのを見て楽しんでいる!
知らないふりをしても良いけどこのままだとやられっぱなしで終わる。それも悔しくて嫌だ。だから私は今できる精一杯で笑う。これで文句は言わせないぞ
「「可愛い〜」」
表情が固いのが自分でも分かる。やっぱりやらなければ良かった。穴があったら入りたい。
私は顔を真っ赤に染めたまま目の前で注文を聞いていたママに改めて内容を伝えるのだった。
詩「じゃーん、愛音から貰ったつげ櫛だよ」
母「あなたそれいつも持ち歩いているの?」
詩「うん。いつでもどこでもお手入れができるように」
母「あの子が聞いたら嬉しさのあまりに昇天しそうね」
詩「愛音にしては良いものをくれたと思うよ」
母「それ本人に言ってあげなさいよ。有頂天になって踊り出すから」
詩「えー、嫌だよ」
母「どうして?」
詩「だってその、恥ずかしいもん」
母「私はいまカメラを持っていないことを激しく後悔しているわ」
詩「なんで?」




