EP-194 魔王
目が眩むほど眩しい太陽。遠くまで澄んだ青い空。雄大なる入道雲。鳴り止まないセミの鳴き声。
これぞ夏という光景が広がる中、空調が効いた部屋で扇風機の音を聞きつつ、ソファの上で怠惰に過ごす私。これを至福の一時と言わず何と表現することができようか。
「おい詩音。暑いのが苦手なのは分かるが、せめて着替えくらいしたらどうだ。朝からずっとパジャマのままなのは如何なものかとパパは思うぞ」
「すやぁ」
「駄目だこりゃ」
尻尾を一度ゆっくり振るだけの私を見て何を言ってもなしのつぶてだと悟ったのか、パパはコップ一杯の水を飲んでリビングを去った。ふふん、正義は我にあり。
その後もジュースを飲んだりお菓子を食べたりして思うがままに過ごすことしばらく。これ以上なく油断していたときに時間は起きた。
さすがにこれ以上溶けたアイスのように過ごすのは不味いと良心が訴え始めたので、私は尻尾の毛繕いでもしようかと、お気に入りの櫛を取りに部屋に戻る。そして再びリビングに戻る途中、私は足を止めた。
何かがいる。
最初は何となくそんな気がする程度のものだったけど、少しして確信に変わる。泥棒がいるという感覚とは違うんだけど、何か不快な感じがするのだ。
とりあえず耳を澄ませて家の中の状況を確認する。ママは「Lesezeichen」に居る。愛音は私の代わりに人柱、もといお店のお手伝いをしている。
パパと琴姉ぇはそれぞれ自分の部屋にいる。琴姉ぇはママにお使いを頼まれていたけど、私が寝ている間に既に済ませて帰って来ていたのか。さすが琴姉ぇである。
それはそれとして、やっぱり家族以外は誰も居ない。どこかの家のペットがやって来たわけでもないみたい。
寝ているときに嫌な夢でも見ていたのかな。何も覚えていないけど。
いずれにせよ気のせいならそれに越したことはない。気を取り直して櫛を片手にリビングに戻り、お気に入りのソファに座る。
しかしそこには先約がいた。
黒い姿に夜行性で狭い場所を好む極めて高い隠密性。そのうえ高速で地を駆け、壁を走る機動力。あらゆるものを己の糧とし、水中でも活動できる底無しの生命力。追い詰められればその羽を広げて空を飛び、空域まで支配する。
そうした脅威的な身体能力を持つ反面、それ以上の害悪性を持った巨悪。遥か太古の時代よりこの星に在り、今日至るまで生存し続けた影の支配者。
姿を見るだけで恐怖、錯乱して人類を混沌に陥れる。その所業は「魔王」と称しても何ら過小でない。
まさに人類の絶対的敵対者。そんな邪悪の権化が私のソファを侵略。否、既に支配していたのだ。
「〜〜〜ッ!!?」
声にならない叫び声を上げて飛び跳ねた私は床を転がりながら距離を取る。何とかフローリングに四肢を付いて立ち上がると、「魔王」は魔王城から降りてフローリングの上に鎮座していた。
咄嗟に殺虫剤を探したけれど、それがあるのは「魔王」の背後にある収納の中。取りに行くためには「魔王」の背後に回り込む必要があるけれど、そんな隙を与えてくれる相手ではない。完全にしてやられた。
唯一の対抗手段を奪われた以上、取れる選択は逃げの一手のみ。いつの間にか狼の姿になっていた私は走りながらヒトの姿に戻り魔境から脱出する。
そう、脱出したはずだったのだ。ドアを閉じたときに隙間をすり抜けて足下にいた「魔王」に気付くまでは。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「なにか下が騒がしいわね」
いつものように作業を進めていた琴音は、ふと部屋の外が普段と違うことが気になった。今日はあまりの暑さに拗ね詩音がチートデイを決行。それはもうのんびり過ごしていたはずだ。
「パパ!パパぁ!開けてー!あっ、いや!やだあぁー!」
部屋を開けて最初に響いたのは半狂乱になって泣き叫ぶ詩音の悲鳴だった。その様子からただ事ではないと思いつつ、かと言って緊急事態というわけでもないと琴音は察した。詩音が聞けば涙目で怒るだろうが、事実その通りである。
「どうしたの詩音。何かあったの?」
「琴姉ぇ?琴姉ぇ!ふえぇーん!」
「一体どうし、ぐふっ!?」
声を聞いた途端に2階へ続く階段をとんでもない速さで駆け上がる詩音。飛び付いてきた衝撃を、琴音はよろめきながらも何とか耐える。
「ちょ、苦しい。息できない、息できないから!」
「魔王が。魔王がいきなり現れて、それで」
「分かったから。分かったからちょっとだけ離れて。爪が痛い。肉球が柔らかい。胸が憎い」
琴音に会い多少は落ち着いたのか、ぽろぽろと涙を零しながらも言うことを聞く詩音。その姿はヒト型や獣人といった分け方ができる状態ではなく、ヒトと狼の形が適当に混ぜられたような有様だった。
息を整えながらも彼女の頭を撫でる琴音。そのお陰か詩音の涙は止まり、彼女の姿も徐々に見慣れたものに戻っていった。といってもヒトには戻れず半獣姿のままではあるが。
「詩音、まだ腕が肉球のままだけど」
「なんかもうむり」
「あっそう」
語彙力が下がり幼児退行し始めた詩音をあやしながらどうしたものかと思案する。とは言ってもやることは極めて単純な作業である。
詩音が「魔王」と畏怖する存在。要はキッチンや家具の隙間でたまに見かけるアイツのことだ。生態系を循環させるためには必要と分かっていても、大多数のヒトはあの虫の存在が苦手というのが現実だろう。それは琴音も同じだ。
しかし詩音はその比較にならないほどダメなのだ。男だったときは感情が表に出てこないタイプだから周囲には気付かれていなかったが、触ることは当然として近付くことすらできない。尚、この事を知るのは家族や親友の大狼良介のみである。
「それでアレはどこにいたの?」
「あっち、した、あっち!」
「1階ね。1階にいるのね。でもまずは殺虫剤を取りにリビングに行かないと」
「やだ!だめ!1人にしないで琴姉ぇ」
「あなたは私にどうして欲しいのよ」
何かと超人な愛音とは違い、琴音の力は一般女性と同程度だ。怯える詩音を肩の上に乗せたまま階段を降りるなんて危険な行為はできない。
ということで琴音はスマホを取り出して父親に連絡。程なくして1階からひょっこり姿を表した。
「何か凄いことになっているな。どうした?」
「アイツが出たって騒いでいるのよ」
「あー、成程」
「パパ!今までどこで何していたの!部屋に行って助けてって何度も呼んだのに!」
「トイレで用を足していたんだが」
「馬鹿!パパの馬鹿!」
「えぇー」
随分と理不尽な理由で好感度を失った父。しかしこうなった詩音には論理は通用しない。肩を落として露骨に落ち込みつつ、動けない琴音に代わり「魔王」の討伐に挑む。
リビングに殺虫剤を取りに行き、廊下の真ん中で佇むアイツにひと吹き。科学の力で一撃必殺。僅か十数秒で言ノ葉家は平和な日常を取り戻したのだった。
琴「ふぅ、危ないところだった」
父「虫一匹で大袈裟だな」
琴「別にそれは大したことないの。ただ怖がって飛び付いできた詩音がちょっと」
父「確かに。いくら小柄でも勢い良くきたら相当な衝撃だからな」
琴「あんなに大きくて柔らかくて胸を顔に押し付けられたら終わりよ。全く息ができないんだもの。あれはもう凶器と言っても過言ではないわ」
父「凶器とか言うな。実の弟だろ」
琴「なんて憎たらしい脂肪の塊なのかしら。詩音でなければあんな贅肉引きちぎってミンチにしてやったのに」
父「ごめん。なんかごめん」




