SS-180 とある幼馴染の日常
まだ早朝と呼ぶべき時間帯。陽が登りきっていない中で俺は寝惚け眼を擦りながら鏡の前に立ち歯を磨く。世間では貴重な連休だというのに、俺はなんて勤勉なのだろうか。
「ほら康二。早くしないと朝練に遅れるわよ」
「うーい」
「恵ちゃんももう家の前で待っているんだから」
「マジか。やべぇ」
陸上部の顧問に怒られようが母さんに小言を言われても何とも思わないが、あいつの機嫌を損ねるのはまずい。後々面倒になるのはこれまでの付き合いでよく分かっている。
手早く支度を整えた俺は仕方なく朝食を諦めて家を出る。そんな俺を待っていたのは小鹿恵。隣の家に住んでいて物心がつく前から付き合いがある。いわゆる幼馴染って奴だ。
「おそーい!康二はどれだけ私を待たせたら気が済むの」
「悪い悪い。でも別に待ってくれなんて頼んでないだろ」
「だって見に来ないと康二はすぐにサボるでしょ」
「うーむ、それを言われると否定できねぇ。っと、そんな事より早く部活に行こうぜ」
いつもと変わらない戯れ合いをしながらもまだヒトが少ない朝の通学路を俺達は歩く。折角真面目に起きたんだ。これで遅れて朝から顧問に怒られるのは御免である。
陸上部は中学生の頃から続けているから高校2年の今年で5年目。正直、サボろうと思ったことは何度もあるが、小鹿のお陰で今も続けていられている。今では大会でもそこそこの成績を出せるようになった。
勉強の方はまぁ、ぼちぼちだな。平均の辺りを浮いたり沈んだり。最近はちょっと危なくなっているような気がしなくもない。いや、連休前に一回ちゃんと勉強した方が良いかもしれん。
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「それでは今日はこれで解散」
「「ありがとうございましたー!」」
時刻は昼を少し過ぎた頃。いつになっても辛いのは変わらないが、部活が終わった開放感が全身の疲労を幾らか楽にしてくれるから不思議だ。
「あー、喉が渇いた。腹も減った」
「朝ご飯を抜いたのによく動けるよねー」
「こういうときはあれだ。あそこに行くしかない」
「「Lesezeichen!」」
Lesezeichenはここ、桜里浜の町にある喫茶店だ。値段の割には一皿の量が多いから近所の学生に人気がある。のだけれど、最近はまた別の理由で客足が絶えない人気店になっている。
「あれ?あそこにいるのって」
近所の公園を通り過ぎようとしたそのとき、小鹿が足を止めた。そのまま指差す方向を見ると、この町一番の有名人がいた。
「そうかそうかぁ。楽しかったんだねぇ」
「にゃぉーん」
「そんなに良い景色なの?なら今度一緒に行ってみようか」
「ワン!」
首輪を付けた二匹の大型犬と元気一杯の黒い子猫。そして彼らに視線を合わせて話しをしているのが言ノ葉詩音さん、そのヒトである。
陽の光を浴びて銀色に輝く純白から、毛先にいくにつれて色鮮やかな瑠璃色へと変わるその髪は、離れていても綺麗でとてもよく目立つ。
しかし何より特徴的なのは頭の上で揺れる三角の耳と、彼女の気持ちを素直に表す立派な尻尾だ。
誰がどう見てもヒトとは違う創作の世界にしか居ないような容姿をしている。それでも詩音さんは確かにそこに存在していて、更には俺達と同じ学校に通う高校生として過ごしている。
詳しい事情は分からない。俺が知っているのは詩音さんは元々は男だったということ。そして兎に角めちゃくちゃ良い奴だということだけだ。
でもさ、それが分かっていれば友達として付き合う理由としては十分だよな。
「おーい、言ノ葉さーん」
「あ、槌野君と小鹿さん。こんにちはー」
「はーい、こんにちはー」
耳を揺らして振り向いた詩音さんは正に花が咲くような笑顔を見せて立ち上がると律儀にお辞儀をした。
顔を上げるときにする髪をかき上げる仕草はあまりに自然で、元男という話しだけはガセなのではないかと俺は密かに思っている。
「あ、飛鳥さん家の黒にゃんこだ。何の話しをしていたの?」
「この辺りの絶景スポットを教えてくれたんだよ」
「へー!どこにあるって?」
「桜里浜神社の鳥居の上」
「上かぁ。それは無理だなぁ」
「にゃー」
出会った当初は誰に対しても人見知りをしていた詩音さん。でも根が素直で良い奴だからだろう。クラスメイトとして何回か話すうちに普通に話せるようになり、今では友達と呼べる仲になった。
その一方で仲良くなることで分かったことがある。詩音さんは普通のヒトとは感性が微妙に異なるのだ。
「あれ、槌野君なんか元気なさそう。大丈夫?」
例えば今。空腹でテンションが低めの俺を心配して様子を伺っているのだけれど、その距離感が異様に近いのである。
白い肌に小さな口元。宝石のように煌く翡翠の瞳。あどけない表情で近付き顔を覗き込む詩音さん。中身は何であれ超絶美少女にそんなことをされると、耐性がない現役男子高校生には劇薬でしかないんだよな。
「んー、それに顔も少し赤いような気もする」
「さっきまで部活の練習があったからね。それにこいつ今日朝ご飯を食べてないらしいし」
さも当然と言わんばかりに互いの額を当てて熱を測ろうとする詩音さん。それを間一髪のところで小鹿が俺の首根っこを引っ張ることで事なきを得た。
こうした不意打ちは日常茶飯事で、俺に限らずそれなりに親しくなったクラスメイトの男子は漏れなく全員似たような被害に遭っている。
逆にこれが小鹿のような女子になると、今度はあからさまに距離を取るようになる。それこそ女子に対して免疫のない男子のように他愛のない日常会話ですら少し緊張する始末だ。
触れようとすればさり気なく距離を取ろうとする詩音さん。恥ずかしそうに耳と尻尾を揺らすその姿は狼というよりは人畜無害な小動物にしか見えない。
これがまた女子が持つ母性というか、内なる保護欲を直撃するらしい。中には欲望のままにもふもふを堪能できる地位を得た狐鳴を羨む者も少なくないという噂もある。
「お腹が空いているならLesezeichenに来る?美味しいのたくさんあるよ」
空腹と聞いた詩音さんは瞳を輝かせながら是非来て欲しいと提案した。
今日のおすすめメニューや日替りランチの内容。最近練習を頑張っている料理や個人的に好きな食べ物を思い付くままに話す。味の想像をしているのか、幸せそうに語るその様子ははっきり言ってとんでもなく可愛い。
「それなら行ってみるとするか。小鹿も良いか?」
「良いよー」
「本当?本当に来てくれるの?やったぁ」
「にゃーん」
「わんわん!」
俺達がお店に行くと言ったことがよほど嬉しいのか、お供の子猫と犬達と喜びを分かち合う詩音さん。控えめに言ってめちゃくちゃに可愛い。
上機嫌に揺れる尻尾の後をついて行くと、度々お世話になっているその店に到着した。そこで一緒にいた子猫と二匹の犬と別れて俺達。手招きをする詩音さんに従い、小鹿と共に席に案内してもらう。
「あっ、お店の看板娘が帰って来た。おーい」
「娘違う!息子!」
お店に戻って早々に素早いツッコミを入れる詩音さん。女子より女子力が高いステータスをしているのに未だにこの手の話題には的確に修正してくる。このやり取りを見るのもまた面白いんだよな。
その話題を会って早々に提供したのはネネちゃんこと、音々天琥だ。中学校ではダンス部、高校生では器械体操部に所属している。小鹿とは異なるベクトルで活躍するスポーツ女子である。
「槌野、小鹿。お前らも来たのか」
「詩音さんに誘われてな」
「何だか珍しく勢揃いしているね」
「全員部活帰りで偶然な」
「Lesezeichen」にいたのは音々の他に間蛸と烏賊利と帆立の3人。桜里浜が誇る運動部のエース達である。
テーブルにはお冷があるだけで料理の注文はこれからだったらしい。これから制服に着替えに行くという詩音さんに断りを入れて、俺と小鹿も同席させてもらうことにした。
「詩音っちは相変わらずもふもふしているねー」
「換毛期の時期っていつだったかな」
「夏も近いからそろそろかな?去年は大変そうだったよね」
注文を考えるのもほどほどに、俺達の思考と話題の大半は詩音さんに関することばかりだ。いくら自然の人間関係が望まれているとはいえ、やっぱり気にならないわけがない。本人が居ないところではこうして度々話題になるのは必然であった。
「なんだかんだで知り合いって1年になるのか。この1年で何か印象変わったりした?」
「そうだね。日を追うごとに女子力が上がっているのを感じる」
「うん。ふと自分と比べたときに自己嫌悪になるくらいにはね」
小鹿の言葉に同意する音々。このやりとりをきっかけにまた比べてしまったのか、元気が取り柄の彼女が天井の照明を虚ろな瞳で眺めて黄昏ている。
安心しろ音々。お前が家庭科の授業で作った味噌汁はちゃんと美味かったぞ。ちょっと味噌の味が濃くて出汁も入れ忘れていたけど。それでも猫宮さんよりは確実に上だからな。
「言ノ葉さんの印象か。それでいうとあれだ。言ノ葉さんてマイペースでどこかふわふわした雰囲気があるだろ」
「あるある。近くにいるだけで幸せに満たされていく感じがする」
「でもな。誰かが困っているときは誰よりも真っ先に行動するんだよ。でもそれがかなり危なっかしくて」
「あれか。保育園の一件か」
「何それ?詳しく聞かせてよ」
「実は前に言ノ葉さんに頼まれて保育園に行ったんだよ」
「隠し子のお迎えのためにね」
「帆立君サイテー」
「違うし!なんでそうなるかなぁ!」
帆立のツッコミが冴えわたる中、その一件とやらの話しを聞く。そしてその話しを聞いて俺は納得した。確かに倉庫整理を1人でやろうとするなんて親切を通り越して無謀である。お目付け役の大狼が心配するのもよく分かる。
そういえば以前、大狼に言ノ葉さんがどんなヒトなのか聞いたら教えてくれたな。曰く、「悪い事を考える奴が一番利用しやすいタイプ」だと。当時は何の冗談だと鼻で笑ったものだが、今は全くもってその通りだと思う。
「そう考えると良い感じに親友ができている猫宮とか鮫島とか飛鳥は凄いんだな」
「あれ、稲穂っちは?」
「聞かなくても分かるだろ」
「そういえば鮫島君がこの前詩音ちゃんと2人で水族館に遊びに行ったんだって」
「2人きりで?」
「2人きりで」
「よし、学校が始まったら全員であいつをやるぞ」
「「「異議なし」」」
「お待たせしましたー」
全員の意思が統一されたところで店の制服に身を包んだ言ノ葉さんが戻ってきた。正直に言ってはちゃめちゃに可愛い。
これを言うとむくれてしまうので言葉には出さないが、この場にいる6人の総意であることは間違いない。
「何を食べたいか決まりましたか?」
「しまった。何も考えてなかった」
「詩音っちのおすすめはなーに?」
「クリームシチュー」
「シチューか。もうちょっと腹が膨れそうなものが良いな」
「それなら詩音っちがいま食べたいものはなーに?」
「クリームシチュー!」
曇りなき眼で自分の好物を教えてくれた言ノ葉さん。心からクリームシチューが美味しいと思っているのだろう。俺達は何となく幸せな気持ちになった。
その後で他より少し安い本日の日替りランチを注文して更に雑談に興じる。言ノ葉さんに関する話しの後は全員が運動部に所属していることもあり、日々の練習の内容の他は迫る試合や大会に関することに移っていった。
しばらくして戻ってきた言ノ葉さんとその母親が注文したオムライスとセットのスープとサラダを運んできてくれた。
他の店より二回りは大きいそれは大皿に圧倒的な存在感を放ち、その傍らには食欲を掻き立てるチキンステーキが鎮座していた。
「大盛りとチキンはサービスよ」
「女神だ。女神様がいらっしゃる」
言ノ葉さんのお母様からの粋な計らい。本当にいつもありがとうございます。
普通なら食べ切るのは難しい量ではあるが、運動部の学生の胃袋は無限の領域がある。何より単純に美味い。このふわふわトロトロの卵とか、ジューシーな鶏肉とか。何かこう、兎に角美味い。
俺達は一口食べる毎に感動を覚えつつ、空腹を満たす幸せを享受していく。
「ここの飯が美味いから部活を頑張れるってあると思うわ。俺」
「流石に毎回来るのは厳しいけどな。小遣い的に」
「おや、帆立っちのチキンが余っているね。私が食べてあげようね」
「俺は好物は最後に残す派だからな。ってあ!ちょ、やめろ。誰か、誰かー!」
「あんまり騒ぐと怒られるよー」
調子にのって普段は飲まないコーヒーや紅茶なんかを頼んでみたり、帆立が死守していたチキンの一切れが音々に攫われたりしつつ、楽しい昼食の時間が過ぎる。こういう日常を送れることをヒトは幸せと呼ぶんだろうな。
柄にも無く詩的な考えをしている間に食事は進み、各自のオムライスが残り数口となった頃。これまた大皿を手にした詩音さんがやって来た。
「えへへ、これはおまけです」
おずおずといった様子でテーブルに置いたのは六等分に切り分けられたパイだった。
ただそれはスイーツの類ではなく卵と野菜、ベーコンを焼き上げたもので、まだ微妙に小腹が空いた俺達には実にありがたいサービスだ。
「言ノ葉さん、これは?」
「キッシュだよ。ママに教わって焼いてみたの」
「キッシュ!?」
「まだ練習中だから味の感想を聞かせてくれると嬉しいな」
言ノ葉さんは取り分けるための小皿を置き、他の客の注文を取りに去って行った。
「この世の中にキッシュが焼ける高校生ってどのくらいいるんだろうな」
ふとそんな感想が漏れたけど、その問いに答えられる者はこの場には誰もいなかった。
その代わり俺達は切り分けられたキッシュを手に取り、ほぼ同時に口に運ぶ。その感想は文句なし。満場一致だ。
その後、俺達は誰かしらが部活で良い成績をあげる度に集まってはこれを食べることになるのだが。それはまだ先の話しである。
烏賊「同級生の女子に手作りオムライスを作ってもらった。言葉だけ聞くととんでもないリア充だよな」
蛸「しっかりお金は払うけどね。あ、そう聞くと男を誑かす悪女みたい」
琥「どっちにしろ詩音っちは女子じゃない!ってぷるぷる怒るだろうねー」
鹿「私もこれくらいできないと駄目なのかな」
槌「んー、俺も美味いとはおもったけど、小鹿が作ってくれる目玉焼きの方が好きかもしれん。何というか、毎日食べても飽きないのは小鹿の飯かなって思う」
琥「ほほーぅ。それはそれは良きですな。小鹿っちいまどんな気持ち?ねぇ、どんな気持ち?」
鹿「う、うるさいうるさい!康二のバカ!」
帆立「爆発してしまえこの野郎」




