EP-151 揺らぐ日常
「しー姉ぇ、ただいまー」
「おかえり」
「もっふーん」
部屋に取り込んだ洗濯物を黙々と畳んでいたとき、いつもと変わらず高いテンションで帰宅を告げる。そのまま制服から着替えもしないまま私の前に現れると、一切の遠慮もなくもふもふの胸毛にくっついた。実に鬱陶しい妹である。
押しても引いても離れない愛音。どうしたものかと思案していたとき、たまたま目に入ったそれを顔に近づける。その効果は素晴らしく、靴底に付いたガムよりしつこい愛音が悲鳴を上げて離れた。ありがとう、パパの下着。
「私は思うんだよ。私はこうして毎日学校に通っているのにしー姉ぇは家で休むなんて。不公平だ!ぶーぶー」
「そんなこと言われても。狼になるんだから仕方ないでしょ」
満月の日の夜は狼になる。この体質は未だに変わらない。その日が平日だった場合は学校を休むしかない。
また満月の日の前日と翌日は手足だけが変化するという症状も相変わらずだ。場合によっては3日連続で学校に行けなくなることもある。今月がまさにそれなのだ。
「明後日に学校に行くときが憂鬱だよ。勉強追いつけるかな」
「勉強なんて問題を一回解けば大体分かるでしょ」
「愛音、お前はいま大勢のヒトを敵に回したよ」
「そんなことを言ったら琴姉ぇはどうなのさ。教科書すら一回も使わないで全国模試で満点を取っているんだよ」
「琴姉ぇはヒトの形をしているけどヒトではないから。ヒトをやめた私が言うんだから間違いない」
1歳になる前から辞書や辞典を読み漁り、小学生になる前には図書館の本を読み尽くす。小学校の読書感想文では海外の論文についてその考察を述べて、人類の科学レベルを僅かながらに押し上げた。そんな幼児がいたなんて私は信じないぞ。
「私、思ったんだ。琴姉ぇには前世の記憶があるってね」
「それだ」
「生まれた瞬間から差をつけて、得たアドバンテージで無双するんだ。いずれは世界を統べる英雄になるに違いない」
「悪い奴を倒してヒーローになるやつだ」
「あとはそうだね。色んなところでフラグを立てているね。琴姉ぇなら性別の垣根を超えて酒池肉林のハーレムを形成しているはず」
「はーれむ?」
「大学なんてもう混沌も混沌。昼夜問わずあんなことやこんなことが」
「2人ともただいまー」
「おかえり」
「ヒィッ!?」
姉のことを弁舌に語る愛音の後ろにまさかの本人登場。相当驚いたのかさっきよりも強い力で愛音がくっ付いてきた。
引き剥がしたいけどパパの下着は手が届かないところにある。無念。
「なになに?2人で何を楽しそうに話していたのよ」
「いや別に何でもありませんであるからして」
「学校に復帰したきに勉強についていけるか不安だな。っていう話し」
「ですです」
「成程。確かにあと少しで学年も上がるから色々と不安よね。私で良ければいつでも相談にのるから、遠慮せずに頼ってね」
「ありがとう」
そんな話しをしている間に日は傾き、獣人らしい姿から完全な狼に変身する。
最初は軽い筋肉痛のような違和感があったけど、今となっては流石に慣れた。愛音の拘束からすり抜けた私は器用にドアを開けてママのもとに向かう。そろそろ夕食の時間だからね。
「ごっはん。ごっはん」
「一応ドッグフードもあるけど」
「やだ」
「竜崎先生が勧めてくれた良いやつだけど」
「やだ!」
皆んなが出来立ての温かいご飯を食べているのに私だけドッグフードなんて嫌だ。私は狼の中でもグルメな狼なのだ。
美味しいご飯を食べてお風呂に入り、のんびりだらりと寛いだ後にベッドの上に丸まって寝る。そんな贅沢な時間を過ごして今日1日を終える。
起きたとき、まさかあんなに大変な目に遭うとは夢にも思わずに。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
日の出が遅い今の時期に朝日を浴びて目を覚ました私。普段と比べるとかなりのお寝坊さんだけと気にしない。どうせ今日も学校には行けず、家の中で過ごすからね。
とりあえずベッドの上で体を伸ばしたそのとき、私は違和感に気付く。
満月は沈んでいるにも関わらず、私は狼のままなのだ。
「あ、あれ?」
窓の外を見ても空は明るくなり始めている。朝日に照らされて星も月も隠れて見えない。
それでも私の前脚は四足歩行の動物のそれだ。いつもなら箸も掴めない肉球になっているはずなのに。
胸の奥底から震えるような不安の中、鏡を見ようと1階に降りる。しかし鏡を見るまでも無くそれまでの移動で私が狼のままであることは確信できてしまった。だって部屋のドアが大きいんだもん。開けられないし。
「これって、もしかしなくてもまずいのでは?」
洗面台の鏡にひょっこり顔を覗かせる自分に話しかける。朝になっても狼のままなんて初めてだけど、一体いつになれば戻ることができるのだろうか。もしかするとこれからずっとこのままなのだろうか。
言い表しようが無い不安が心に広がり、居ても立っても居られなくなる。兎に角誰かに相談しないと。
今の時間ならママはもう起きて朝ご飯を作っているはず。私はフローリングに滑りそうになりながらもキッチンに走った。
「ママー!」
「おはよう詩音。どうし、た」
半開きのドアの隙間に鼻を押し当てて何とか開ける私。料理の合間に顔を向けて返事をしたままは純度100%のもふもふの私を見て持っていたフライ返しを取り落とした。
「詩音!えっ、どうしてまだ動物の姿なの」
「あっいやその前に火を消して。火を」
「だってもう朝よね。えっ、どうして。ええっ!?」
「それより火!火を消して!煙、煙出てるから!」
動揺が動揺を誘い、朝から我が家は大混乱だった。この体だとコンロは消せないし水もかけられない。何とかママに消火してもらわないといけないのに、私が騒げば騒ぐほどママが混乱する悪循環に陥る始末である。
錯乱しかけたママどうにか落ち着いたから事なきを得たけれど、フライパンの上の卵が2つ犠牲になりました。美味しい目玉焼きになるはずだったのに。
全国の養鶏農家の皆さん。そして卵を産んでくれた鶏さん。本当にごめんなさい。
「とりあえず皆んなを起こして家族会議をしないと」
しばし私をもふもふして無事に調子を取り戻したママは直ぐに他3人を召集する。ママ以上に動揺していた愛音に全身で突撃されたのは余談である。
「どうしましょう、あなた」
「どうするも何も。俺達がいくら話し合ったところで答えは出ないよ。先ずは竜崎先生の病院に行って話しを聞かないと」
「でも愛音達は学校あるよ」
「そんなの今はどうでも良いの!もうしー姉ぇの一大事に私だけ除け者にされるなんてあり得ないんだから」
「私の方も心配無用よ。数日休んだくらいで単位を落とすような成績ではないから」
今の時期が学生にとって一番大切な時期だというのに余裕綽々な様子の2人。私の受験とはえらい違いで何となく複雑である。
絶対に付き添うと揺るがない2人に折れた私はパパの運転で竜崎病院に到着。事前の説明も済ませていてぬかりはない。
「どーもー、お久しぶりですねー」
「先生、詩音は元に戻りますか?戻りますよね!」
「あばばばば」
相変わらずくたびれた格好で迎えてくれた竜崎先生。私の現状は聞いているはずなのに今日も変わらず通常運転だ。
そんな先生に会うや否や、先生の肩を掴んだパパはその体を大きく揺さぶり問いただす。先生の三半規管は多大なるダメージを負った。可哀想に。
「ふむふむ。満月が過ぎているのにヒトの姿に戻らないと。ふむふむ」
「先生、詩音は元に戻るのでしょうか?」
「大丈夫です。と言いたいところですが、正直なところ分からないですね。いかんせん前例がないことなので」
「はっきり言いますね」
「まぁ、今の詩音君なら大丈夫かなと思います。初めて会ったときから随分成長していますから」
「ですね。しー姉ぇの成長は著しいです」
「心がね、心が強くなっているって意味だからね。誤解しないでね」
何かを納得したように目を閉じて頷く愛音。何故か突然不機嫌な表情をみせるパパ。急に必死な弁明を始める竜崎先生。
おかしい。話しを聞いているはずなのに全く内容が理解できない。国語って難しいね。
「詩音がこのまま一生狼として過ごすことになる可能性は否定できない。そうなればこれからずっと、事あるごとに妹さんにもふもふされることになるかもしれない」
「うーむ、悪くない」
「お馬鹿」
「でもこれは悪いことばかりではありません。今まで変身には月の満ち欠けが関係しているという仮説を立てていましたが、それが絶対条件とは限らない事が分かりましたから。変身を任意で制御するということも可能になるかも」
変身の制御。それができれば満月の度に学校を休まなくても良くなるのか。逆に自分の意志で狼になることもできるかもしれない。
いや、自分から狼になるなんて何のメリットがあるのか分からないけど。狼として暮らすつもりなんて皆無だし。
「現象が起きたとき、それには必ず理由がある。是非、この機会に解明するとしましょうか」
詩「ところで琴姉ぇ、1つ教えて欲しいことがあるんだけど」
琴「何かしら?なんでも聞いてちょうだい」
詩「しゅちにくりんってどういう意味?」
琴「愛音」
愛「ヒイイィィ!」
詩「あとね、はーれむっていう意味も知りたいの」
琴「愛音」
愛「にょへえぇぇ」
琴「後でお話し、しましょうね」
愛「\(^o^)/」
詩「ねぇ、どういう意味なの?ねぇねぇ」




