SS-15 とある男の備忘録
木枯らしが背筋を震わせるこの頃。街並みを行き交う群衆の流れに従い男もまた道を歩いていた。
スーツにコート、革靴と鞄。まだ昼を過ぎたあたりで夕方の通勤ラッシュにはまだ早い時間。外周りをしているサラリーマンだろうか。
近くの自動販売機の前に立った彼は小休憩にと缶コーヒーを買う。歩きながらそれを味わい、駅に向かって歩く彼は人々の波に飲まれて消えた。
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「20kgの薬物と38丁の銃器密輸の現場を押さえてこれを阻止。取引に関与した者を1人残らず捕らえ死者を出さず制圧。連中は現在尋問中。流石だな、ロウ」
レザーチェアに背中を預けて報告書を確認するのは黒地に白のストライプが入ったスーツを着た大男。座っていて分かりにくいが身長は2mを優に超える。
結果に満足した大男はその成果を上げた本人に偽りの無い賛辞を送る。肘を置くデスクを挟んだ向かい側にいる飲みかけの缶コーヒーを手にしたスーツ男へと。
「それを言うためだけに俺をここに呼んだのか。エース」
人当たりの良さそうな顔からは思いもよらない強い口調と鋭い目付き。彼の名はロウ。国を脅かすあらゆる害悪という膿を取り去り、秘密裏に世の平和を守るエージェントだ。
エースは彼の直属の上司でありながら同期であり、これまで数多の死線を共に突破してきた親友だ。2人の間に上下関係は無い。
「たまにの再会なんだからちょっと顔を見せるくらい良いじゃねぇか」
立ち上がって無遠慮に近寄るエースに缶コーヒーを投げつける。が、容易く受け止められてしまう。前線を離れて久しいがまだまだ鈍ってはいないようだ。
とは言え溢れるコーヒーまではどうにもできないだろう。
「うおぉい!?何してくれんだよ!」
「お前微糖派だろ。有難く思え」
自動販売機のボタンを特定の順番に押して飲み物を購入し、その後駅前の公衆電話で番号を入力すると電話ボックスごと降下してこの隠れ家に来ることができる。
しかしいかんせん手順が面倒だ。いや面倒なのはまだ良い。欲しくもない微糖のコーヒーを買わされた挙句、その料金は自腹なのだ。この程度の額を出し渋らないで欲しい。
ロウにとってエースはこうした面倒なところもあるが、司令官としての能力の高さは評価している。自分が完璧に任務を遂行できるのは彼がいてこそだ。
「悪いがもう行くぞ」
「なんだよ水臭いな。一杯くらい付き合えよ」
「久しぶりに日本に来たんだ。お前に構っている暇は無い」
「はー、相変わらずだな」
ロウが何よりも家族を大切にしていることをエースは良く知っている。奥さんと付き合い始めた若かりし頃に手を出した三下の輩に報復し、それと繋がりがあった裏社会で名の知れた組織1つをついでに2人で蹂躙したときの記憶は今も鮮明に覚えている。
そのときロウが持つプライベート用のスマホに着信があった。相手を確認した彼の表情が緩む。相変わらず気持ち悪い顔だ。
「もしもし奏?元気にしてるか?俺は絶好調さ。実はいま仕事が一区切りついたところでな、今日の夜には帰れるぞ。あぁ、1週間はのんびりできるぞ」
ロウは他と比較してもずば抜けて有能なエージェントである。本当なら休みなどある訳が無いのだがそこはエースが尽力した。日本まで足を運んだのに家族に会うことすらできないとなればロウは相当荒れる。そのときのリスクの方が高いと判断したのだ。
会えることを嬉しそうに話すロウ。ところがその声色は暗く神妙なものに変わった。電話越しに聞こえる奥さんの声が悲痛で震えているのだ。
落ち着くように宥め、時間をかけて事情を聞く。やがて電話を切り振り返ったロウの顔は血の気が引いていて、生気がほとんど感じられないものになっていた。
「息子が事故に遭った」
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「やっぱりもう無理。行ってくる!」
「おい、ちょっと待て!」
止める間も無く車を降りて走る我が子の姿を見送る。伸ばした手は行き場を失い、少し彷徨った後に自分の後頭部を掻いた。
スマホに着信が入る。誰からの連絡かは確認するまでもない。
「俺だ。それでどうだ?」
「加害者とその関係者らは完全な白だな。堅気の人間が不慮の事故を起こしただけらしい。病院関係者も同じく怪しい奴はいなかった」
「そうか」
2人が話しているのはいま世間を最も騒がせているニュースに関してだ。事故に遭った意識不明の青年が目を覚ましたときに性別が変わってしまったというものだ。
それも性転換手術なんて次元では無い。見た目は全くの別人になり、身体の一部にヒトならざる動物の特長を備えているという。当時彼が入院していた病院の一部の関係者や、姿を見かけた一般人がその姿を撮影してソーシャル・ネットワーク・システム。通称SNSにて発信したのだ。
これを発端に世間のニュースは彼の話題一色に染まる。
「最初はCGや合成だと高を括っていたが、調べた限りその痕跡は無いんだよ。コスプレにしては動画に映るこの子の耳と尻尾の動きがリアル過ぎるし」
エースもロウも現実主義者でオカルトの類いは信用していない。しかし調べるほどに彼の姿は本物であると証明するものばかり。最終手段として組織のスパイを病院に侵入させて本人に接触。直に会って調査したところ、あの姿は間違い無く本物だという結論に至った。
一時は病院の医師をヒトと動物の合成生物を生み出した狂科学者だと責め立てられて、青年に向けた心ない誹謗中傷も絶え間無く押し寄せたときもあった。
幸いにも入院中の青年は療養に専念していてその間メディアから情報を得る機会が無かったため、それらを知る機会は無かった。
その後次第にこの話題は終息して、青年が退院するときには自然消滅した。というよりさせたため、青年の耳に入ることは無いだろう。
「あのニュースに関するコメントを書いたアカウントが軒並み停止されたと聞いたときは笑ったな。人口を軽く超えた数が停止されてサイバーテロ疑惑まで出ていたし」
「今どき1人で複数のアカウントを持っているのは当たり前だからな。いずれにせよ自業自得だ」
「そうだな。新しいアカウントを作って同じ過ちを繰り返した馬鹿にはどこかの誰かが直々に制裁を与えたしな」
「さて、何のことやら」
憶測だけで好き勝手な事を書いてヒトを苦しめる連中に温情も慈悲も無い。それだけの話だ。
「それと最後に1つ。お前が寄越したその青年の毛髪サンプルだが、いま組織の研究員が総力を上げて現在調査中だ。結果が分かり次第最優先でお前に伝える」
「頼む」
「気にしなくて良い。近々研究員のリーダーが接触するから詳細はそいつから聞け。お前はただ家族のことだけを考えろ」
「あぁ、分かってる。そっちは任せたぞ」
近付くヒトの気配を察してロウは通話を切る。突然だったが現場優先なのはエースも承知している。適当に時間が空いたところでかけ直せば良い。
「父さんただいま」
「おぅ、大丈夫だったか?」
「なんとかね」
戻って来た息子はどこか疲れたように答える。服と帽子の中ではそれぞれ尻尾と獣耳が揺れているのだろう。ついこの前まで自分よりほんの少し高い目線で話していたと誰が思うだろうか。
「父さんは電話?誰から?」
「別に。ただの職場の同僚さ」
「そういえば父さんってどんな仕事をしてるの?」
「北極でペンギンの数を数えながら石油を掘ってる」
「へぇー、だから家を空けることが多かったんだね」
多少の学がある者なら誰が聞いても分かる嘘だが、息子は純粋に信じている。いやもう高校生になるのだ。嘘だと分かっているかもしれない。それでも「父さんが言うのなら信用する」という強い信頼が疑念を凌駕しているのだろう。
胸に激しい痛みと苦痛が襲う。罪悪感という名のこの弾丸はかつて銃撃戦を経験したとき、本物の弾が胸を貫いたときよりも辛い。
「ん、まぁな。でもこれからはちゃんと毎日帰って来るから」
「そうなんだ。嬉しいなぁ」
「これからは一緒に夕飯を食おうな」
「うん!」
屈託の無い笑顔を見せる息子。以前は無口で無表情だったのに、豊かな表情と愛おしい姿になるだけでここまで印象が変わるとは。
その輝きにロウは己の目が潰れるような錯覚に陥るのであった。
「父さん、そのサングラスはどうしたの?」
「気にしないでくれ」
A「ロウ。念の為お前の他に護衛を付けようと思うがどのくらい必要だ?」
L「いや、その必要は無い」
A「何故だ?」
L「普段はヒトと大差無いが、周囲を注意していたり何かに集中しているときの耳の良さが尋常じゃない」
A「そ、そんなに凄いのか」
L「昔から音楽が好きだからかもな。いずれにせよ、聞き慣れない音を聴くと監視する前に気付かれるぞ」
A「うわぁ、マジかよ」




