SS-105 とある男達の暗躍
街中の樹々が青く生い茂るこの頃。炎天下の街中でその暑さに耐えかねた男は道を歩いていた。
既に流れる汗でワイシャツの色が変わり、ネクタイを外して少しでも楽になろうとする。まだ昼を過ぎたあたりで夕方の通勤ラッシュにはまだ早い時間。外周りをしているサラリーマンだろうか。
近くの自動販売機の前に立った彼は小休憩にとスポーツドリンクを買う。それを飲んで汗を拭い、駅に向かって歩く彼は人々の波に飲まれて消えた。
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「18人の不法入国者と合計23キロの金の密輸を取引現場見事に的中。現場に部下を送り最小限のコストでこれを阻止。相変わらずだな、ロウ」
レザーチェアから立ち上がり確認した報告書をデスクに放ったのはグレーのワイシャツを着た大男。手にした煙草が小さく見えるのは気のせいでは無い。
結果に満足した大男はその作戦を支持した本人に偽りの無い賛辞を送る。肘を置くデスクを挟んだ向かい側にいる飲みかけのスポーツドリンクを手にしているワイシャツ男へと。
「それを言うためだけに俺をここに呼んだのか。エース」
やつれたサラリーマンという風体から一転、髪を上げて鋭い目つきを見せる。
彼の名はロウ。国を脅かすあらゆる害悪という膿を取り去り、秘密裏に世の平和を守るエージェントだ。
エースは彼の直属の上司でありながら同期であり、これまで数多の死線を共に突破してきた親友だ。2人の間に上下関係は無い。
「いいじゃないか。お前ときたらやっと日本に腰を下ろしたと思ったら定時勤務順守で全然会えないんだから」
デスクの端に腰を下ろして不敵に笑うエースの顔面に回し蹴りが伸びる。が、容易く避けられてしまう。以前より仕事を制限しているというのに全く鈍っていないようだ。
とは言え咥えていた煙草まではそうもいかない。むしろその優れた回避すら計算して煙草のみを蹴り飛ばしたのだ。
「なあぁあ!?それ最後の1本なんだぞ!」
「俺のをやるよ」
「お前は吸わないだろ。というかこれ駄菓子じゃねぇか」
不満を言いつつ差入れを貰う上司を他所にロウは残りのスポーツドリンクを飲み干し、デスクの後ろにあるゴミ箱に投げる。勿論彼の位置からでは死角にあるが、ペットボトルは当然のように中に収まる。
彼の息子が事故に遭ってもう半年が過ぎた。幸いにも彼は一命を取り留めて今は元気に過ごしている。家族内のわだかまりも消滅して以前より充実しているくらいだ。
しかし事はそう単純では無い。何せ息子は娘になり、ヒトをやめてもふもふになって帰ってきたのだ。ようやく掴んだささやかな幸せを守るため、ロウは今まで以上に必死になりあちこちを奔走した。
その甲斐あってあの子は大きな不自由なく暮らしている。しかしいつまでもこのままという訳にはいかないのも事実だ。
「流石にこれ以上の情報規制は難しいな」
「分かっている。何せ身内が喜々として情報を発信しているからな」
これまでの苦労を思い出してロウは思わず腹部をさする。仕事中に娘の写真を撮っては経営するカフェのホームページに載せる母親。そのカリスマ性を遺憾無く発揮して姉の魅力を学校中に広める末妹。浴衣を無料で貸す代わりに広告塔に利用しようとする同じ志を持つ同士。
どんな無謀な任務も顔色を変えずに遂行してきた男が初めて見せる疲労の表情に、エースはその心中を察する。給料ならいくらでも上げてやるのだが今のロウに最も必要なのは時間である。
しかし彼ほど有能な人材がいないのも事実。これ以上融通するのは難しいのが本音である。
「だが問題ない。これまでの時間で準備は全て整った」
「夏休みが明ければ学校イベントが目白押し。高校に他の生徒の保護者が踏み入れば情報規制は困難だ」
「分かっている。しかし裏を返せば彼らをコントロールできればこちらのものだ」
テレビや新聞に雑誌。ソーシャル・ネットワークが構築されて仮想世界までも創造されるこの情報社会。嘘と真実が混沌と混ざり合うこの世界において情報を制することは何物にも勝る力となる。
ではその隅々にまで根を張り巡らせることができればどうなるか。無限に広がる情報世界へ自分に都合が良い情報を流すことができるとしたらどうなるか。
「既に俺達はあらゆるメディアに干渉できる。あの子が善良な存在だと発信すればそれは伝播し、皆の深層心理に染み込むだろう。実に素晴らしい」
「それってある種の洗脳だよな」
「誤解が生じないように正確かつ速やかに伝達するための措置だ。あの子は人類の害悪にはならない善良な存在であると。悪用はしないのだから問題あるまい」
「だとしてもバレたら全世界を敵にすること不可避なのだが」
「私も世界規模のパンデミックは御免だよ」
「駄目だ。話が通じねぇ」
どうやらこの男、そのときは敵対するのなら個人は勿論、国であろうと世界であろうと徹底的にやり合うつもりらしい。そうなれば全国各地で謎の最期を迎える者が大勢現れることになるだろう。
この男からどうしてあんなに優しい子が産まれたのだろうか。あの子の身に起きた不可思議な出来事よりも謎である。
「何はともあれ、これで心置きなく娘の体育祭に参加できる」
「それは何より。では大きな仕事も一区切りついたことだし、久しぶりに飲みに行こうぜ」
「断る」
「仕事抑えているんだから時間あるだろー」
「それは全部家族のものだ。お前にやる時間なんて1秒も無い」
「お前、以前より付き合い悪くなったな」
正直に言ってたまに付き合う程度ならロウも構わないとは思っていた。しかしあの子の能力はそれほど甘くない。
何せ彼は彼女になってからというもの、五感が鋭くなっている。目や耳は勿論、何より鼻の良さがヒトのレベルを遥かに凌駕している。
他にもエースが吸った煙草の臭いが服に付いたことにも気付かれたし、硝煙の匂いを嗅ぎ当てられたこともある。念の為に身体を洗い服を変えたにも関わらずだ。
本人は何となくといった様子だったが、正しくその通りだっただけに流石に肝が冷えた。あのとき以来、敵を制圧するときは銃火器を使わないようにしている。
それでも気付かれるときは気付かれるのが彼女の嗅覚だ。他にも以前に付き合いで軽くお酒を飲んで帰ったとき、お酒臭いと鼻をおさえて嫌がられたことがある。あまりのショックに1週間は立ち直れなかった。
「その気になれば警察犬や麻薬探知犬の仕事もできるだろうな」
「日を追うごとにという程では無いが、少しずつ動物の要素が強くなっているような気がするんだ。今の姿に慣れてきただけなのかもしれないが」
「あの医者は何と言っている?」
「様子を見るしかないと。あの子が元気なことが救いだよ」
「気を抜くなよ。あの医者は俺達の潜入だけではなく、奴らの隠密ですらその存在に気付く。底が知れない」
「分かっている。だが今は静観するしかない。彼がいなければあの子を診ることができる者がいなくなるのも事実だからな」
そう言って2人は残りのやり取りをアイコンタクトで手短に済ませて、ロウは表の世界へと帰って行く。そろそろ戻らないとまた家族を心配させてしまうからだ。
「えーっと、今日は18時までに小麦粉とナスと鶏肉を買わないと。いや豚肉だったか?うわっ、ど忘れした」
数多の困難な任務を完璧に遂行したエージェント。しかしその正体は仕事を優先するあまり家族との関係を希薄にしていたしがない父親に過ぎない。
3人の娘に慕われる理想の父親。過去最難関の任務を達成するために彼は近所のスーパーに走る。
詩「パパ、これはどういうことなのかな」
父「いや、その。どれを買えば良いのか分からなくなってしまって」
詩「だからって鶏肉と豚肉と牛肉を全部買ってくるのはどうなのさ。こんなにたくさんどうするの」
父「でもほら、国産の良いやつを買ってきたんだぞ」
詩「パパは予算というものを知らないのかな。これ全部でいくらしたのさ」
父「ごめんなさい」
母「まぁまぁ、その辺にしましょうよ詩音」
愛「お肉なら私がいくらでも食べるよ」
詩「鶏の胸肉を買ってってお願いしただけなのにどうしてこうなるかなぁ」
琴「一応あるから良いじゃない」
詩「それササミだよ」
愛「あちゃー」




