EP-103 備えあれば憂いなし
この日、「Lesezeichen」に珍しいお客様がやって来ていた。注文したパンケーキを美味しそうに食べて、口に残る甘みと一緒に砂糖無しの紅茶を嗜む。
「わぁ、これ美味しいですね」
「ありがとうございます。戌神さん」
嘘偽りの無い称賛の感想に尻尾が揺れる。ケーキも紅茶もママが用意したものだけど、美味しいと言ってもらえると自分のことのように嬉しくなる。
彼女が前に店に来たのはひのえちゃんとこのと君の散歩のお誘いをしてくれたとき。でも今回はその2匹も連れていなくて、1人のお客様として来てくれたのだ。
何でもいつものように仕事をしようとしたところ、竜崎先生が唐突に休みを取るように言ったのだとか。
半ば強制的に休ませられたものの、特に行くあても無い。考えた結果、私の様子を見るついでにのんびりお茶をすることにしたという訳だ。
「お休みなんて要らないって言ったんですよ、私。先生や皆んなと一緒にいる方がずっと楽しいし」
「そうですか」
「むしろ先生の方が心配ですよ。深夜の訪問診察だって少なくないですし。今日だってちゃんとご飯を食べているのかどうか」
「心配ですね」
「そうなんです。先生は獣医師としては凄いのに洗濯機もまともに使えないんですよ。私がもっとちゃんとしないと」
「困ったヒトです」と口を尖らせているけど、表情を見ると心配してくれたことによる嬉しさの方が勝っているのがよく分かる。
何だろう。日頃のストレスを愚痴にして発散しているようで、その実は互いを想っていることがよく伝わる。これが惚気話というやつか。
いつの間にか愚痴の吐露も終わり竜崎先生がいかに凄いヒトなのかを語り始める戌神さん。甘酸っぱい内容にキッチンにいるママが慈愛に満ちた表情で微笑んでいる。
他人の恋愛話を楽しそうに聞くのは良いけど、私に言わせるとママとパパも大概だよ。喧嘩もするけどなんだかんだと仲が良いからね。
「あっ、ところで詩音君。最近調子はどう?気になることとかない?」
饒舌になっていたことを自覚したのか、戌神さんは恥ずかしそうに咳払いをすると露骨に話題を変えた。
私は竜崎先生では無いけど、確かに可愛いヒトだと思う。
「はい、今回の満月も特に問題無く過ごすことができました」
「それは良かったですね」
「でもまぁ、学校を休んだせいでちょっと大変なことになりましたけど」
「えっ!?大変なことって何かあったのですか?」
頬を赤く染めていたのを一転させて、体を向きを変えて私の話を真剣に聴こうとする戌神さん。そこまで深刻な話でも無いから申し訳ないな。
肩の力を抜くように前置きをして、私は体育祭について話をした。
「持久走ですか。大変ですね。私も運動は苦手なのでその気持ちはよく分かります」
「詩音は昔からスポーツとは無縁だったものね」
「大根より重いものは持ったことがありません」
「最近はどんな運動をしましたか?」
「海で泳いだくらいです。あとは猫じゃらしであんこと遊びました」
「それは運動とは言わないわよ」
最近はお腹周りも落ち着いてきたけど、これは身体を動かしたというより食事に気を付けた成果だからね。
体育の授業以外で息を切らせたことなんて無い。
「毎朝ジョギングする?」というママの言葉に私が震えている間、戌神さんは思案するように目の前の紅茶を見つめる。やがて先程まで惚気ていたのが嘘のように真面目な顔を上げると、スマホを取り出して竜崎先生と連絡を取り始めた。
「分かりました。ではそのように。よろしくお願いします」
「どうかしましたか?」
「ええ。その体育祭ですが私達も参加させて頂きます」
「保護者が参加できる種目はありませんよ」
「分かっています。臨時で手伝いに来た保健室の先生ということで参加します」
「えっ、どうしてですか?」
「詩音君は今の姿になってから、まだ激しい運動をしたことが無いのですよね。予期せぬ事態が起こらないとも限らないので、直ぐに対応できるように近くで待機しておく必要があると思いまして」
確かに普段よりは怪我をしやすい状況ではあるだろうけど、私1人のために病院を臨時休業してまでやることなのかな。
いや、医者としては最悪を想定して対応しないといけないのか。なんというプロ意識。志が高過ぎて休日なのに完全に仕事モードになっているよ。
「でもそんなのご迷惑では」
「竜崎先生は二つ返事で了承してくれましたし、学校も事情を説明すれば許可してくれるはずです。大切な生徒のことですから」
「良いじゃない。お言葉に甘えましょうよ」
戌神さんの提案にママも賛同する。私が他人に迷惑をかけたくないと思うように、親としては子どものためにどんなことでもしたいのだろう。
悪く言えば余計なお世話。でもそれは私の身を心配しているからこそ。断る理由はないか。
「よろしくお願いします」
「こちらこそです」
「それではお礼の代わりにもう1つ何かいかがですか?竜崎さんへのお土産も一緒に」
「本当ですか!?わぁ、どれにしようかな」
料理のテイクアウトはやっていないけど、店主であるママが良いというのなら良いのだろう。冷めても美味しいものって何があったかな。
「体育祭楽しみだわー。詩音の勇姿をばっちり撮ってやるんだから」
「またあのバズーカみたいなカメラを使う気なの?周りのヒト達絶対に引くよ」
「別に良いわよ。ヒトが居なくなるならそれに越したこと無いもの」
もしもママのカメラがスナイパーライフルだったと思うと怖いよね。シャッターを押した回数だけ狙撃されているということだし。
せめて変な姿を撮られないようにしたいけど、走っている最中とかそんなの気にしている余裕がないんだよね。それこそ持久走の後半なんてどうなっていることやら。
「そんなに不安なら少しでも練習をすれば良いじゃない。陸上部の友達もいるんでしょ。教えて欲しいってお願いしてみたらどう?」
「あんまり迷惑かけたくないし」
「それなら愛音は?今なら部屋であなたを応援するためのグッズを作っているはずよ」
「それは止めさせてよ」
水泳のときは他に方法が無いから仕方がなかったけど、愛音には極力頼りたくない。調子に乗る姿が目に浮かぶもん。
「そんなに気に病まなくても大丈夫ですよ。始めてしまえば精々十分程度で終わりますから」
「そりゃそうですけど」
「詩音君が運動が苦手なことはクラスの皆んなも知っているのですよね。ならば良い順位を取ることより、最後まで頑張ることを目標にして下さい。一生懸命頑張る気持ちは連鎖します。その姿は皆んなに勇気と力を与えるはずですよ」
そう言って励ましてくれる戌神さん。強い思いが込められたその言葉はきっと彼女の実体験だろう。
普段は2匹の犬に振り回されている竜崎先生だけど、病院に訪れる動物や私を診るときに時々みせる真剣な姿は格好良い。確かにあの姿は憧れるな。
どうせやるなら皆んなのために。そう考えると少しだけやる気が出た。ような気がしなくもない、かな。
戌「よし!これとこのケーキをください」
詩「2種類ですか。どうして同じものにしないんですか?」
戌「いやその、どちらか選べる方が良いかなーっと」
詩「でも食べるのは1つだけですよね。初めから1種類ならそもそも選ぶことも無いのでは?」
母「分かってないわね。半分ずつとか一口あげるとかすれば両方の味を楽しめるでしょ」
戌「そう!そういうことです!」
母「あわよくば自分のフォークで「あーん」とかして「はっ!もしやこれは間接キス!?」とかやりたいのよ」
戌「わぁ!言わないでくださいよ!」
母「言わないでということはやるつもりだったのね」
戌「はぅ!?」
詩「仲が良いんですねぇ」
戌「違うんですー!誤解ですー!」




