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あかちゃいろ

元史官を父にもつ記録者の娘。歴史を紡ぐ意味を問う。

 父に呼ばれてへやへと入ると、其処にはもう一人、男が座っていた。

 私よりも数歳年上だろうと思うが、もっと年嵩にも見える。精悍だったろう顔立ちは、辛酸を刻んで細っていた。身に纏っている服も擦り切れた印象だ。しかし、伸びた背筋は屈託など一切感じさせない。

「娘さんですか」

 張りが有る声の中に微かな違和感を覚える。流暢だが、僅かに異国の響きがある。失礼にならないよう気を使いながらそっと窺うと、瞳は私の知る人の誰より明るい色をしていた。

「ええ。わしも萎えた身体には勝てません。最近ではこの娘に書き取ってもらうことが増えましたのでな。貴方のお話も、この娘に書き記させましょう。よろしいですかな?」

 彼の同意を受けながら、私は呼ばれた意図を理解した。

 一礼して立ち上がり、房の隅に置いてあった文机へと向かう。墨を磨ると、馥郁たる芳香を放つそれに筆をつけた。

「正直なところを申し上げますと、俺はあまり話が上手くありません。聞きづらいところもあるでしょうが、どうかご容赦下さい」

 礼儀正しく断って、青年は暫し言葉に迷うように逡巡してから、語りだした。

 彼の敬愛する、今は亡き主のことを。


 青年が何度も礼を執りながら帰っていくのを見届けた後、私は話を聞きながら作った覚書に目を走らせる。

 それは、彼が長く仕え、国と共に消えた、小国の美しい公主ひめぎみの物語。

 この国に征服され滅ぼされたひとの、歴史。

「父上…ご承知の上で、あの方をお呼びになったのですか?」

 差し出がましいことは承知の上で、尋ねる。

 父が任じられていた史官とは、この国のための歴史を綴るための役職である。対して、先の青年の話は、この国と対立して敗北した側の美談。表には出づらいものだったゆえに、個人的にはとても心を惹かれ、興味深い話だった。なれど、国にとっては歓迎されざる逸話ゆえに、もし、このような記録を敢えてとったと知れれば、咎められることもありうる。

 そう懸念して問い掛けると、刺青の残る額に皺を刻み、ぼさぼさの髭を扱きながら、父は頷いた。

「…史を記録する者として、ずっと考えておったことがある」

 実年齢以上に年を重ねて見えるのは、父も同じだった。余さず黒髪で、若い頃から旅を好んでいたためか文官らしからぬ頑健な身体をもっていた父だったが、数年で数十年分の年を取ったかのように、すっかり小さな老人のような風情になってしまった。

 陛下のご勘気を蒙ったためだ。陛下をお諌めしたためと聞くが、詳しくは分からない。

 父は職を剥奪され投獄、その後釈放されたが、位が戻ることはなかった。私たちは家財を手放し、裕福な遠い親族の援助を受け、小さな家に移り住んで細々と生活するより他無くなった。

 それでも、私が父の手となり筆となっているのは――職を失くしたとしてもなお歴史を綴り続けようとする父を敬愛しているから。そして、私もまた、歴史に惹かれているから。

「歴史は常に、勝者が編むものだ。それは、残念ながら、揺るがぬ」

「はい」

 たとえ、敗者が編んでいた歴史があったとしても、見つかれば圧殺される。どんなに貴重なことも、残すべき教訓も、全て。

 それを口惜しいと歯噛みするのは、恐らく、歴史を辿ろうとする誰もが経験したことではあろう。

「父上は、拾遺をお作りになりたいのですか」

 史書から零れた事柄を集め、まとめたいということだろうか。たとえ、偽史の謗りを受けてでも。

「そうとも言えるし、そうでないとも言える。…お前は何故、歴史に惹かれた?」

 自分の根元を知りたい、また過去のあやまちを繰り返さぬようにしたい、と思わないでもない。なれどそれはどちらかといえば学ぶ意味だ。惹かれた理由ではない。学びとは、自らの身を守るために行うことだ。この身を滅ぼすかもしれないと分かっていても止められない理由にはならない。

 だから私は少し考え、呟いた。

「…其処に人が居るから、でございましょうか」

 書物を通してしか接することはできない。全くそのままの人と接するわけでも、ない。

 それでも、歴史は畢竟、人々の息吹を紡ぐものだ。人の営みに、人が惹きつけられるのは、至極当然だ。少なくとも私は、そう思う。

「儂もそうだ。歴史とは本来、国家の正当性を補強するものではない。人々を繋ぐきざはしであろうと思う」

 一人では時の前に儚いが、語り継ぐことで、人は時を越えられる。

「歴史を語るとは、つまり、誰かが生きた証を語ることだ」

 それが、私の発した問いへの、父なりの答えなのだろうと分かった。

 消えていった国々、滅びた日々、失われた人々。もう、取り戻すことは出来ないものたち。

 それを一人の胸の内に仕舞わせてしまうことは、呑み込まれていった全ての存在を見殺しにするに等しいのかもしれない――そういう、ことなのだろう。

「いずれは風化し、消えていくこともあろう。けれど、忘却に忍びないこともある。正史でそれを語ることが出来ぬなら、儂が引き受けよう。…そう、思うたのだよ」

 一拍、躊躇うように父は視線を宙に投げたが、すぐに私を見た。

「なれどもう、儂には独りで行う力は残されておらぬ。ゆえに此度はお前を付き合わせてしまったが」

「今更でございますよ、父上」

 父が何を迷っているか分かっていて、私は笑う。

 既に一度巻き込んでおいて、今更言っても致し方ない。そう暗に言ってみせると、父は再び髭を扱いた。

「うむ、しかしなあ」

「それに、私、父上の娘でございますゆえ」

「ふむ?」

「私も、歴史に取り憑かれております」

 恐らく、兄弟のうち、誰よりも父に似た歴史狂いだと自負している。女だてらに学問を好み、歴史に没頭する変わり種。

 父は苦笑まじりに喜んでくれたものだが、女の身では、元より正史を編むような立場になれよう筈も無かった。父の跡継ぎにはなれないのだから、手伝いをするぐらいで満足せねばと言い聞かされてきた。

 なれど。

「その歴史ならば、私も編む一助が出来ましょう。そのことが何より、嬉しいのです」

 父は髭を扱く手を止め、唖然とした後――唐突に、笑い出した。

「全く。さても愚かな孝行娘を持ったものよ」

「私、父上の娘でございますゆえ」

 澄まして答えてみせる。父はまだ笑い続けている。

 露見すれば、罪に問われることは確実だ。ゆえに、これこそが歴史の砂にいずれ埋もれるような、儚い試みなのだろう。

 それを承知の上で、継いでいく。人の息吹を、歴史として編んでいく。

 滅んでいった美しい公主のように、罪人となった史官のように。

 日陰に追いやられた、なれど忘れ去られざるものたちの記憶を。


 世界の主役は皇帝陛下周辺。趣味に走って似非古代中華歴史風です。

 実は語り手父にはこっそりとモデルにした方がいらっしゃいますが、恐れ多すぎて口に出来ません。所詮捏造だらけですからと逃げさせてください。


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