第七十五話 自白篇
ウィジャボードの幽霊は天井辺りでぐるりと一周し、ミカ、吸血鬼、エリザベスを順繰りに睨みつけた。そして、最後にミカの真上に留まると、なんと、体を散り散りにして消え去ったのだ。散り散りになった体は、黒い雨になってミカに降り注いだ。墨のような液体は、狼の無防備な唇に当たり、それを舐めてしまったミカはついに分かりやすく錯乱し始める。
ガアアア、ガアアアという鳴き声が、まさか狼のものであるとは想像できないだろう。健康な狼なら確実に発さないような声を上げながら、ミカは頭を振り乱し、右足、左足を満足に踏み替えることもできない。その場でフラフラとしたミカは、あろうことか自分の足を思い切り噛み始めた。
「ミカ!! 辞めなさい! 辞めるんだ!」
叫んだ吸血鬼はミカに駆け寄ろうとしたが、錯乱した狼に慄いて数歩で止まってしまった。ミカの足はみるみる血だらけになって、絨毯に同系色のシミを作っていく。
「ダメだ、このままじゃ君が……! ウィジャボードの幽霊はもういないんだぞ!!」
ミカを苦しめているのは、ウィジャボードの幽霊が見せた幻覚であった。ミカが見ているもなが何なのか、吸血鬼とエリザベスには見当もつかない。けれど、それをこのまま見続ければミカが危ないことは明白だった。
その時、エリザベスが吸血鬼の後ろからすごい勢いで飛び出した。ネグリジェの裾をたくし上げてダッシュするエリザベスは、真っ直ぐにミカへ向かっていく。弾丸のようなエリザベスに、ミカはまだ気がついていない。
「レディ・アンデッド!!!」
「うあああああああああっっっーーーー!!」
エリザベスが雄叫びを上げる。彼女はミカの背後に回り、その脇に両手を戸惑いなくかけた。エリザベスが両足を踏ん張れば、体長二メートルの狼の前足が持ち上がる。
「うあああああああああっっっっーーーーあっっっっ!!!!」
二度目の雄叫びは野太く、山なりの音程で轟き、床に叩きつけるように止まった。実際に叩きつけられたのはミカの体だ。なんとエリザベスは、一匹の巨大な狼を一本背負いで投げ飛ばしたのだ。
狼の悲惨な悲鳴が一瞬で途切れる。
ドンッッッ!!! という激しい音と建物の揺れに、吸血鬼はギュッと目を瞑って顔を背けた。薄目を開いて様子を見れば、舞い上がった埃の向こうで、満身創痍の狼の体が、徐々にその体長を縮めていったのがわかった。
ある程度埃が収まってから、吸血鬼はエリザベスの隣に並んだ。
「君はすごいね……」
「意気地なじどば違いまずわ」
投げ飛ばされた衝撃で気を失ったミカは人間の姿に戻り、床の上で伸びていた。驚いたことにミカは全裸で、周囲を見渡せば確かに玄関扉の近くに、元は服だったはずの布切れが物悲しげに散乱していた。
「ミカ、起ぎでぐだざいまじ。わだぐじのぜいで死んでじまっだなんで嫌でずわ!」
エリザベスがミカの腕を掴み、揺さぶる。しかし、その腕の滑らかさに違和感を覚えて、エリザベスはミカの肌を撫でながらポツリと呟いた。
「どこにも傷がございまぜんわ」
その時、ううっと呻き声がして、ミカがゆっくりと目を覚ました。
「あっ、ミカ!」
呼びかけたエリザベスと、ミカの目が合う。
「……ねえさん、ん」
しかし、起き抜けに、腕から何からそこかしこの肌を摩る、灰色の手が目に留まる。
羞恥にミカが叫んだ。
「うわあああああああ!!」
釣られてエリザベスも叫んだ。
「うわあああああああ!?」
しかも俺、服着てなくない!?
「うわあああああああ!!」
何が何だかわからない。
「ああああああああ!!」
玄関ホールに二人の悲鳴がこだました。その頃、吸血鬼はミカの服の残骸を集めて回っていたのだが、二人の騒ぎようを見かねて、足早に戻ってきた。
「落ち着きなさい、青年。元気そうで何よりだが」
そう言う吸血鬼の顔は、眉を顰めながらも心なしか安堵の表情をしていて、全裸で玄関ホールに放り出されたミカの心を、平常心で満たすことに成功した。
「吸血鬼さん、俺……?」
「話は後で聞くよ。ところですまないが、君の服で無事だったのはこれだけだ。ズボンやシャツも直せるようなら直したいが、あまり期待しない方がいい。ほら」
そう言って、吸血鬼は腕の中の布きれたちから赤い布を引っ張り出して、ミカに投げてよこした。それは、ミカがいつも首に巻いていたスカーフで、ウィジャボードで引き出した彼の記憶が言うには、昔姉に貰ったという……。
「あっ!」
赤いスカーフを受け取ったミカが、突然カタカタと震え始めた。異常を感じたエリザベスは、ミカの背中を支えて声をかける。
「ミカ? どうじまじだの?」
ミカはスカーフをじっと見ていた。それから、思わず手に力が入った様子で、スカーフをしわくちゃになるほど握りしめる。
バッと音がなるほどの勢いで顔を上げたミカは、エリザベスと吸血鬼に血走った目を向けて言った。
「俺が殺しました!!」




