第百三十一話 悪魔の血篇
ジャクソンの目には、血の女王の体から血のごとく流れ出た黒い液体、それしか映っていなかった。モンスターを拘束する薬品で麻痺していたはずの体は、黒い液体に対する強い欲求に支配され、手足を動かして床を這いずっている。
そんなジャクソンの足を、ミカがパッと掴んだ。
「ジャクソン! 行っちゃダメだ!」
ミカは、ジャクソンの片足を、上半身で抑えつけるように抱える。すると、ジャクソンが血走った目でミカを振り返った。いや、実際には、その目にミカは映っていないのだろう。ジャクソンは、人とモノの区別がつかなくなったかのように、足を暴れさせて、ミカを乱暴に振り払おうとした。ミカは焦る。ミカは、この状況を全く理解していなかった。ミカの隣で床に倒れて動けなくなっていたはずのジャクソンは、黒煤が血の女王を傷つけた途端、急に苦しみ始めて、血の女王に近づこうとしたのだ。
血の女王を見ると、彼女はまだ黒煤の化け物と対峙している。
焦ったミカは、思い切り腹に力を入れてジャクソンの足を引っ張り、自分のもとに引き寄せた。そこで足を踏ん張った勢いで、ミカの体は起き上がり、床に尻をついて座り込んだような姿勢になる。
あまりに無闇に引っ張ったせいで、ジャクソンの側頭部を床にドンッと打ち付けてしまった。
「あっ、ごめん!」
痛かったろうとジャクソンの顔を覗き込むと、ジャクソンは頭を打った衝撃で一度目をギュッと瞑り、それから開いた時には、焦点のあった目でミカを見上げた。ジャクソンが正気を取り戻したように見え、ミカはほっと胸を撫で下ろす。
ジャクソンは、何かを言おうと口を半分開いたが、困惑した表情のまま、結局一言も出てこず、周囲をおろおろと見回した。ミカはますます心配になって、ジャクソンに恐々と声をかける。
「なあジャクソン、なんで、エリザ……アレに向かって行ったんだ? ジャクソンの考えはわかんねえけど、絶対危ないって。ってか、アレと戦ってるあの黒い幽霊って……」
話しながら、血の女王と黒煤がいる方に目を向けたミカは、言葉の途中で口を閉ざす。
「は――?」
そこで行われ始めた騒ぎに、驚愕し――呆れて言葉もなかったのだ。
もともと、黒煤が血の女王と戦い始めた……というより、一方的に蹂躙し始めたときから、地下学会の者たちは歓声を上げ手を叩きながら動き回っていて、かなりうるさかったのだ。だから、彼らの動向よりジャクソンを止めることに夢中になっていたミカは、この衝撃の光景にすぐに気付けなかったのだ――地下学会の者たちが、血の女王が流した黒い液体をかき集め、頭から浴びて恍惚の表情を浮かべている光景に。
地下学会の者たちは、血の女王の周囲に集まって、ローブを脱ぎ捨て、全身に黒い液体を塗りたくっている。その筆頭は、当然のようにアルバートだった。ただ、身の丈二メートルほどもある大柄な男の体、その全貌を目の当たりにして、ミカは顔を顰める。なんだあれ、気持ち悪ぃな。そうだ、ミカはアルバートの体を素直に気持ち悪いと思った。
アルバートは力が強く、暴力に長けていた。だからてっきり、ローブの下は筋骨隆々なのだと思っていたが……実際には、ガリガリに痩せ細っていたのだ。肩幅こそ武闘家のように広いが、肋骨は浮き出ているし、腹など内臓が入っているのかも怪しいほど薄い。そんな、どことなく節足動物を思わせる体に、アルバートは黒い液体を素手で塗りたくりながら、興奮して上擦った声を上げた。
「アァッ! これでまた美しくなれるワ!」
美しい? あー、そう……。
他の者たちも、大体はアルバートと同じようなものだ。各々が、血の女王から流れる黒い液体を手に掬い、体に塗ったり、瓶に詰めたり、口から飲む者までいる。
「よかった、これでまた生き永らえる!」
「肌が若返るわ!」
「これが、悪魔様がもたらす不死の血なのですね!」
その間も、黒煤は血の女王の皮膚を削り続けているが、地下学会の悪魔信者たちが巻き込まれる様子はない。血の女王は拘束の薬で動けなくなっているし、黒煤は、信者たちが煽てるほどに嬉々として血の女王を攻撃し続けている。
黒煤と地下学会の者たちの関係性を見て、ミカは気がついた。この儀式は、血の女王を讃えたり、はたまた別の悪魔を讃えたりする儀式ではない。黒い液体が欲しい地下学会と、血の女王を傷つけることが楽しい黒煤の幽霊、双方の利害が一致した、搾取の場なのだ。
ミカの腕の中で、ジャクソンが再び暴れ始めた。
「ぐううぅ! うううう!」
いつも理知的に振る舞っているジャクソンが、野生動物じみた唸り声をあげ、ミカの腕に噛みつこうとしている。しかし、霊体であるミカを害することはできず、もどかしさに呻いているようだ。
ミカは、険しい顔をしてジャクソンに言った。
「ジャクソン、あの黒いのが欲しいのかよ。あれはダメだよ。うわ、行くなって! 腹減ってんの?」
ミカが、ジャクソンにしがみついて必死に引き留めていると、一人、横から誰かが近づいてきて、二歩分ほど離れたところからミカに声をかけてきた。
「ヴァンパイア様は、血を求める種族。悪魔様の血は、あまりに魅力的なのよ」
ミカに話しかけてきたのは、黒ローブをまとったおばちゃんだった。フードを脱いでシワのあるふくよかな顔を露わにしていて、優しそうに見えるが、それでも地下学会の会員だ。ミカは警戒して、ジャクソンを羽交締めにしたまま、足と尻でジリジリ後退りし、おばちゃんから離れようとした。
「なんだよ、悪魔様の血って。あんなの悪魔でもないし血でもないだろ」
「ああ、ゴーストの坊や、お静かにね。わたしは一般の信徒だけど、ゴーストなんか見慣れてるの。怖くなんかないのよ」
ゴーストだぞ怖いだろ、なんてミカは脅していない。なのに、質問には答えずそんなことを言うなんて、このおばちゃんも話が通じないな、とミカは瞬時に判断した。
おばちゃんは、ミカが閉口しても気にせず喋りかけてくる。その手には、黒い液体が入った瓶を持っていた。
「この血は、悪魔様が我々にもたらしてくれる、奇跡の血なの。死霊のパワーが凝縮していて、体に取り入れれば素晴らしい効果が得られるわ。ヴァンパイア様にとっては、ご馳走なのよ。ほらね、ヴァンパイア様は、この悪魔の血が飲みたいのでしょう?」
おばちゃんは、さも親切そうに、黒い液体が入った瓶を、ジャクソンに向けて差し出した。我を失ったジャクソンが腕を伸ばそうとするので、ミカは慌てて、ジャクソンを羽交い絞めにしたまま立ち上がった。
ジャクソンの元来赤い瞳は、より色濃くなってゆらゆらとしている。ジャクソンの両目両手は、瓶に入った黒い液体に夢中になった。
黒い液体は、血の女王を構成していた死霊の凝縮液である。吸血をしないミカには、あれが無彩無臭の泥水のように見えているが、ジャクソンは遠巻きにも、その芳醇な甘い香りを感じ取っていた。
その香りは、嗅ぐだけで甘美な味を想像させる。鼻腔から入った匂いは、脳に絡みついて刺激する。それはもう、拘束薬の刺激臭の残り香なんか、跡形もなく吹き飛んでしまうくらいに。
「あ……、あ、飲みたい。飲ませて……」
ジャクソンは、掠れた声で譫語を言う。
彼は血を飲んだことのない子供のヴァンパイアなのだ。そんな彼に、人間の血の何倍ものエネルギーを持つ悪魔の血が、どれだけ耐え難い刺激であることか。




