第百三十話 血の女王の祭典篇――その一
やがて、「血の女王の祭典」は厳かに始まった。
祭司であるアルバートは、祭壇に向いて立っている。祭壇の上に雑多に置かれていたフラスコやら実験器具やらは、あれで片付けたつもりか、祭壇の足元の床にバラバラと降ろされている。しかし、割れた試験管はそのまま祭壇の上にあった。試験管の中身――黒い煙――は、もう解放されてしまっているが、本来は供物の扱いであったのだ。
端に追いやられていた逆十字は、祭壇の中央奥に置き直されている。そして、逆十字の手前には、先ほどまではなかった供物が新しく用意されていた。
その供物は、薄いまな板のような銅のプレートに、整然と並べられている。乾いた質感のベージュ色をしたその供物は、薄っぺらいが、大きいものから小さいものまで様々あり、中にはプレートからはみ出てだらんと垂れるほど、長いものもある。その正体は、離れた場所から眺めるジャクソンにはわからない。
アルバートが、祭壇の前に跪いた。すると、礼拝堂を囲むように壁際に並んでいた黒ローブの者たちが、低い声で何やら呟き始める。拍子もなく、抑揚もない合唱は、何を言っているのかも聞き取れない。「どどどどどど」と動物の足音のモノマネをしているようにしか聞こえない。ふざけている、ただし、聞いている者の不安を煽る合唱だ。
アルバートは、手に分厚い本を持っていた。革の表紙カバーには、細かな宝石で装飾が施されており、絢爛豪華である。祭司の彼が持っているのだから、あれは彼らにとって聖典にあたる本なのだろう。
不気味な合唱を背に受けたままアルバートは立ち上がり、本を開いて、祭壇の向こうの悪魔の絵を見上げた。
――どどどどどどど。
悪魔信者たちの合唱に、アルバートの詠唱が合わさる。
「美の牢獄、冷酷の砦、赤き雨浴びる血の女王よ。薄き肌は麗しく、時を越えて美貌を保つ」
絵画の中で、血の女王と呼ばれる悪魔は、酷薄な表情で信徒たちを見下ろしている。しかし、感動など無さそうな顔の表情に似合わず、両手は恍惚の舞を踊るように振り乱れ、腰を捻り、艶かしい。真紅のドレスは片方の肩からはだけ、その美肌を見せびらかすかのように描かれている。
――どどどどどどど。
「我らは女王のために身を差し出す者。慈悲深き悪魔よ、現れ出でたまえ! 血の女王・エリザベス!」
エリザベス。それが、ここにいる地下学会の者たちが信奉する悪魔の名前か。
アルバートが詠唱を終え、悪魔の名を口にした瞬間、天井付近で揺蕩っていた黒い煙の一部が分離し、金切り声を上げながら祭壇に向かって飛んでいった。
最初、アルバートを襲うのかと思われた黒い煙だったが、アルバートがサッと跪くと、煙は彼に見向きもせずに祭壇の供物に覆い被さった。
すると、銅板に乗せられていたベージュ色の供物の全てが、煙に包まれて浮き上がった。煙は、縫い糸のようになって供物同士を繋げていき、次第に一つの形を成していく。
黒い煙の塊は、ベージュ色の供物をその表面に隙間なく貼り付け、ついに人間の形をとった。内臓もなく、骨もない、ただ肌を張り合わせただけの存在だが、外側から見れば、これは確かに裸の女性の姿であった。
これが、血の女王?
ジャクソンとミカは、目を疑う他ない。礼拝堂に現れた人間の真似事のような存在に、二人は紛れもない嫌悪感を覚えた。
すると、血の女王は寄せ集めの肌で覆われた両手を恐る恐ると動かし、己の体をぎゅっと抱きしめた。
それから、聞こえてきたのは、何人もの女性の、歓喜に震える声だ。
「ああ! この腕、わたしのものだわ!」
「この髪と頭皮はわたくしの! 間違いない、わたくしのもの!」
「右足の付け根はわたしの!」
「脇腹のここはあたしのものよ!」
「返ってきた……ああ、わたしの体!」
女性たちの声は、血の女王の全身から、とめどなく、重なりあいながら湧き出てきている。それは、先ほどまで黒い煙が発していた金切り声ではなく、「自分の体を取り戻す」という悲願が叶ったことに打ち震える、哀れなだけの被害者女性たち本来の声だ。
ジャクソンは、女性たちの言葉を聞いて理解した。血の女王の体を形作っているベージュ色の供物は、若い女性を殺して剥いだ肌を、保存処理したものだったのだ。綺麗な女の、一番綺麗な部分の肌だけを奪って、他の体の部分は捨ててしまう。残った魂は試験管にぎゅうぎゅう詰めにして保存しておく。ひどい仕打ちを受けた女性たちの魂は、死霊へと変容し、失われた体を求めるようになる。そうして、女性の死霊の塊が、やっと取り戻した肌を継ぎ接いで形を成したのが、「血の女王・エリザベス」なのだ。
――坊ちゃんのお父様ってヒーローなのよ。あたしたちの儀式には、どうしても若い女の血肉が必要で、それを調達してくるのが、カリスの役目だったの。
アルバートの言葉が思い出される。察するに、「血の女王」を作るための供物を集めるのが、ジャクソンの父の役割だったのだろう。
その役割を、地下学会は、ジャクソンに継がせようとしている。
ああ、なんて残虐で、馬鹿げてるんだろう。人間を殺して、死霊にして――こんなものは悪魔でも何でもないのに。人間を殺せば怪物になる。それは、人間同士だって同じことだ。
「僕は……怪物にならない――絶対に」
ジャクソンはつぶれた喉と麻痺した唇で、完全に声にならずとも構わず、言葉にして誓った。
その時、血の女王を痛ましい思いで見ていたジャクソンの視界の端で、ミカが身じろぎするのが見えた。そちらを見ると、ミカは震える両手を床について、今にも上半身を起こそうとしている。人外を拘束する薬物は霊体であるミカにも効いていて、ジャクソンと同様に動けないはずなのに、何をしようというのだろう。
ミカは、全身が痺れるだろうに、うつ伏せの姿勢から腕先を支えに背中を反らせて、礼拝堂の広間に佇む血の女王を、真っ直ぐに見つめようとする。ミカが顔の向きを変えたことで、その隣に倒れるジャクソンにも、ミカの表情が見えるようになった。
そこで、ジャクソンは絶句する。
ミカは、涙を流していた。血の女王を見ながら、静かに泣いていたのだ。しかし、悪魔もどきを怖がっているのとは違う。奥歯を噛みしめ、眉を吊り上げ、その表情は怒りに満ちているように見えた。
いや。
事情を知らないジャクソンにはミカの気持ちを完全に理解することはできなかったが、ミカは悔しかったのだ。目の前の死霊の塊が、何を模しているのかがわかったから。
「エリザベスの姉さん……」
ミカは、なかなか言うことをきかない体を叱咤して、立ち上がろうと奮闘した。別に、薬の効果が切れてきているとか、そういうわけじゃない。ただ、根性だ。痺れようが感覚がなかろうが関係ない。動け。動け。
ミカは、一緒にに「極夜の館」に住んでいるゾンビの姉さん――エリザベスの過去についてよく覚えていた。吸血鬼が読み聞かせてくれた、極夜の館になぜかある「日記」、その内容を。
エリザベスは、若い娘を殺し、健康な肌を手に入れては自分に移植することを繰り返していた。それは、紛れもなくエリザベスの罪だ。誰に赦されることでもないし、一生向き合っていかなければならない事実だ。
それでも、いや、だからこそ、彼女の罪が「悪魔」として祀り上げられ、関係のない女性たちまで巻き込んで、さらには紛い物を作られていることが、ミカはものすごく辛かった。
「姉さんは、そんなんじゃない……」
そりゃあ、昔は悪い人だったかもしれないけれど、こんな扱いをされるのは、なんか違うはずだ。エリザベスは、自分が犯した罪を悔いている。それなのに、何年も経った今でも自分の知らないところで、自分の罪が引き継がれる形で被害者が出ているなんてこと、彼女はきっと、望まない。
「姉さんの罪を、弄ぶな……――!」
ミカが、息も絶え絶えに呟いた言葉が、ジャクソンに聞こえたかどうか知らないが、彼がヒュッと息を飲んだのがわかった。
ミカがあの「血の女王」の由来について知っていることを、ジャクソンに知られたらどうなるだろうか? 極夜の館のことを、過去の吸血鬼さん(ジャクソン)に話し過ぎるのは、まずいことのような気がする。まあいいや。何か聞かれたら、適当に誤魔化しておこう。
だって、ミカはもう、この悔しさが抑えきれないのだ。セレーンさんも、エリザベスの姉さんも――多分吸血鬼さんも、「日記」に書かれるようなダメな過去がある。それはミカだって同じだ。だが、そのことを知る前から、ミカたちは、極夜の館で家族も同然に生活してきた。
エリザベスの姉さんがどんなに罪深い人だろうと、ミカは、姉さんのことが大好きなのだ。




