第百十八話 ゴーストと吸血鬼篇
部屋を出た吸血鬼は、すぐさま階段を下りていった。ミカと四匹のコウモリたちも、黙って彼を追いかける。今すぐこの場から逃げなければいけない気がしたし、吸血鬼が踵を返すとき、「ついて来い」というように、一瞬ミカを見た気がしたので。
ミカの直感や希望的観測も、あながち「気のせい」ではなかったようだ。階段を下りながら、吸血鬼はミカの方を振り返らないまま、別に興味もなさそうな口調で尋ねてきた。
「君、何であの部屋にいたの?」
「えっ、たまたまっすよ……たまたま」
つい、いつもの癖で下手な敬語を使ってしまったが、とんでもなく違和感があった。ここにいる吸血鬼は、いつもの彼より幼く見え、ちょうどミカと同年代っぽいのだ。年の近い若者同士で、やたら畏って喋るのは不自然に感じる。
階下に着くと、吸血鬼は玄関を出て鍵をかけた。夜遅く、家の外は真っ暗で、街灯が辛うじて足元だけは照らしている。もう少し歩けばあの繁華街に着き、そこに行けば暗闇の恐怖など消え去るだろうが、ミカはもう、二度とそっちへは行きたくなかった。
だというのに、吸血鬼の足が繁華街の方角へ向かっていて、ミカは足を踏ん張って立ち止まった。
「うわ待って! どこに行こうとしてんすか!? いかがわしい街なら絶対行かないっすからね!」
吸血鬼は足を止めて振り返る。眉を顰めた後、口端を引き攣らせたような嫌味な笑みを浮かべて、こう言った。
「別について来なくてもいいんだけど」
「あ。それは、そうなんすけど……」
「この時間に開いてる店が、あの通り以外にないんだよ。僕は寒い外で時間を潰したくない。それに、君のその格好が似合う場所も、あそこくらいだろ」
「格好?」
そう言われて、ミカはやっと自身の惨状に気がついた。
なんと、ミカは裸だったのだ。さっきまで着ていたはずの服がない。思い返せば、スーツの男性が別れ際に「全裸野郎」と口走っていたが、あれは、ミカのことだったのだ。いつからだ? 無論、先ほど狼に変身した後からだ。身体の形が変わると共に、全てビリビリに破けてしまったのだ。なぜか、首に巻いている赤いスカーフだけは残ったままなので、ただの全裸よりも変態感が増してしまっている。
吸血鬼が、フッと生ぬるく笑って言い放った。
「年増に買われて腹上死した元童貞のゴースト」
「変なのに仕立て上げんな!」
ガルルルルッ、ミカの喉が鳴る。しかし、相変わらず全裸だ。このまま繁華街につれて行かれたら、悲惨な死に方をした幽霊として街を彷徨うはめになる。
前を隠しながらも威嚇するミカを前に、吸血鬼は「冗談、冗談」と、ヘラヘラ笑って言った。
「あー。そう絶望した顔をしないでよ、初心者ゴーストくん。じゃあ教えてあげるよ、当たり前のことを。いい? 霊体は、服を着ない」
「……は?」
ミカは顎を突き出し、頭に疑問符を浮かべた。吸血鬼は人差し指を立てて、呆れた表情を浮かべながら、ミカに言い聞かせてくる。
「確かに君はさっきまで服を着ていて、狼に変身した時にその服は破けた。けど、全部君の思い込みだよ。勝手に君が服の破けるところを想像してるだけ。変身したら服が破けるって、生前にそういう経験をしたのかもしれないけど、今の君はゴーストで、見た目は君のイメージに従ったものに過ぎない」
吸血鬼が、人差し指をミカの額に突き立てた。指は霊体を突き抜け、ミカに思い切り刺さっている。ちょっと間抜けな格好になったが、その所作はミカの記憶の中で、ミカを諭しながら額をつついてくる大人の吸血鬼のものと重なった。
さて、青年の吸血鬼は、指が額に刺さったのを見て、二重の意味で距離感を誤ったことを自覚した。しかし、この人懐っこいゴーストを、なかなかどうして放っておけず、そのままゴーストの茶色い瞳と目を合わせてやる。
「ほら、見ててあげるから、想像してみて。自分が服を着ている姿をね」
青年ゴーストはハッとして、それから「合点!」というようにぎゅっと目を瞑った。そのまま黙って見守るうちに、ゴーストの肌が変色し始める。いや、違う。体に服を纏い始める。
ふうん、順調だな。青年吸血鬼――ジャクソンは感心した。さっきのアドバイスなんて当てずっぽうだったが。……当てずっぽうというか、良く言えば推測なのだが、服ごと霊体なら破れるなんておかしいし、新しく作り出すことだってできるだろ、とか屁理屈を言ってみたわけだが……上手くいってるじゃん。
一度瞬きすると、もうゴーストはしっかり服を着込んでいた。でも、なんだか違う。最初に着ていたウールのシャツと、膝まで捲った茶色いズボンではない。パリッとした白いカラーシャツと、細身のスラックスだ。シャツは腕まくりしていて、随分とラフに着こなしているが。
「ま、上出来じゃない? 変身のコツはゴーストもヴァンパイアも一緒なんだね」
そう声をかけてやると、青年ゴーストは恐る恐る目を開けて自分の姿を見下ろした。
「あれっ? これ吸血鬼さんの!? 何で!?」
何やら慌てているのを尻目に踵を返すと、ゴーストが「待って!」と声を上げた。
あえて渋々の様子を出して、振り返ってやる。
ゴーストが、シュンと眉尻を下げてこちらを見ていた。
「あの……俺たち行くところがないんだ。さっき、あの部屋に居たのも、空き家だと思って休みに入っただけでさ。家に帰りたいけど、方法がわかんねぇし。あ! でも、すぐになんとかして、出ていくから! だから、しばらく、ついて行ってもいい、ですか……?」
「……俺たちね」
ジャクソンは初めから、青年ゴーストの周囲を飛び交う吸血コウモリのゴーストを視認している。ほとほと、尋常じゃない話だ。吸血コウモリのゴーストって何だ? 吸血コウモリがゴーストになることなんてあるのか? そもそも、吸血コウモリを眷属に持つゴーストなんて居るはずがないのに。
ヴァンパイアになり損ねた人間の成れの果てかとも考えたが、狼に変身したからには、また違う事情があるのだろう。
……なんて、色々と推測していることからもわかるように、実は、ジャクソンは既に、この青年ゴーストへ興味が湧いていた。彼の退屈な日常にとって、この知的好奇心をくすぐるゴーストの登場は、些細ながらも、ちょうど良いイベントになったのだ。彼の面倒を見る筋合いは無いのだが、もし彼の方から頼んできたら、暇つぶしがてらしばらく一緒に居てやろうかと思っていた。
ジャクソンは記憶を辿って、今から使える隠れ家にあてをつける。
「勝手についてくる分にはいいよ。でも、行き先に文句は言わないでね」
「わ、わかった!」




