第百十四話 エリザベスVSゴースト篇――その一
エリザベスはサロンを出ると、まっすぐ伸びる廊下を進んで、途中の階下に伸びる階段を通り過ぎ、執事部屋の向かい側に位置する、令嬢の居室に辿りついた。その部屋は今のエリザベスの寝室であり、生前の彼女が若い頃に、衣装部屋として使っていた部屋であった。
さて、エリザベスは真鍮のドアノブを回したが、そのドアノブはわずかに動いたのみで止まり、カチカチと軽い音を立てるだけで、ドアは開かない。
「え?」
困惑したエリザベスは、お化けの手でも握ってしまったかのように、パッとドアノブを放した。それから、冷えきった右手を、左手で擦る。しかし、彼女の体は死体にふさわしく全く温かみがなくて、どれだけ擦ってもボロボロの皮膚がはがれそうになるだけで、ドアノブを握ってしまった右手は温まらなかった。いや、そもそも、「右手が冷えている」と感じることさえ、ただの思い込みで、生前の反応の模倣でしかないのだ。彼女はただ、このドアの不気味さに慄いていた。
――何度思い出じでも、部屋を出る時に、鍵はかけておりまぜんわ。他の誰かがかけることもないはずでず……。
まず、エリザベスに施錠の習慣はない。寝るときには、さすがに中から鍵をかけるけれど、自室から出るときに、わざわざ鍵をかけることはない。だって、盗みをする人なんておりませんし。
かけていない鍵が、かかっている。
そんなのはまさしく、怪奇現象だ。「幽霊が引き起こす悪戯」だ。
エリザベスは、空っぽになったポケットに手を当てて、ぐるぐると考えた。そこに入れていたはずの小箱は、いつの間にかなくなっている。もし、エリザベスが部屋に置き忘れたのではなく、誰かがドレスのポケットの中から、エリザベスの知らないうちに盗んでいったのだとしたら、そんなことができるのは、きっと「幽霊」だけだ――。
「やっばり、あの中身は重要なモノでずのね。だから、わだぐじから取り返そうって魂胆なんでじょう。好きにはざぜまぜんわ!」
エリザベスは、執事部屋に向かって駆けだした。執事部屋にあるキーボックスから、居室の鍵を取ってくるためだ。執事部屋は目と鼻の先にあるので、特に難もなくたどり着いた。
ところが困ったことに、執事部屋のドアにも鍵がかかっている。ウィジャボードの幽霊は、何が何でもエリザベスに、あの鍵を手に入れさせたくないようだ。
「ごうなっだら、遠慮いたじまぜんわ!」
何を隠そう、エリザベスには、ゾンビになって手に入れた怪力がある。上品な淡いグレーのドレスの裾を振り乱し、エリザベスはドア横の壁に片足の靴底をつけると、ドアノブを両手で握り、力任せに引っ張った。
憎しみの込められた怪力は、古びたドアをミシミシと鳴らす。
そうだ、始めはウィジャボードの幽霊に怯えていたエリザベスだが、この一か月でその恐怖心は、いくらぶつけても足りないほどの憎しみに代わっていた。
――あいつを、きっと許じまぜんわ! わだぐじから館の主人の座を奪っただけでなく、ミカとあの吸血鬼の心まで、ずっがり丸め込んでじまうなんで!!
エリザベスは、同居人二人の心の動きを、すぐ傍で見守ってきた。だから、今の二人の目指す方向性が、「ダメな形」で合致してしまっていることに気づいている。
ミカと吸血鬼。あの二人は今、この「極夜の館」でずっと暮らしていくことを望み、そのために行動しているのだ。毎朝、壁に刺さった茨の木を取り除き、壁を修復して、幽霊の悪戯で食器棚が突然開いて陶器の皿が頭上から降ってきたとしても文句一つ言わず片付け――今日、コウモリたちを復活させたのだって、この館で暮らすための施策の一つだ。だが、こんな風に安全を脅かされる生活を続けたいと望むことは、そもそも健全なことではない。
館に来たばかりの頃のミカは、ここから出て故郷に帰ることを望んでいたはずだった。ミカと一緒に過ごすうちに、彼のことを息子のように思い始めたエリザべスは、彼の帰郷に、協力すると伝えていた。それなのに、ウィジャボードの幽霊から過去の記憶を呼び覚まされたミカは、故郷に帰ることを諦めてしまい、むしろ、この館が唯一の居場所だと信じて、ここを守ろうと躍起になっている。
そして、吸血鬼といえば、彼は最初から、この館の維持に強くこだわっている。維持しようと注力するのは、住環境の整備に留まらず、住民のこともだ。セレーンが館を出て行った後の、吸血鬼の落ち込み様はとんでもなかった。吸血鬼がミカの世話を焼くのも、「ずっとこの館に居てほしいから」という、ちょっと自己チューな理由からだと、エリザベスは気づいている。それにゆえに、エリザベスと吸血鬼が交わす会話はミカの親権争いに発展しがちなのだが、それはそれとして、エリザベスは吸血鬼のことも家族として大切に思っていた。
――ああ、若い子って世話が焼けますわっ。
ミカと吸血鬼の心が、不健全な状態で繋がってしまっている現状を見過ごすことはできない。
思い返すのは、一人ぼっちの館の、日の当たらない大食堂で、不気味な天井画に睨みつけられながら、椅子の上で、ただ時間が流れるのを感じていた日々だ。
突然、新しくやってきた家族たちに、エリザベスの心が救われた自覚はある。吸血鬼、人魚さん、狼の青年、彼らと過ごす時間は、自分が醜い怪物だと忘れるほどあったかくて、罪を受け入れ、前に進む勇気さえくれた。そんな彼らと、ずっと一緒に過ごせるなら、もちろん嬉しいけれど。
居場所を欲しがる二人は、ただ、ここに依存しているだけだもの。
ここは決して、素敵な場所じゃないわ。わたくしが、一番それをわかっているわ。
二人は、都合よく意見を一致させて、異常な精神状態を誤魔化している。そんな彼らのことは、可哀そうで見ていられないのだ。
「幽霊が二人を傷つけ、誘導したから、二人はこんな呪われた館で暮らすと決めでじまっだのでずわ」
エリザベスが引っ張るドアは大きく軋んで、ドアノブ中心に蜘蛛の巣状にひび割れる。
「わだぐじは無知で、家事もできまぜんが……二人を守りだいがら! わだぐじが、もう一度この館の主になりまずわ! 幽霊の弱点を、手に入れで!!」
その時、階段をバタバタと上がってくる足音とともに、情けない男の叫び声が二階の廊下に響いた。
「ッお~い、最悪だ!! トイレットペーパーの替えがない! どうやら水があるだけマシな時代に来てしまったようだ! 確か日本製の携帯ウォシュレットが各部屋に……」
とかなんとか、ケツを拭いたタオルを握りしめて、吸血鬼が二階へ顔を出すと同時に、エリザベスがついに、執事部屋のドアを破壊した。




