第九十九話 呪いの言葉篇
「ねえ」
よく知った声が、やけにか細くなって聞こえる。
目の前の闇が薄れ行くと共に、全身の緊張が徐々にほぐれていった。
ここ数十分ほどの記憶が無いが、自分の体が、凄まじく活動していたことは感じている。
長い夢を見ていたようだと言えば、確かにそれに似ているが、少し違う。もっと正確に例えるなら、脳細胞の一つ一つに黒くてベタついたものが絡みついていて、ミカの身体のありとあらゆる使役権を奪い取っていたようだ。
今、やっと意識を覚醒させたミカは、さっき聞こえた声を追って視界を探り、パチパチと瞬きをした。
そうやって、まずミカの目にはっきりと映ったのは、真っ赤に血塗られた足元だった。
ーーあ、うわあ、わあああ!
慌てたミカは足を何度も踏み換え、そこで、さらに混乱した。バタバタと足を動かしたのに、なぜか四つん這いの状態から立つことができない……。
「ねえ」
また、柔らかな声が聞こえた。ミカは、やけに柔らかくて歩きにくい足場で踏ん張り、一所懸命に顔を上げる。
その瞬間、衝撃的な光景が目に飛び込んできた。
姉さんだ!!
ミカが足で踏んでいたのは、ミカの姉であるソフィアだった!
ソフィアは、顔面蒼白で、ぐったりと床に倒れている。それも、もう取り返しがつかないほどの出血をして、床に流れた血と身体の境界線がわからないほど腹をぐちゃぐちゃにした状態で!!
ーー姉さん……? 姉さん!? どうしてこんなことに!? 何があったの!?
ミカの頭の中は二つの疑問でしっちゃかめっちゃかになった。一つは自分の身体に何が起きているのか、もう一つは、ソフィアの身に何が起きたのか。心臓がバクバクと激しく拍打つ。身体はずっと火を飲んだように熱くて、気を抜けばすぐに気絶してしまいそうなほどクラクラだ。
「ああ、やっぱり……、ミカで合ってたんだね……」
ソフィアは喜びの笑顔を浮かべて、ミカに手を伸ばす。しかし、その手の動きは弱々しくて最後まで伸び切らず、ミカの鼻先を掠めただけに留まった。
ふと、ミカは、自分の鼻の位置がおかしなことに気づいた。ちょっと前に出過ぎていないだろうか!?
ソフィアは言った。
「ね、来ちゃダメって言ったでしょ」
その言葉に、ミカはハッとして周囲を見回した。そうだ、ここはソフィアが隠れるための納屋である。もともと、ミカは急いでここに来るために家を出てきたのだった。一体、いつの間に辿り着いたのかしらないが、とにかく、早くソフィアを連れ出して狼から守らなければならない……。
狼!?
ミカはやっと、ソフィアの腹に大きな穴を開けた者の正体に思い至った。
ーー姉さん、もう狼に襲われたの!? ごめん、ごめん、間に合わなくて! 助けに来ようとしてたんだ、でも、途中で……。
途中で?
途中で、どうしたんだっけ?
ミカは、ここに至るまでの最後の記憶を思い出そうとするが、やはり、家を出てから後のことが思い出せない。
混乱するミカの手首を、ソフィアの指先がトントンと叩く。
「ミカ、大丈夫よ」
ーー何が大丈夫だっていうんだよ。姉さん、今すぐ病院に行かないと!
「大丈夫よ」
ソフィアは、ミカの手首に添える手とは反対側の手で、自分の髪の毛に結んでいる赤いスカーフを解いた。
「ほら、手を出して」
ソフィアの両手の指先がミカの手首をそっと掬い、ミカもまた、ソフィアの行動一つ一つをハラハラしながら目で追う。
そして、ソフィアに握られた自分の手首を目の当たりにした瞬間、ミカは恐怖に喉をヒュッと鳴らした。
なんと、ミカの腕は明らかに人間のものではない見た目をしていたのだ。焦茶色の毛に覆われ、鋭い爪が生えているそれは、正に狼の腕であった。
こんな腕が、自分の腕であるとはあまりにも信じ難い。しかし、ソフィアの指先に握られる感触も、そこから伝わる死を待つような冷たさも、確かに、自分自身の神経で感じ取っている。
ミカは急いでもう一方の腕も見たが、やはり、両腕ともが狼の腕に変わっている。そうとわかれば、鼻先がやけに長いのも、四つん這いの姿勢から立つことができないのにも全て合点がいった。
自分は今、狼の身体になってしまっているのだ!
ミカは、ハッとして、ソフィアの腹に大きく開いた穴を見た。獣の牙に食いちぎられたように、服や皮膚がビリビリと破けてできた穴。
ミカの全身が、静かに震え始める。
一方ソフィアが、自分の髪からスカーフを外して何をしたがっているのかといえば、彼女は、ミカの醜い手首に、いや前足首に、そのスカーフをくるくると巻き始めた。
「ミカ、あなたは今何かを心配しているだろうけれど、その必要はないわ。その証拠に、このスカーフをあなたにあげる。……最期に、あなたに会えて本当に嬉しい。その証拠に」
ソフィアはそう言いながら、もう呼吸することすら難しい身体から無理矢理に力を振り絞って、赤いスカーフがミカから外れてしまわないよう、結び目をキツく縛った。
ミカの視線と、ソフィアの視線が真っ直ぐに重なる。ミカの表情の何が面白いのか、ソフィアはフッと力を抜いて口元に笑みを浮かべた。
「……はあ」と、息をついてから、ソフィアは微笑んで言う。
「これを見て、思い出して。わたしは、ミカのことが、これからもずっと大好きよ」
「これからもずっと大好きよ」。
その優しい言葉に、ミカはとてもじゃないが耐えられなかった!
「これからもずっと大好き」だから、俺の犯した罪も赦すっていうのか?
こんなに優しい姉さんを、この牙で喰い殺したっていう罪を!!!!
ミカはカッとなって、前足を握ってくるソフィアの手を振り払い、後ろへ向かって飛び退いた。ソフィアの手はあっけなくミカの足から離れ、床に放り出される。その力無さといったら、まるで人形のようで、ああもうはっきり言おう、死体だ! 死体のようで!! 彼女をそうしたのが自分自身だと確信してからというもの、この身体を衣服のように脱ぎ捨てたい衝動に駆られて仕方ない!
たとえ、本当にこの身体から魂だけ脱出できたとしても、やってしまったことの取り返しはつかないが、それでも叶うなら、ミカはこの身体から抜け出したかった。そう、この身体から魂だけで抜け出して別の人になって、この身体をズタボロにしてやりたかった。
だってだって、この狼の形をした身体は、本当にミカ自身の気持ちに反した動きばかりするのだ。もし弁明の機会があるなら、ソフィアを殺したのはミカではなく、この身体なのだと言いたい。今でさえ、ミカの心はとてつもない罪悪感と悲しみに侵されているのに、この身体ときたら、ソフィアの血の香りをこんなにも芳しく思っている!
ーーああ、待ち焦がれたソフィアの血。回帰するべきソフィアの血!
身体がずっと熱いのは、殺戮と血がもたらす興奮のせいだったのだ。
心と身体が乖離したミカは、ただ「逃げたい」という衝動に駆られて部屋の中をぐるぐると走り回った。しかし、この狭い室内では、大きな狼の暴走に耐えきれず、埃やら毛布やらがめちゃくちゃになって飛び交う。
ソフィアは、もう喋らなく、動かなくなっていた。
その時、ミカが暴れて蹴り飛ばした毛布が薪ストーブの火に当たった。火は毛布に引火し、瞬く間に納屋全体を燃やしていく。その場を暑いと感じたミカの身体は、ドアを蹴飛ばし、納屋を飛び出した。
燃え始めた納屋をひとっ飛びで出て着地したところで、ミカはハッと立ち止まる。ソフィアの隠れ家である納屋は、他の民家と離れた場所にあり、家族ですら用がない限り近づかない。
そんな、普段は寂しいこの場所に、今は村中の人間が続々と集まり、ミカを取り囲んでいた。人々は、フォークなどの農具を武器のように構えて、その切先をミカに向けてきていた。




