訓練を経て、旅へ
リックと老女が話し合った結果、様々な事を学ぶのは一年と決まった。一般常識に始まり、リックが持っている能力を伸ばす訓練、体力づくり、そして旅をするために大事な野営能力。それらを一定レベルまで収めるのには一年ぐらいはかかるというのが老女の見立てであり、リックもそれを受け入れた。
世界の大まかな位置、文字の習得(この世界で使われている文字で、一番地球の言語で近いのはロシア語であろう)、使われている貨幣とその種類を最初に学び、それらがだいたい身についたらリックの技能を伸ばす修行と移り変わっていく。だが、修練を必要とした技能は演奏技術ぐらいであったが……料理、マッサージ、散髪などはリックの持っている技術の方が上だったからだ。
老女が初めて散髪を受けた時にはこんなきれいな調髪は見た事が無いと感動し、マッサージを受けた時には体の痛みが軽減されたことに驚いた。料理は特に味噌を使った料理に大いに感動し、老女の知る魔法でリックが持っていた調味料が常に一定量を維持できるように、中に入れた食べられる物を増やせる分裂魔法をかけた瓶と言う貴重品を用意して常に食べられるようにしたほどだ。
演奏技術の方は7か月ぐらい過ぎたころにようやく音魔法としての形が出来上がった。ただ演奏するだけではなく、周囲の魔力と自分の精神力を載せて力とする独特な方法であるため、習得に時間がかかったのは致し方が無い事だろう。老女から言わせれば、7か月ほどでできるようになってきたのは大変に筋がいいとリックを褒めた。
ただ、基礎が出来ればそこからは早かった。モンスターに気づかれにくくする旋律、自然治癒能力を高める旋律、疲労を軽減する旋律といった物を一つ一つ確実に習得していくリック。そのリックの音楽に惹かれて、近くの動物たちが聞きに来るという姿が見られるようになっていた。
音楽を聴くときだけは動物の中で停戦条約でも結ばれたのか、いつもは逃げる側の小動物と食らう側の熊などが争うような事はリックの前ではなかった。彼らは音楽が聞こえだすとひょっこり顔を出し、終わると森に帰っていく。始めはリックも驚いたが、さすがにそれが続けば慣れる。襲ってくる事もないので、今は放置している。
季節は流れ、指導を受ける1年も残り1月となる。必要な知識はすでに教わり終わっており、旅に出る準備が徐々に整いつつあった。あまりに目立つ地球の物はこの老女の家に置いていき、一般的に使われる野営道具などを収めた此方の世界のバックパックや腰から下げる小物入れ、そして懐に財布を隠しやすくする工夫がされた服などの着こなしもほぼ終わっていた。
総仕上げという事で、老女からいくつかのテストも受けておかしい返答をしないかのチェックもリックは受けた。流石に11か月もこの世界で過ごしていれば、ここに来て間もないころに持っていた地球との違いをぽろっと零すような事もない。
「よし、これで今のあんたは外見も中身も間違いなくこっちの人間だ。皇国の人間が混じっていても分からないだろうさ。これなら、旅に出しても安心さね」
満面の笑みを浮かべながら老女がテストの結果を口にする。老女自身は気が付いていないが、こうしてリックと過ごすうちに彼女も自然な笑みを浮かべる機会が増えた。リックの気が付いていないところで皇国への嫌がらせは続行しているが、それでもリックが此方にやってきた直後のような復讐者の顔ばかりを張り付けているという事は無い。
「あと一月はじっくりと音魔法の練度を上げる、という事でよろしいでしょうか?」「ああ、それで良いさね。後飯の準備は頼むよ。あたしの作るモノより数段美味い。あんたがここに居る内はお願いできるかい?」
世話になっているのだから、飯の準備をやること自体は何の不満もない。この老女と出会わなければ、この世界で生きていくのは非常に困難であっただろう。通貨にしても銅貨が一番下なのに10Z(ゼロム、と読む。今後はZとしか表記しない)と扱われ、1円や5円に相当する通貨は廃れているなんて常識を知るはずもない。そんなミスをすれば、どこにでもいる皇国の連中が嗅ぎ付けて近寄ってくる可能性がある。そうすれば、旅の障害にしかならない。
そう言った常識を知ってると知らないでは、トラブルの発生率や回避率に大きく違いが出る。自分は無双できるとてつもない力を持った人間ではない。音魔法もどきが使えるだけの、一般人よりちょっとだけ強い程度の人間だ。そんな人間がトラブルを頻繁に起こせば、当然死ぬか、奴隷落ちか、と言ったろくでもない結末を受け入れざるを得なくなってしまう。
当然リックはそんな事はご免被るので、必死で学び、必死で行動した。その必死さが、音魔法を7か月で身につけ始める事に繋がっている訳だが。今はリックの音楽を聞きに来るのは動物だけではなく、精霊も混じっている。残念ながら人型をした精霊はおらず、小さな竜巻の姿をした風の精霊だとか、雪の塊の姿をした氷の精霊などではあるが。
今日も音魔法の修練を積むリックの元には多くの動物と多少の精霊が集う。音魔法として奏でる演奏はだいたいが治癒系で、時たま支援系。攻撃系の演奏の練習をしなくてもいいのだろうか? とリックは老女に質問をしたことがあるが、音魔法はなんでもいいからとにかく修練を積めばすべてに応用が利くとの事であった。
ただ、リックの奏でる音楽は地球の物が多かった。それを老女のアドバイスを受けて、こっちの世界の音楽の風味を付け足す感じでリメイクした。なので回復系なんかは癒しの音楽。支援系はヒーロー物のオープニングソングなど……雑多に渡っていた。今日奏でているのも、もとは有名なアニメのオープニングテーマである。
当然そんな事など知る由もない動物たちや精霊たちは静かにリックの手にあるハープが奏でる音に聞きっている。もちろん、リックがマンドリンを捨てた訳ではない。ただ、優しい音を出すときにはこの小型の手に持てるハープが、元気を出すような曲を出すときはマンドリンがいいと考えて修練を重ねているだけである。あともう一つ、フルートによく似た横笛も持っているのだが、それの出番はまだ先。
音楽を奏で終わると、動物達は声を上げて、精霊達は小さな自然現象でリックに対して喜びを示す。彼らにとってこうして音楽をこの場で聞く事はもはや日課と言ってもいい。それだけに、あと1月でリックがここを立つ事を残念に思っている。それを伝えたのはリックではなく老女だ。リックではそういった動物や精霊に情報を伝達するような技術はない。
毎日何らかの音楽を奏で、音魔法の修練に明け暮れれば1月などあっという間だ。いよいよ、明日ガリックの旅立ちの日。必要な準備はすべて整い、老女からは3万Zを受け取っている。それだけあれば当分は生活できる金額であり、今後は音楽や料理、散髪にマッサージで路銀を稼いでいく事となる。
「あんたの持っている技能は、欲する人間が多いからね。食うに困る様な事は無いと思うよ。よっぽど無計画にやらなければ、だがね」
最後の晩御飯の場で、リックが作ったハンバーグを口にしながら老女が言う。ハンバーグは老女が気に入った料理の一つで、あまりおいしくない肉が劇的にうまくなる事もあって非常に好む料理である。実際は、うま味はあるんだが肉汁がないのでぱさぱさだとか、そういう欠点を持つ肉達を複数混ぜ合わせた合いびき肉にする事でその欠点を解消したリックの手法によるものなのだが。
「ここでの1年は本当に為になりました。明日からの旅をするにあたって、どれもが大事な知識であり経験です。本当にありがとうございました」
リックはそう言って頭を下げた。この老女から貰った知識は、この世界を旅するにあたってどれも大事な物ばかりだった。おかげで、この世界の人々とも極端にぶつかり合わずにやっていけそうだ、と思える。
「礼なんていいよ。あたしも料理や散髪、日々のマッサージに楽しい音楽といっぱい貰っているから此方が礼を言いたいぐらいさ。一年前、あんたを引っ張ってこれたことに感謝したいのはあたしの方さ。こんな婆に付き合ってくれてありがとうよ」
そう言って老女は笑った、その笑みは本当に柔らかく、見た人にも自然に笑みを浮かべさせてしまいそうな奇妙な美しさがあった。
訓練パートは短くしました。旅に出る事が目的ですからね。
更新が遅くなって申し訳ない。




