10 恋心は複雑
鍛冶屋を出てすぐ、セインは屈み込んだ。
「どうしたの?」
「もらったやつを装備しておこうと思って」
言いながら、私が贈った手に握り込めてしまうくらい細い折り畳みナイフをブーツに差し込んだ。靴紐を結び直してから立ち上がると、完全に見えない。履き心地を確認して何度か踵で地面を叩いた。
「よし。これで問題ない」
「ずいぶん手慣れてるのね」
「昔から色々と備える癖が付いてるんだ」
なぜ、とは聞かないでおこう。きっと世の中には知らない方がいいこともあるのよ。そんな気がするわ。
気を取り直して、先ほど賑わっていた広場の市を思い出した。
「ちょっとお腹が空いてきたから、市を覗いてみましょうよ」
遊びに来たわけではないけど、浮かれる気持ちはあった。好きな人と並んで歩けるせっかくの機会だから仕方ない。
セインは幸いこちらの気持ちに気づいた様子もなく、「そうだな」と同意して歩き出す。
その隣に並びながら、浮き立つ気持ちを抑えきれずに気になっていたものを口にした。
「さっきチラリと見かけたのだけど、豚の丸焼きが売られていたの。イノシシじゃなくて! あれを食べたいわ」
イースデイル領は海と深い森に挟まれているので、海の幸も森の恵みにも事欠かない。反面、牛や豚にはなかなかありつく機会がない。
でも今は元皇女が来る予定になっているからか、街はお祭りムードが漂っている。あまり見ない豚の丸焼きも祭り気分に乗って提供されているのだろう。
せっかくだから、ぜひ食べたい。
(は! こういうのが嫌で、ダリルにはフラれたんじゃなかった……?)
面白いものがあれば、つい飛びついてしまう落ち着きのなさ。人の意見を聞くより先に自分の意見を通そうとしてしまう我の強さ。そして、女性らしさに欠ける行動。
そういう部分が倦厭されて、婚約解消に至ったのだった。
嫌な記憶を思い出して心臓がドクドクと嫌な脈打ち方をする。思い至った自分の行動に、踊り出しそうだった足取りが重く変わった。
「あの、違うものでもいいのよ……」
今更だけど殊勝に申し出てみた。本当はものすごく食べたいけど。だって豚よ!?
しかしここは我慢しなければ。よく考えたら、串に刺さった焼肉を頬張るなんて令嬢らしからぬ姿だわ。実はイースデイル領ではよく街に降りた際にやっていることだったりするけれども。
でもまたダリルの時みたいに、女らしくないと言われて嫌われたくはない。
「それでいいだろ」
だけど私の葛藤をあっさりと吹き飛ばしてセインは言った。歩調に躊躇いは見えない。
「いいの? 私が勝手に決めちゃったりしたら、嫌じゃない?」
ダリルは私のそういうところも嫌がっていたみたいだけど。
驚いてまじまじとセインを見つめてしまう。セインは小首を傾げて怪訝な顔をした。
「食べたいものがはっきりしてる方が助かる。それにアルが『あれが食べたい』『それが気になる』ってよく言う奴だったから、そういうのは慣れてる」
「そ、そう」
「むしろ考えなくて済むから楽でいい。好きに決めてくれ」
嫌がられるどころか、推奨されてしまった。
セインは細かいところまで気がつくし、やるべきことはやるタイプな割に、根はかなりの面倒くさがり屋なようだ。
思ったよりもずっと寛容に受け入れられて肩の力が抜けていく。
(なんだ……そっか)
こういう私でもいい、って言ってくれる人もいるんだ。こんな私だからいい、と認めてもらえることもあるんだ。
自分で思ったよりずっと、ダリルに言われたことが胸に引っかかっていたみたい。それがセインの態度で溶け落ちていく。
もちろん嫌な人もいるとは思う。それを忘れるつもりはない。ただ全部を否定しなくてもいいんだ。
「ありがと」
嬉しくてお礼を口にする。
セインは首を捻って、なにが?と言いたげな顔をした。にこにこと笑うだけの私を見て、眉尻を下げる様がちょっとアルに似ていた。
その後、到着した市で念願の豚の串焼きを購入した。
丸焼きにした豚を削いで、串に刺して渡されるのだ。肉汁が陽の光を反射してきらきらと輝きながら滴っている。鼻をくすぐる食欲をそそる香りにお腹が鳴りそう。周りと同じように広場の階段に座ると、大きく口を開けて齧り付いた。
好きな人の前で少々はしたないのはわかっている。が、食欲には勝てない!
(おいっしい〜!)
イノシシ肉も旨味があって美味しいけど、豚もまた格別。弾力のある肉を噛めば、塩ダレと肉汁が口の中に広がる。
夢中になっていたせいか、お互いに無言で食べ続けてしまった。美味しいものは人から言葉を奪うものなのよ。
食べ終えかけたところで、先に食べ終えたセインが「待ってろ」と言い置いて立ち上がる。どうしたのかと目で追うと、屋台の果実水を購入して戻ってきた。
「ほら」
「あ、ありがとう」
果実水と一緒にさりげなくハンカチまで渡された。私のハンカチは座る時に敷いてしまったのだ。
まさか口周りにタレがついていた!? 恥ずかしさを堪えながら、甘えてハンカチを借りた。後でちゃんと洗って返すから!
セインは口元を拭う姿は見ないフリをしていてくれた。
これではデートではなくて介護みたいじゃない? 先程の鍛冶屋に続いて、色気がまったくないのでは!?
「セインって、意外に世話焼きよね」
「手のかかる奴が身近にいたからな」
「アルともこうやって、よく出かけたりしてたの?」
自分で口にしておいて、チクリと胸に刺さるものがあった。
それが嫉妬という名の感情だと気づいて自分が嫌になる。
脳裏に浮かぶアルはやっぱりどう見ても皇子さまだけど、本当は女性だ。結婚する前なら、二人でお忍びで王都に行ったりしたのかしら。
私だって一度は婚約者がいた身だから、人のことは言えない。だけど気にしても仕方がないことまで気になるのが、厄介な恋心というもの。
そっとセインの横顔を窺う。
「アルは立場的に外に出られなかったから、いつも俺が代わりに遣いに出てただけだな」
「そうなの?」
皇女なのに、皇子として育てられたアル。表に出れば出た分だけ、正体が知られる危険があったのだろう。
だけどそこまで厳しいとは思わなかった。辺境伯令嬢のくせによく街を出歩いている私から見ると、気が狂いそうな生活だ。セインにあれこれ頼っていたというアルの行為も、甘えではなく逃避だったのではないかと思われる。
「だからアルと二人だけで出かけたのは、一度きりだ」
遠い目をしてそう言ったセインの声には、懐かしむ中に切なさが滲んで聞こえた。
その声と眼差しに、ドキリとさせられた。
一度跳ねた心臓は一気に存在を主張してドキドキと駆け足を始める。
だってまるで、とても大切な記憶を語ったように見えたから。
例えるならば、好きだった人と過ごした思い出、みたいに。
(もしかしてセインは、アルのことが……好きだった?)
不遇の身に置かれていた女の子。
血縁的には叔父と姪だとしても、一つしか違わない。すぐそばにいて支えてきたならば、特別な存在になっていてもおかしくはない。
でもセインは、アルの前ではそんな素振りは一切見せていなかった。今も、私がセインに気がなければ気づかなかったかもしれない一瞬の隙。
思い至った可能性に、声をかけることは憚られた。息をすることすら緊張する。
(でも今は、アルは結婚されていて。旦那様のことを、とても大切に想われているわけで)
それはどう考えても、叶わない恋だわ。
そしてきっと、告げるつもりもない恋だったんだろう。
長くはない付き合いだけど、そうとわかるくらいはセインの性格は知っているつもりだ。
告げればアルは気にするはず。重荷になりたくなくて、たぶん胸の奥にしまい込んだ。
何を言えばいいのかわからない。嫉妬を覚えるより、触れてはいけない部分をかすめてしまった罪悪感がある。
その時だった。
不意に遠くを見ていたセインが眼差しを鋭くして、「レイ」と私を呼んだ。
「なに!?」
思わず背筋を伸ばした。
セインの瞳は私に向けられることなく、一点を見つめ続ける。
「あれ、ハミルトン卿じゃないか? ハミルトン子爵令息」
「ハミルトン卿がこんな時に、こんなところに?」
セインの視線の先を追えば、確かにハミルトン子爵令息がいた。自領の街だからいてもおかしくはない。
だけどやけに脇目も振らずに急いで見える。
セインと顔を見合わせる。即座に、私たちは「怪しいから追いかけるべき」と判断したのだった。




