第一話|噂を作らない男
巌助は、何もしなかった。
それは、怠けていたわけではない。
むしろ逆だ。
噂を作らない、という仕事をしていた。
***
江戸には、噂が多い。
人が多いからだ。
人が多い場所では、話は、事実より先に歩き出す。
巌助は、それを知っていた。
噂は、作ると早い。
だが、早いものは、崩れやすい。
巌助は、貸した。
だが、自分から話をしなかった。
条件だけを出し、理由を言わない。
理由を言うと、人は、それを物語にする。
返済が遅れた者がいた。
巌助は、怒らなかった。
だが、次は貸さなかった。
それだけだ。
騒がない。
責めない。
責めると、噂になる。
町の人間は、少しずつ困り始める。
「巌助は、何を考えているんだ」
考えていると思われる、というのは、信用の芽だ。
巌助は、奉行所に近づかなかった。
賭場にも、寄らなかった。
寄らない、という選択は、それだけで、目立つ。
それでも、噂は生まれる。
「静かな金貸しがいる」
「余計なことを言わない」
「条件は、変えない」
巌助は、その噂を否定しなかった。
肯定もしない。
噂は、放っておくと、勝手に痩せる。
***
ある日、巌助は、商人に呼ばれた。
呼ばれた、ということは、噂が必要な形になったということだ。
「殿、と呼ばれているそうですね」
商人は、そう言って、様子を見た。
巌助は、首を振った。
「呼び方は、任せます」
それ以上は、言わない。
否定すると、話題が増える。
***
その日から、巌助は、少しずつ、名前を持ち始めた。
自分が名乗らない名前。
それは、重くならない。
巌助は、帳面を閉じた。
数字は、整っている。
人も、整いつつある。
だが、まだ、動かない。
動くと、噂が太る。
噂を作らない男は、噂に守られる。
その仕組みが、静かに、動き始めていた。




