第八話|江戸を見下ろす
――決意は、まだ形にならない
高いところに来たかったわけではない。
だが、気づくと、巌助は坂を上っていた。
江戸には、坂が多い。
坂は、視線を変える。
***
見晴らしの利く場所に立つと、屋根が並んで見える。
瓦の色は、どれも似ている。
似ているから、違いが際立つ。
遠州屋の屋根は、もう分からない。
探そうとも思わない。
過去は、上から見ても、過去だ。
巌助は、腰を下ろした。
石は、冷たい。
冷たい石は、判断を誤らせない。
ここから見る江戸は、動いている。
人が動き、金が動き、噂が動く。
だが、流れは、いくつもある。
一つだと思うと、飲まれる。
複数だと分かると、選べる。
巌助は、算盤を取り出さなかった。
ここでは、算盤は役に立たない。
代わりに、書付の一部を思い出す。
名前。
日付。
動き。
それらは、まだ線になっていない。
復讐、という言葉が、頭をかすめる。
だが、すぐに追い払う。
復讐は、言葉にした瞬間、感情になる。
感情になると、急ぐ。
急ぎは、制度に捕まる。
巌助は、自分がまだ「何もしない」と決めていることに気づいた。
何もしない、という決断は、何かをするより、難しい。
***
坂の下で、子どもが走っている。
転んで、泣いて、立ち上がる。
誰も、裁かない。
誰も、正義を問わない。
世界は、そうやって回っている。
巌助は、ふと思った。
――自分は、どこまで行くのだろう。
だが、その問いに答えを出さない。
答えを出すと、道が一本になる。
一本の道は、監視しやすい。
江戸を見下ろすと、奉行所も、賭場も、問屋も、同じ大きさに見える。
同じ大きさに見える、ということは、同じ距離にある、ということだ。
巌助は、立ち上がった。
決意は、まだない。
だが、視線は、確実に変わった。
下から見ていた世界を、上からも見られる。
それだけで、次に動く準備は、整っている。
江戸の空は、特別ではない。
だが、見え方は変わる。
変わった見え方を、急いで使う必要はない。
巌助は、坂を下り始めた。
上りより、下りの方が危険だ。
足を取られやすい。
だから、歩幅を小さくする。
***
脱獄と遺産は、完了した。
だが、復讐は、まだ始まっていない。
始まっていないからこそ、静かだ。
次に動くとき、巌助は、もう少年ではない。




