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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第三章 名前は穴の中

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第七話|最初の金貸し

――情を切ると、数字が残る




 巌助は、貸した。


 貸す、と決めてから、実際に貸すまでに三日かかった。

 三日は、長いようで短い。

 だが、感情が混じるには、十分な時間だ。


 ***


 相手は、魚問屋の下働きだった。

 名は聞いたが、覚えなかった。


 覚える必要がない名は、忘れていい。


「三分でいい」


 男は、そう言った。

 三分というのは、利息の話だ。


 巌助は、算盤を置いた。


「三分は、高い」


 それだけ言った。


 男は、慌てた。


「急ぎなんです」


 急ぎ。

 それは、感情の言葉だ。


「急ぎなら、なおさら高い」


 巌助は、声を荒げない。


「だが」


 算盤を弾く。


 珠の音は、静かだ。


「五日で返すなら、一分でいい」


 男は、目を瞬いた。


「……本当ですか」


「期限を守ればな」



 巌助は、条件を三つ出した。


 一つ。

 返済日は、朝。


 二つ。

 返済は、本人。


 三つ。

 言い訳は、聞かない。


 男は、すべて頷いた。

 頷きは、契約の代わりになる。



 金を渡すとき、巌助は相手の手を見た。


 荒れている。

 だが、震えていない。


 逃げる手ではない。


 ***


 五日後、男は来た。


 朝だった。

 息は少し荒いが、手は震えていない。


 金は、揃っていた。


 巌助は、算盤を弾いた。

 確認は、形式だ。


「借りた額と、利息だ」


 男は、深く頭を下げた。


「助かりました」


 その言葉に、巌助は頷かなかった。


 助けたわけではない。


 取引だ。



 男が去ったあと、巌助は気づいた。


 胸が、何も言っていない。


 達成感も、優越感もない。


 それでいい。


 ***


 二人目は、少し違った。


 小さな店の主人。

 返済の計画は、甘い。


 巌助は、貸さなかった。


「今回は、無理だ」


 理由は、言わない。


 理由を言うと、交渉が始まる。


 断られた主人は、不満そうだった。

 だが、騒がなかった。


 騒がない人間は、学ぶ。


 ***


 三人目、四人目。


 巌助は、淡々と貸したり、貸さなかったりした。


 評判が、少しずつ、歪まずに広がる。


「静かな金貸しがいる」

「条件がはっきりしている」

「無理は聞かないが、約束は守らせる」


 噂は、今回は、道具になる。



 巌助は、夜、帳面を開いた。


 数字は、増えている。

 だが、重要なのは、数字ではない。


 人の癖が、見えてきた。


 期限を守る人。

 守れない人。

 最初から守る気のない人。


 癖は、数字より正直だ。


 その夜、怒りは動かなかった。


 怒りは、まだ道具ではない。


 だが、道具箱の場所は、決めた。



 最初の金貸しは、成功でも失敗でもなかった。


 ただ、確認だった。


 ――自分は、感情を切って動ける。


 それが分かっただけで、十分だった。



 巌助は、帳面を閉じた。


 次は、もう少し大きな金を動かす。


 だが、急がない。


 急ぐと、顔に出る。


 顔に出ると、噂になる。


 ***


 夜は、静かだった。


 水音は、もう聞こえない。

 代わりに、町の音がある。


 巌助は、その音を数えなかった。


 数えなくていい世界に、戻ってきたのだ。




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