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大江戸巌窟殿 恨みは捨てない── ただ、置き場所を決める  作者: 真野真名
第三章 名前は穴の中

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第四話|最後の言葉

――残った声は、命令ではなかった




 夜は、巌窟牢の中でも同じ形をしている。

 暗く、湿り、区切りがない。


 佐々木玄斎は、その暗さの中で、目を閉じていた。

 眠っているのではない。

 休んでいるだけだ。


 身体は、もう言うことを聞かなくなっていた。

 足先の感覚が薄れ、指の動きも遅い。


 だが、焦りはない。


 焦るのは、まだ時間がある者の癖だ。


 ***


 水音がした。


 ぽと。


 その一滴を、玄斎は聞き逃さなかった。

 聞き逃さない、というのは、数えることとは違う。


 ただ、受け取る。


 玄斎は、ゆっくりと呼吸した。

 吸って、吐く。


 吐く方を、長く。


 この癖は、若い頃に身につけた。

 考えすぎたとき、人は息を吸いすぎる。


 ――出たな。


 聲に出さず、思った。

 確認する必要はない。


 外が静かなままということは、抜け道は、仕事を終えた。


 玄斎は、過去を振り返らなかった。

 振り返るほど、未練は残っていない。


 やるべきことは、やった。

 返すべきものは、返した。



 学者という生き物は、たいてい、世界に嫌われる。


 問いを立てるからだ。


 問いは、制度を遅らせる。

 遅れは、嫌われる。


 だが、問いには、使い道がある。


 問いは、人を急がせない。


 急がない人間は、壊れにくい。


 玄斎は、傳次郎の顔を思い浮かべた。


 若い。

 無駄が多い。

 だが、目が静かだった。


 静かな目をした人間は、怒りを長く持てる。


 玄斎は、口を開いた。

 声は、壁を越えない。


 だが、それでいい。


「君の人生は――」


 途中で、少し咳き込んだ。


 咳は、身体の最終確認だ。

 まだ、声は出る。


「……ここからが、本編だ」


 命令ではない。

 期待でもない。


 事実の報告だ。



 それだけ言うと、玄斎は口を閉じた。

 続きは、ない。


 続ける言葉があると、人は縛られる。


 ***


 水音がした。


 ぽと。


 その音は、もう数えられなかった。

 数える必要が、なくなった。



 夜は、何事もなく明けた。


 看守が巡回し、囚人が目を覚まし、水は、同じように落ちる。


 巌窟牢は、変わらない。


 変わったのは、一つだけだ。


 隣の牢から、声がしなくなった。


 そのことを、誰も特別だとは思わない。

 ここでは、声が消えることは珍しくない。


 だが、消えた声の中には、次へ繋がるものがある。


 ***


 外では、雨が上がっていた。


 名を持たない男が、遠くで、立ち止まる。


 理由もなく、振り返りそうになり、

 やめた。


 振り返ると、物語になる。





 玄斎の人生は、終わった。

 だが、教えは、終わらない。


 それは、誰かの中で、使われるためにある。



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