第四話|最後の言葉
――残った声は、命令ではなかった
夜は、巌窟牢の中でも同じ形をしている。
暗く、湿り、区切りがない。
佐々木玄斎は、その暗さの中で、目を閉じていた。
眠っているのではない。
休んでいるだけだ。
身体は、もう言うことを聞かなくなっていた。
足先の感覚が薄れ、指の動きも遅い。
だが、焦りはない。
焦るのは、まだ時間がある者の癖だ。
***
水音がした。
ぽと。
その一滴を、玄斎は聞き逃さなかった。
聞き逃さない、というのは、数えることとは違う。
ただ、受け取る。
玄斎は、ゆっくりと呼吸した。
吸って、吐く。
吐く方を、長く。
この癖は、若い頃に身につけた。
考えすぎたとき、人は息を吸いすぎる。
――出たな。
聲に出さず、思った。
確認する必要はない。
外が静かなままということは、抜け道は、仕事を終えた。
玄斎は、過去を振り返らなかった。
振り返るほど、未練は残っていない。
やるべきことは、やった。
返すべきものは、返した。
学者という生き物は、たいてい、世界に嫌われる。
問いを立てるからだ。
問いは、制度を遅らせる。
遅れは、嫌われる。
だが、問いには、使い道がある。
問いは、人を急がせない。
急がない人間は、壊れにくい。
玄斎は、傳次郎の顔を思い浮かべた。
若い。
無駄が多い。
だが、目が静かだった。
静かな目をした人間は、怒りを長く持てる。
玄斎は、口を開いた。
声は、壁を越えない。
だが、それでいい。
「君の人生は――」
途中で、少し咳き込んだ。
咳は、身体の最終確認だ。
まだ、声は出る。
「……ここからが、本編だ」
命令ではない。
期待でもない。
事実の報告だ。
それだけ言うと、玄斎は口を閉じた。
続きは、ない。
続ける言葉があると、人は縛られる。
***
水音がした。
ぽと。
その音は、もう数えられなかった。
数える必要が、なくなった。
夜は、何事もなく明けた。
看守が巡回し、囚人が目を覚まし、水は、同じように落ちる。
巌窟牢は、変わらない。
変わったのは、一つだけだ。
隣の牢から、声がしなくなった。
そのことを、誰も特別だとは思わない。
ここでは、声が消えることは珍しくない。
だが、消えた声の中には、次へ繋がるものがある。
***
外では、雨が上がっていた。
名を持たない男が、遠くで、立ち止まる。
理由もなく、振り返りそうになり、
やめた。
振り返ると、物語になる。
玄斎の人生は、終わった。
だが、教えは、終わらない。
それは、誰かの中で、使われるためにある。




